Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

健康を食い物にする

2024年08月06日 22時40分15秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 読書に倦んだ時や、時間つぶしに時々テレビをつける。すると特にBSのチャンネルでは、医師の処方する薬以外の医薬品や健康食品の類、いわゆる老化に抵抗するための化粧品や「医薬品」なるもののコマーシャルばかりを絶え間なく続けている。
 違和感はいくつもあるが、まずどうして自然過程としての「老い」の兆候がそんなにも忌避すべきことなのか、まるで「悪」者としてそれらを目の敵にしている。
 嘘か本当化はしらないが、60代、70代で色白で「シミ」「シワ」などのない女性の顔がまず大写しに出てくる。それがあたかも人生の最大の「価値」であるかのように。これを繰り返されるとあたかも真実のごとくに聞こえてくる。コマーシャルの繰り返し効果というものなのであろう。
 しかもタイムセールのごとくに購入を煽ること煽ること。見ていてあまりの品の無さにコマーシャルが始まると他のチャンネルを変えても、同じコマーシャルが流れている。それを大手の薬品メーカーまでが行っている。余程の需要と儲けが見込まれるのであろう。

 自然過程にこれほど抗わなくてはならないという強迫観念は、何処から来ているのだろうか。

 核家族化や所謂非婚化が進行して、家族や「家」の形態の変化もまたそこに噛んでいるのかもしれないと、ふと感じることもある。
 三世代の同居などは望むべくもない都市住居のあり様とそれにともなう世代間の意識の差、「年寄り」のあり様の変化があるようだ。現に私も、親世代や子供の世代との同居には躊躇する。近すぎず・離れすぎずの頼り・頼られる生活が身についている。
 老年になって一人ないし夫婦ふたりの、孤独ともいえる年齢になってわかるのであるが、自分よりも高齢の自立している親世代や、親に頼らずに生きている子供の世代から求められる高齢者の役割は、縮小している。
 同時に反作用として、祖父母世代の孫世代への過剰ともいえる接近も目に付く。高齢者が定年を迎え職を離れることで、これから先の人生で果たしてどんな生きざまが残っているのか、不安になるのだろうか。結果として自身の健康への関心が高くなり、孫世代への過剰な接近が始まったとも思える。
 定年後の長いと思われる人生や、孫世代との関りから、「若さ」や体力ばかりが強調され、それが「生きがい」として提供されることになってしまったのではないか。本末転倒ともいえる。「生きがい」のための体力づくりではなく、体力づくりが「生きがい」として強調されている。過剰な「若さ」へのこだわりに繋がっていないか。
 自然過程としての「老い」の兆候が、これほどまでに忌避される社会は、果たして「健康」なのであろうか。

 もうひとつ気になることがある。私は、健康診断などによる個人を対象にした個別・具体的な診断に重点をおいて、医師との対話、自身の体との対話に重点をおいている。その結果、不特定多数を対象としたコマーシャルによる健康不安の煽りがとても気になる。提供する商品としての医薬品・健康食品があたかもすべての人に有効であるかのようなコマーシャルは、病気の個別性・具体性と、人間集団の傾向とを混同して憚らない。これはわざと混同しているように思うのは私の穿った見方でしかないとは言えない。
 例えばカルシウム摂取が足りない、という一般論は危険である。どのような母集団を想定するかで、傾向は変わるはずである。塩分の多い食事といっても地域差はある。炭水化物の摂りすぎ、といっても年代や職業や性別でも大きな差があるはずである。これらを考慮せずに一般化して、万人すべてに当てはまる傾向としてしまうことは極めて危険である。
 私はこれらの傾向と現状がとても気になる。日本国中、不健康への道を転がり落ちているのではないか。私がテレビをあまり見なくなったのもこういったコマーシャルに嫌気がさしたからでもある。


スポーツは「競う」ものか?

2024年07月28日 19時43分07秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 本日は、敢えて言わせてもらう。もともとテレビはあまり見ないので、それほど「被害」がないとはいえ、毎日のオリンピック放送の氾濫に閉口している。見たくもない番組のオンパレードにはうんざり。
 以下、あくまでも私の思いである。こんな考えを持つ人間がいることを敢えて記してみる。

