Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

土門拳を見る・読む(11)

2010年06月29日 15時09分55秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
丹波登窯煙出し1962


 「「丹波古陶」にみなぎる力強さは、山奥の人の質朴な人柄の反映でもあろう。しかしそれ以上に、頑丈な、割れにくい甕や壷や擂鉢や徳利をつくることによって、購買層たる農民の信用を維持しようという、いわば生きるための必死の努力が生んだものというべきであろう。」
 文章もさらりとして無駄なく美しいが、それ以上に、古くからの民芸を生んできた人々への、土門拳という人のまなざしが十分に伝わる文章だと思う。こんな風に心が伝わる文章を私も書き綴ってみたいものだ。
 この写真も少し上下左右を私の一存で切ってある。題を書いた白い活字が煩かったからだ。しかしこの穴の存在感の強さ、黒と茶の対象、釜の中の空間の黒と、壁の表面の炭の黒、そして高熱の煙というか炎が吹着だすために黒くならずに茶色の地肌を見せる土の壁、そして同じ穴でも下のほうは黒っぽく見え、温度の低さを示している。登窯の構造までわからせてしまうようなアングルに脱帽しよう。

土門拳を見る・読む(10)

2010年06月28日 23時05分50秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
根来杓子 1964 全体


 ページの切れ目は容赦していただきたい。さて、土門拳の文章では「断面五角形をなす柄のしのぎに、細