 スポーツやスポーツ応援が好きな人を腐すつもりはさらさらないが、私はどうしても現在の「スポーツ」のあり様というのが好きになれない。昔からスポーツというものが大の苦手。体育は学校を卒業するまで常に5段階評価で2ないし3あたりをうろうろ。
 スポーツとは本来関係ないのだが、「体育教師」とは常に相容れない関係であった。「体育教師」とはこういうものだという一般化は危険な決めつけであるが、少なくとも当時、スポーツ音痴というだけで私を蔑む態度と見る眼とが嫌いでいつもそっぽを向いていた。それが余計に彼らの私に対する評価をさらに悪くしていた節もある。
 私のスポーツ嫌いの大半はその「体育教師」に基因はしているが、運動生理学、心理学などそっちのけの彼らが主張するスポーツの「集団性」「画一性」「根性論・気合論」にどうしても馴染めなかったし、今もなじめない。
 グループの人間と同じタイミングでは体は動かないし、同じ格好にならない。私からすれば、そんなことどうでもいいことであり、個々人により違いがあるのは当たり前だと思うのだが、教える側はそれが許せないらしい。
 そんな思いは川崎に転校してきた小学4年生の時からである。私が歩くとき両肘の折れ曲がる側が体側側ではなく前に向くのがおかしいと幾度も歩かされた嫌な思い出がある。最後には「普通の体つきではない」と他の生徒の前で宣告された。
 そんな嫌な体験・思いを続けたくないので、公立中学を敬遠して私立中学・高校に進学したが、変わらなかった。不快な体験・思いは増幅することはあっても弱まることはなかった。
 中学に入ってすぐに東京オリンピックがあり、テレビで鑑賞しろと1週間ほど休校になった。休み明けに体育教師が「日本選手団の一糸乱れぬ入場行進の見事さを見習え、規律こそが第一。他の国の乱れた行進は見苦しかった」というものであった。
 私はあの軍隊式の行進の何処が見事なのか、自由に手を振る他国の選手団の自由さのほうが、人間らしく思えてこの教師の「訓示」に極めて強い違和感を感じた。あの体育教師の頭の中では帝国軍隊がまだ生き残っているのだとも感じた。この思いは後年、吉本隆明の評論を読んで間違っていなかったと納得した。
 エピソードは枚挙にいとまない。そのうちに追々と。
 大学では教養部では体育という科目はあった。授業も受けず、レポートも出さないうちに、紛争の中でいつの間に単位を取得していた。実にいい加減なものであった。

 就職してから学生時代の友人と丹沢から相模湾の景色を見たいということで、バンガローの予約から下見まで一人でしたことから、登山に目覚めた。最初は丹沢から始め、北関東・山梨などの山を経験の豊かな友人に連れられて登った。
 次第に一人で関東近郊の山から東日本の山にフィールドを広げ、「集団性」「画一性」「根性論・気合論」という呪縛から解き放たれるようだった。一人で体を動かす「スポーツ」がこんなにも楽しく、のびのびとしたものであるか、体感して嬉しかった。それ以来登山とジョギングが病みつきになった。
 登山は単独行、ないし個人の体力を基に、天候の読み、山行の難易度に対する知識と構えを互いに尊重しあえる2~3人の山行を心掛けた。30歳を過ぎてからは家族登山を除いて、ほとんどが単独行になった。
 スポーツとは「個人で行うもの」「自然の力と自分の体力を見極める知力が前提」というのが基本であると思っている。私のスポーツ観はこれに尽きる。これ以上でもこれ以下でもない。これだけである。

 だから「競う」という発想が私にはもともとない。タイムや距離という客観的な指標を目標にすることまでは理解できる。しかし人と競ったり、勝ち負けにこだわったりすることがどうしても理解できない。
 力量を披露しあうこと、自分がどの程度に進歩したか、客観的に自己を見つめる場をすべて否定するつもりはない。
 それでも私には、そのような場に興味がないとしか言い様がない。そんな人間であることを表明すると、ほとんどの人が「理解できない」という。
 さらに「オリンピック」もまったく興味がない。まして「国別対抗」という形態そのものが理解できない。国家によるメダル獲得競争の煽り、メダルの獲得の目的化、いづれも「国威」発揚そのものとしか思えない。

 こういう私は圧倒的に少数派である。そういう自覚はしている。しかしそういう人間がかなりの数存在していることも事実である。意外とこういう人間のほうが多数かもしれない。集団の同調圧力でかき消されてしまっているように思う。
 オリンピックの期間、いつも私にとっては実に憂鬱な期間である。


新しいものには飛びつかない

2024年07月19日 23時06分05秒 | 思いつき・エッセイ・・・



 もう新しいお札は銀行からおろせるのだろうか。市中に出回っているのだろうか。そんなことをふと考える場面に出くわした。

 地下街の通路のど真ん中で、歩いている私の方を向いて立ち止っている60代くらいの男がいた。どうも財布からお札が10枚ほど見えるようにして数えている。真新しいお札らしいということは判ったが、視力が落ちている私にはそれが旧札のピン札なのか、新札なのかはわからないが、色彩は鮮やかに見えた。まして千円札か5千円札か1万円札かまでは判然としない。どちらにしろ、危なっかしいことをするな、という程度で通り過ぎた。

 ここから先は小学校・中学時代の思い出。どこの学校でも、見せたがり屋というものはいて、新しいものをまず学校に持参して得意げに見せたがる。どんなものでも大概は2週間もすると市中に出回って、珍しさは無くなるのだが、この1~2週間の振る舞いは得意の絶頂である。
 どうやってこの新しいものを手に入れるのかはわからないが、小学校のうちは羨望のまなざしで、うらやましがられる。中学生になると、2~3回繰り返すと飽きられる。高校生のときはそんなことをするのは見かけなくなった。あるいはそのような人間とは付き合わなくなったというほうが正しいか。
 しかし就職してみると、不思議なもので新しい電子機器、とくに携帯電話、OS、ソフト、スマホなど休暇を取って徹夜で並んで購入して、他の職員に自慢して回る職員に出くわしたことがある。その得意満面な顔を見て、これが30代の人間のはしゃぎようか、とおどろいたものである。
 あまりつき合いたくはない職員だったので、会話もしなかったが、新しい商品・ものに飛びつく人は何処にでもいるんだ、歳に関係ないのだ、と思ったことを思い出した。

 本日すれ違った還暦を過ぎたばかりのような人もそんな人であったのかとふと、懐かしさがこみあげてきた。新しいお札を見せびらかしたかったのだろうか。あるいは私の勘違いか。

 新しいものには飛びつかずに、じっくりと見極めて廃れないものばかりを購入してきた私は、多分この世にさよならする時まで、そのように過ごすと思う。いつも少しばかり時代遅れではあるのかもしれないが、それもまたいいものである。時代から少しだけ遅れて、且つ一歩離れてじっくりと観察すると、見えてこなかったものも見えてくるものである。そのほうが楽しいし、世の中がそれなりに見渡せる。

 


世の中の縮図

2024年07月02日 18時55分00秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 本日の喫茶店、とても読書に集中できなかった。席を変わったものの、イライラとした気分が納まらなかった。

 私が座った席に後から、至近距離の隣の二人掛けの席が埋まった。若い物静かな女性が座り、対面に年上の女性が座り、面談らしきものを始めた。話の内容は隣の席の私に筒抜けである。
 しかし話の内容はいたって深刻。若い女性は派遣された職場で、ハラスメントもどきの扱いを受け、派遣元に訴えたらしい。その聞き取り調査のようであった。物静かな若い女性は、誠実そうで好感は持てるが、的確には状況が説明できないところもある。端で聞いていてもどかしい気分も伝わってきた。
 聞き取りの女性は、ノートに派遣先の職場にいる職員の配置図、氏名などを記入し、話は進んでいった。聞き取りをしている女性は経験もあるようで丁寧な説明はしている。要領も良さそうである。しかしそこに血が通っているかどうかは、私は判断はできない。
 この若い女性は、ハラスメントをした社員に抗議の意思表示はしたようだ。ハラスメントをした職員は謝罪の意向は示しているようだが、被害を受けたこの女性にとっては、それだけでは納得はいかないようだ。ここについては私も十分了解できる。

 私がイライラしたのは別のことである。こんな大事な相談事を、しかも個人名が飛びかうような聞き取り調査を、短時間利用の一服客を対象にした喫茶店で、そのうえ狭い席の隣の私に筒抜けの会話で、済ませようという派遣会社の対応のひどさである。
 派遣先職場とは離れているのかもしれないが、少なくとも派遣元の会社の一室で、彼女の発言や訴え内容が外に漏れないように配慮する義務があるはずである。
 こんな派遣会社に採用されているこの若い女性にいたく同情した次第である。聞き取り調査をしている女性の対応がひどいものではなさそうなのが少しは救いであったが、それでもこのような喫茶店を選択したのが、彼女であることにもイライラした。

 相談を求めている若い女性は、一人では決して強くはない。労働組合もないのであろう。働くものを守る仕組みが、派遣企業の苦情処理のシステムしかないというのも悲しい現実である。

 この件が、相談を求めている若い労働者に良い方向で解決されることを切に願いたいものである。


「老い」を実感するとき

2024年06月29日 21時11分22秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 午前中は、親の代わりに眼科で薬の処方をしてもらい、ついでに私の左目の毛嚢炎も見てもらった。土曜のために、病院も薬局も混雑。10時半前に病院に行き、帰宅は13時。もう少し早くに病院に行くべきなのだが、朝起きたときに通院のことを忘れていたのが敗因。
 午後からは妻と混雑している家電量販店でUSB接続でバッテリー付きの卓上扇風機を3000円台で購入。持ち運びでき、台所や鏡台、寝室等で有効活用したいとのこと。我が家では2台目のUSB接続の扇風機である。

 大型の扇風機とそれなりの大きさのサーキュレーターはあるものの、台所で立ったり、リビングルームの椅子に座ったりするときに、位置替えや移動が面倒になってきた。扇風機は重く、床に置いてあるサーキュレーターまで屈んで持ち上げるのもつらい。
 ついでに寝室用の温度計&湿度計も購入。従来のものは文字盤が小さく、ふたりともメガネを掛けないと見えづらくなってしまった。

 歳を取ると、いろいろのものが耐用年数を過ぎていなくとも使いづらくなる。文字盤が見にくくなって買い替えなくてはならなくなるものが、出てくる。これまで問題なく移動していたものの移動が面倒になる。これもつい10年前には想定していなかったことである。
 それほど歳を普段は実感しないが、こういう時にふと「老い」を実感し、それを重ねていく。同時に歳を取るとは、お金がかかることであるとも納得する瞬間でもある。買い物のあと、喫茶店に入りふたりでコーヒーを飲みながら、ため息をついた。

 さて、次はどんなものを買い替えなくてはならないのだろうか。


「観察」は時間を忘れる

2024年06月28日 21時00分29秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 先日、近くの私鉄の駅前のバス停から、家の傍のバス停までバスに乗ることにした。時刻表の時刻まで5分ほどあり、3人目に並んでいた。
 空は厚く雲が垂れこめていたが、雨とは無縁の空。カンカン照りよりも空は見易かった。西空の雲を通して太陽の丸い姿が浮かんで見える。
 雲の構造がその光を透かして見えた。一様に見えても光をとおすとまだら模様に見えた。じっと見ていると不規則な丸い形が連続しているように見え、見飽きることがなかった。太陽と雲が作り上げる空の模様は、美しい。不規則なものほど見ていて飽きないものである。規則性がすぐに判明してしまう模様などは、規則性が気になって落ち着かない。

 しばらく眺めているうちに時計が気になった。すでにバスの時間を過ぎていた。いつものとおり遅れるのだろうと気にせずに空を眺めつづけたものの、バスが来ても気がつかないで空を眺めているのが恥ずかしくなった。
 その時にたまたま視界を燕が横切った。何番目かの営巣のあとらしく、商店街の庇の下に例年のように巣があり雛が孵り、親鳥が餌を運んでいた。燕らしく人の頭のすぐ近くを器用に飛び越し、巣の近くに止まってから、巣に餌を運ぶ。
 燕の姿を追っているほうが、焦点は近くなので、バスが近寄ってきても認識しやすい。頭を小刻みに巡らすのも面白い。そのまましばらく燕を観察。
 こうしていると、バスを待っていても時間が気にならない。世の中には観察したいものが人間以外にもいっぱいある。あるいは長時間観察していても気にならないもので溢れている。

 ふと先頭に並んでいる同年輩のお年寄りを見ると、歩道から車道に身を大きく乗り出して、ひたすらバスのやってくる方向を睨み続けている。なかなか来ないバスに痺れを切らしているらしく、後ろと横から見る姿がイライラしていた。
 そのお年寄りと私の間にいる中学生らしい女の子は、スマホに余念がなく、後ろの小学生の女の子は熱心に物語の本を読んでいる。
 私の心の中では、「体を歩道にひっこめないと危ないよ、来ないバスにイライラしているよりも、空の雲と燕どちらかを「観察」するゆとりを持ったほうが、心が落ち着くよ。小学生の方が心にゆとりがありそうだよ」という言葉が横切った。むろん口に出すことは無かったが、思うこと自体が余計なお節介で、何となく人を見下したような気分になったのは、おおいに反省。こんなことを考えなければ、美しい空と燕の飛翔の印象だけが残っていたはずだ。

 さいわいバスは6分ほど遅れて到着。夕方の道路混雑時には遅れるものである。いらいらオジサンは真っ先に勢いよく飛び乗った。何事もなくバスは発車。

 私と同年輩の年寄と、私の頭の中ではそれぞれに小さなドラマがあった。美しい雲と太陽、燕の飛翔の印象は長く頭の片隅に残った。


年寄りの遠吠え

2024年06月27日 23時28分37秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 12年も前の現役時代と変わり、というか最近の時代の流れに乗らされていうべきか、現金よりも電子マネーによる支払いのほうが多くなった。現役時代は、電子マネーといっても交通系ICくらいで、現金を使わない場合はクレジットカード払いが主であったとおもう。
 私の場合は、スマホを持つようになって電子マネーが主となった。ただしバーコード決済のものは、コマーシャルが余りに軽薄なので、使う気には毛頭ならない。ああいう軽さとノリで、大切な買い物の決済を任せてしまうのが、今の風潮なのだろうか。ちょっと恐ろしい気がする。

 電子マネー、初めは三種を利用していたが、今ももっぱら一種だけ。もう一種は予備でとして登録してある。最近はこの予備はほとんど使っていない。

 さて、スーパーでもドラッグストアでも最近はレジで商品を読み取って合計金額を知らされるばかり。支払い機や電子マネーの読み取りコーナーに誘導されてそこでの決済を求められる。
 年寄りの部類に入ってしまった私などは、初めはとても戸惑った。レジを打ってくれる店員に直接現金を払うか、電子マネーの読み取りをお願いすることが無くなってしまうことに戸惑うのである。
 思い過ごしと言われようと、何か邪険に扱われているという錯覚に陥る。確かにレジでの商品読み取りと、会計という作業は分離はできるかもしれない。
 労働組合の役員としてみれば、それは業務を強引に分離して、人員の削減のための合理化である。ある意味では作業の単純化・人間の機械化をおしすすめて、少しでも機械に任せる業務の割合を増やしている。仕事の熟練化をなくし、単純化して賃金単価の切り下げをはかる理屈付けになる。働く者から「熟練」という付加価値を剥がし取っていく。
 店員に対しては、覚えなくて済む決済方法の選択の面倒さを回避してくれるので、歓迎される面もあるかもしれない。また最近はクレーマーが多い分、客との対面の要素を少しでも減らしてもらいたいという欲求が強いのかもしれない。

 客からすれば、これまで店員が仕事としてこなしていたことを客にさせる、ということである。簡単なこととはいえ、無性に腹が立つ。客の側からすると、提案もなしに押しつけられていることに変わりはない。
 こうした結果、レジでの人の並び具合、待ち時間は少なくなっているかというと、決して少なくはなっていない。レジの商品の読み取りもバーコードになり、客がバーコードを自ら読み込ませるという無人のレジも増えている。総じてレジの担当の店員が少なくなり、かえって操作について聞かれたりして店員は慌ただしくなっている。
 客は、とくに高齢の客はその慌ただしい店員達を見て、読み取り間違いや二重の読み取りなどの指摘も「申し訳ないな」と思ってやめてしまう。経営者はそれを狙っているのかと、勘ぐりたくなるのが、端からそれを観察しているのが、やぶ睨みの私のような高齢者である。

 居酒屋やファミリレストランなどでは注文も同様にタブレットになってしまった。こちらのほうがさらに操作は面倒である。私は店員には悪いとは思いつつ、タブレットでの注文はしないで、直接注文することにしている。

 私などの高齢者の発想は古いのかもしれないが、こだわりがある。
 クレーマーを減らすには、過剰すぎる丁寧言葉はやめ、店員の数を増やしたうえで、客と店員の対面時間を増やすことで解決の道を探るしかない。店員は客とのゆとりのある対面時間によって、対話のノウハウを身につけられる。そして店員の数が多ければ、クレーマーの一方的な言い分にも、数人で対応できる。クレーマーの多くは、店員が一人であることによる居丈高になる場合が多いようである。店員が数人で同時に対応すると、クレームの数は確実に減少する。
 経験豊かで定着した店員は経営者にとっては財産である。「客は神様」という言葉だけが独り歩きしていないか。本当は「店員も顧客も財産」なのではないだろうか。
 年寄りの遠吠えだろうが、こういうことはいつまでもつぶやき続けたい。

 年寄りは、機械とばかり会話したくないのである。経験豊かな店員と、ごく短時間でもにこやかな対面でのやりとりを欲しているのである。一言だけでも明るく「ありがとう」と言えれば嬉しいのである。
 もっとも飲み物などの自動販売機やら、駅の切符の販売などすでに世の中の流れである、といわれれてしまう。すでに既成事実はできあがってしまっている。若いときに無意識に受け入れたことが、高齢になってみると違和感をもたらしている。これが「老い」ということなのだろう、と受け入れるしかない。
 とはいえ世の中は高齢化していく。高齢者に冷たい金銭のやり取りを通した社会であっては欲しくない。


追い抜きたくなる衝動

2024年06月26日 20時34分03秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 朝から熱い陽射しのもと、出歩いた。ウォーキングのように歩き、途中の喫茶店で2回休憩。昼以降は疲れたので、汗をかかない程度に歩いた。
 それでも1万2千歩を超えた。横浜駅前では15時前に通り雨があった。横浜市の西部の方では短時間だったもののかなりの強い雨であったらしい。

 本日歩いていてびっくりしたことがある。階段を降りようとして、右膝に痛みを感じなかったのである。ここ3年程、右膝に痛みを感じて、足を引きずって歩くのが当たり前になっていた。あまりに不思議なので、いったん階段を歩くのをやめ一呼吸おいてから、恐る恐る手摺りにはつかまらずに再度階段を降り始めた。やはり痛くない。
 少し足を早めてみたが、やはり痛くない。階段が切れて踊り場でも痛くない。再度階段になってからもスムーズに降りることが出来た。
 ホームまでの7本の階段を終えて、実に不思議な気分になった。今度は地下鉄の平らなプラットホームを端まで早めに歩いた。それでも痛くなかった。これ以上早く歩いたり、続けて歩くと再度痛みが出るのではないか、と心配になって歩行をやめた。
 電車を降りてから、目的地までここ最近にはない早さで3千歩ほど歩いた。心地よい汗が吹き出てきた。ここで喫茶店でひと休み。

 不思議なもので、早く歩けると前の人を追い抜きたくなる衝動が湧いてきた。それを押さえて、自分に「無理するな、無理するな」と暗示を掛けるように歩いた。所用を済ませてから、ふたたび喫茶店に入り、昼食として軽くトースト1枚を食べて45分の休憩。

 右膝を痛める前は、前に人がいると追い抜きたくなる衝動を押さえられなかった。考えてみれば、右膝の痛みを抱えながら暮しているうちに、追い抜きたくなる衝動が消えていた。いつの間にか、これが「老い」を加速していたのかもしれない。
 これからは追い抜きたくなる衝動を押さえながら、追い抜かれても気にせずに、なおかつ満足のいく早さで歩きたいものである。追い抜きたくなる衝動は、害にこそなれ、益にはならない。
  


暗闇の淵を覗く

2024年05月04日 21時56分18秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 火曜日に貰った咳止めなどの薬は3種類をそれぞれ1日3回で5日分であった。明日の朝で飲み切ることになる。
 その薬が効いたのか、すでに直りかけていて自然治癒という結果なのか、どちらとも言えないが、症状はかなり改善された。
 確かに服用すると1時間ほどは痰と鼻水が大量に出る。その後3時間ほどは咳も止まり、痰や鼻水も出なくなる。しかし4時間もすると咳と痰と鼻水が少しずつぶり返す。これを繰り返した。また朝は痰と鼻水がまとまって大量に出ていたのが、今朝からはずいぶん楽になった。
 咳という症状が出始めてから11日、症状がひどくなって(こじらせて)から8日もかかってようやく見通しが明るくなった。お酒も7日間も控えている。これは大変なことである。とはいえまだ完治ではない。油断禁物といったところである。

 人間、自宅とはいえ狭いベッドと洗面所とリビングルームの3角形での行き来だけを繰り返していると、思考は下向き、後ろ向き、出口のない暗い迷路をぐるぐる回るだけになる。発熱はないものの、思考が閉じてしまう。
 なんとかものごとを前向きに考えようとしても、「コロナの再発か、気管支炎になってしまわないか」などと悪い方向ばかりに考えが向いてしまう。
 この負の引力はなかなか強く、そして魅力的ですらある。踏みとどまる力がないと底なしの沼に引きづり込まれるような気分になった。
 大げさかもしれないが、覗いてはいけない何かの淵を覗いたようであった。


メーデーも様変わり

2024年04月27日 08時44分39秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 本日はメーデー式典。先週から天気が思わしくない予報が続いていたのでやきもきしていた。私の属する退職者会もコロナ禍の時を除いて毎年70名前後が参加していた。退職者会の会員も年々高齢化が進むのに、加入者は減少傾向。参加者も少しずつ減少している。悲しいかな、時には現職よりも退職者会の方が参加者が多い時も。果たして今年は何名が集まることやら。

 昨日になって天気予報は雨の予報から曇りになった。昨晩遅くの天気予報では本日の夕方に少し降るらしい。しかし13時までには解散・後片付けをして、みな野毛方面に繰り出している。どちらかというとそれが目的で集まる。

 現役時代は、単組役員よりも支部役員のほうがもっとてんやわんや、本当に末端役員の厄日であった。毎年解散する頃には体力的にも疲労困憊、居酒屋に繰り出してもビール1杯飲んで寝てしまったりしていた。後片付け要員も組合の会館に旗やブルーシートや拡声器やらを倉庫にしまって寝てしまったこともあった。
 そんな現役時代とは大いに様相が違って、退職者会ではお弁当とビールを配付して1年に一度会うだけの会員と近況を語り合い、体調・病気・趣味の話題から家族関係の愚痴や孫自慢を聞き、それなりにゆったりとできる。メーデー自体と同様、年々緊張の度合いが薄れていく。それもまた受け入れるしかない時代である。

 休みも取りづらい現役世代に、せめて家族連れで連休初日を過ごしてもらおうという目論みもあったが、今はその意識も薄れてきた。メーデーはどこへ向かってその様相を変化させていくのだろうか。

 


予習・復習、学ぶ姿勢

2024年04月17日 11時57分06秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 昼前にいつものかかりつけの内科に行く予定にしていた。本日は採血・採尿の予定があり、食事抜きで来院するように言われていた。しかしそれを忘れて朝食を食べてしまった。半分ほど食べたときに思い出したが、もう遅い。やむなく昼食抜きで夕方に病院に行くことにした。
 昨日に続いての失態である。実は昨日にはすでに朝食抜きと云うこと自体の記憶が無くなっていた。情けないものである。今朝服用する薬の袋を見てようやく思い出した。

 明日はオンラインの美術鑑賞講座。「室町時代の美術」の35頁分の資料を打ち出して、目をとおした。一応「予習」のつもり。
 中学・高校の時は「復習よりも予習」を身上にしていた。しかし予習が進むのは得意科目のみ。苦手な科目は復習ばかり。もっとも大学生になって授業の予習も復習もしなくなった。予習のほうが性に合っているようだった。「人と対話をしながら教わる」ということが中・高の6年間で不得手になったのかもしれない。
 「人から学ぶ」ということは就職し結婚して定年まで勤めるということの意味が理解できるようになってからではないだろうか。そんな気がする。

 


桜と制服

2024年04月08日 19時41分57秒 | 思いつき・エッセイ・・・

      

 フラワー緑道に咲いているヨコハマヒザクラを見てきた。早いものでほとんど花は散り、葉桜の時期も過ぎ去ろうとしていた。樹木の下は、赤く染まっている。樹上は花と蕊の赤さが目立ち、葉もまだ赤味を帯びている。
 花を楽しむ時期がカワヅザクラやソメイヨシノよりも短い。今年の気温のためなのか、もともとがそういうものなのか、私のこれまでの観察では不明。

   

 本日は横浜の公立中学校の入学式であったようだ。桜が満開に近い状態での入学式、私はあまり記憶にない。団地の近くのソメイヨシノは見頃になっている。真新しい制服姿の子と親が目立つ。
 制服にあまりいい思い出のない私はつい顔を背けたくなる。「制服」といわずに「作業服」と捉えれば、もっと教える側も生徒も親も楽になるのに、と今となっては思える。当時はそう思うことができなかった。気持ちのゆとりもなかった。教師も学校も親も、そして当然ながら当の私も不幸であった。
 時代の所為にはしたくないが、やはり私の場合も「制服は人を律する」「高校生らしさ」という規範に縛られて、最後の最後でその規範から抜け出すことができなかった。体に合わない窮屈な制服の細かすぎる規制や、意味不明な校則の細則に縛られ続け、不幸であったと思う。
 戦前の軍隊のように、否、どんな時代も、いったん決めたことに縛られ、それを規範として自らと他人、特に目下のものをがんじがらめに追い込んでしまう人間がいる。組織というものを第一義に考えてしまうと些細な規範に縛られてしまう。そして他人を不幸に落とし込めるのだ。それが高校3年で学んだ貴重な体験だったと、卒業後5年ほど経ってから思うようになった。


大雨・洪水・強風・雷・波浪注意報

2024年03月12日 17時08分22秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 本日は、大雨・洪水・強風・雷・波浪注意報が出ている。外には出たくないが、午後からは親の通院日なのでその付き添い。近くの病院ではあるが、いつものように往復ともタクシーを頼んでいる。雨の日ではなくとも15分程度の歩行がつらくなって1年ほどになった。

 午前中は退職者会の作業を少々。私の属するブロックの会報の原稿を3日ほどかけて作成。臀部の腫れ物の切開後に始めた作業、痛みが無くなったこともあり、はかどった。印刷は明後日の予定。

 雨の日は読書、としたいが私の場合はどうもそれが苦手である。家に籠ってじっくり読書というのが、昔から性に合わない。現役時代は30分未満の電車の中が一番集中できた。往復の電車の中、途中下車して喫茶店や居酒屋、あるいは昼食休憩時に近くの公園で読むのが楽しみであった。短時間の読書を場所を変えて繰り返す、これが私の読書パターン。
 家の中でソファやベッドで読み始めるとすぐに寝てしまう。最近は雨の日に家に閉じこもらざるを得ないときは、最初から本は読まないと諦めてしまう。晴耕雨読、私には似合わない熟語である。
 ただし、入院時には意地になったようにベッドの中で本を読む。寝てしまったらもう永遠に目をあけないのではないか、と勝手に自分を脅迫して眠気を払いのける。

 さらにこれだけ注意報が出ていると12年前に退職したにもかかわらず、雨の日の災害配備だから、出勤したらまず点検するのは何か、出勤者の整理は誰に任せるか、食事の手配は必要か、出勤要請の範囲を管理職はきちんとしているか、区内のあそこは今回は大丈夫だろうか、新任の管理職は役に立つのか、オロオロしていたり頓珍漢だったらどういう風にその気にさせるか、などを思い出しいる。そんな過去のことを思い出す自分に気がついて呆れてしまう。いい加減、頭から抜け落ちて欲しいのだが。


3.11の教訓は生かされているか

2024年03月11日 21時22分41秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 本日は13年目の3月11日。翌4月からは私が現役最後の1年になるな、という感慨が浮かんで来た時期である。当日の私の職場での振る舞いや体験はもう幾度も記載した。あえて記載する新しいことはないような気もする。同時にもう少ししたら、再度語りたくなるとも思う。世の中から忘れられようとするときに。

 私の体験は、道路・下水道・公園・小河川の管理者の立場であった。その職場は日常が小さな災害の連続でもある。
 体験は細かいことばかりかもしれないが、そこに大切なことが潜んでいる。大所高所から全体像を考察したり、企画するときも、この一見細かくてどうでもいいことに思えても、現場で大切だと思ったことは、忘れてはいけない大事なことだと思う。
 災害対応は日常業務の延長である。災害時だけ使おうと備蓄している資材・器材・機械は役に立たない。普段使っているものをどのように応用力を発揮して利用するか、そこが災害時に問われる。
 災害対応車は二次災害に合わないようにくれぐれも慎重にものごとに対処すべきであること。救助者が災害に遭えば、一時被害者の救援が滞る。
 管理者といえども、災害時には外注に頼らず、第一線に立たないと経験は蓄積されない。自分の出す指示が現場で有効かどうか、それを見届けてこそ経験となる。また地元住民との接し方によって、地元の協力を得られるか、経験として地元に蓄積してもらえるかを考えることも必要である。管理者だけで災害対応は出来ない。住んでいる方の経験蓄積が大切である。

 さて、言葉が上滑りしてしまうが、是非言いたい。
 能登半島地震の政府・県の災害対応を見聞きするにつけ、1995年の阪神淡路大震災、2011年の東日本大震災の教訓がなんら継承されていないのではないか、と愕然としている。群発地震が続いていたにもかかわらず、避難所の整備も、食料も、薬剤も何ら用意されていなかった。
 現場での消防・自衛隊・当該の基礎自治体の第一線の職員、病院や介護施設の職員の個々の奮闘には敬意を表するものである。しかし司令塔であるべき政府や県トップの指示は後手後手ではなかったか。陸路に頼るばかりで空路での救援については、2011年の対応のほうがはるかに的確であったのではないか。
 原発事故の情報隠しもまたひどいものではなかったか。福島の事故の教訓も、情報の公開も首を傾げたくなるものばかりであったと思う。その教訓が生かされていなかった。一番大切なことは情報の公開である。情報が無ければ避難も的確に出来ないのが、原発事故である。

 1.17、3.11以降、多くの語り部的な方々が災害時の振舞い方等々についての継承に苦労をされている。しかし当の政府や県レベルのトップに、しかも肝心な政治家に継承されていなければ、事態は深刻である。
 災害時に役に立たない組織や政治は、日頃も役に立っていない、否存在そのものが国民には災害である、と私は断言したい。これもまた大切な教訓である。

 


鏡の中の「老い」

2024年03月06日 20時38分41秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 古井由吉に「知らぬ翁」というエッセイ(1994年)がある。50代の半ばの著者のエッセイにしては驚くほど「老い」を身近に切実に感じている。
 「拾遺和歌集」の旋頭歌「ますかがみ そこなる影に むかひ居て 見る時にこそ 知らぬおきなに 逢ふここちすれ」(巻第九 雑下 565)が引用されていた。
 この歌の解釈について「鏡に向かって坐り、そこに映る姿を見る時こそ、見知らぬ翁に逢う心地がすることだ、というほどの意味である」と記している。
 読みとして、「ひとつは、老人が鏡に向かっていると取る。自分の老いの姿を、見知らぬ老人のように見る。もうひとつは、壮年期にある人間が鏡の中に自分の老いの姿を見出すという読み方」とも記している。

 昨日私は「図書3月号」から竹内万里子の「見ることの始まりへ」から「(アヴェドンの死に立ち向かう父親を撮影した作品について)この写真が放つ怒りの矛先がなんであるのか。それは私たちの他ならぬ生を容赦無く断ち切る死そのものであり、その過酷な現実を安易な物語へ回収して手懐けようとする我々人間だったのではないか。だからこそこの写真は、一度見たら忘れられなくなるほど強烈で、人を苛立たせる。」という個所を引用した。
 アヴェドンの作品は、死に立ち向かう父親を撮影したものであるので、古井由吉のエッセイで言えば「壮年期にある人間が鏡の中に自分の老いの姿を見出す」体験に似ていないこともない、と連想した。
 古井由吉の「ふとした弾みに鏡に映った自分の顔に、父親の老いの姿を見出し」た時の驚愕というのは、私も50代の時にあった。
 アヴェドンという写真家は執拗とも言えるほどにレンズを通して父親の衰えていく顔と対峙して、作品として提示した。私にはそのように対峙するエネルギーはもとよりない。
 50代のとき、私は鏡の中の自分の老いたときの姿にごく近いと思われる父親の相貌を垣間見て、父親の記憶を消し去ろうともがいたものである。たぶん70代を越え、父親の亡くなった年齢にあと5年余りと迫った今でも同じことを繰り返すと思われる。
 内心そういう事態を避けるために、「老人である自分の老いの姿を、見知らぬ老人のように見る」態度を続けようとしている。

 古井由吉は次のようにも記している。「自分の老いさらばえた面相が、鏡の内どころか、この顔にじかに浮き出てくるのが、大病の時である。八十で亡くなった父親の老齢の顔に自分がなっているのに気がついた。」
 私も父親に似ている自分を発見したときは、見続けることは耐えられないと思った。現在私の顔は父親の70代の時の顔とはだいぶ違っているらしいが、膝を痛めて前かがみの歩き方になっているときに妻から「お義父さんの歩き方」と指摘されることがあり、そのたびに妻には見せないが、頭を抱えて「勘弁してほしい」と呻いている。
 それは自分の「老いを受け入れたくない」という意識ではなく、「父親と似てたまるか」という強い願望の故である。「老い」に従い、血縁故に父親に似てくるという自然現象に抗う強い気持ちで、アヴェドンという写真家が死に近い父親と対峙をしていたとしたら、そのエネルギーは計り知れないブラックホールのような無際限のものだったのではないか、と思料する。

 自分の「老いの顔」(それは血縁者たる父親の老いの顔と似通っているということも含めて)と対峙するということは、自分の生きかたについての自分自身が下す評価を問うことでもあるのではないか。
 多くの画家が若いうちから自画像を描き、写真家が自身のポートレートを撮り続けるというのは、果たしてどういうことなのだろうか。いつも展覧会や回顧展で自画像、ポートレートを見るたびにため息をつきながら見入っている。もし私が芸術家であったとして、この歳になっても自画像を描いたり、ポートレートを撮る自信もエネルギーもない。もしそこに父親の像が見え隠れしたら、と思うだけで立ち往生してしまう。

 なお、古井由吉のこのエッセイの後半は「顔」から「ボケ」「老い一般」へ焦点が移動しているので、とりあえず「老いの顔」の感想はここまでにしておきたい。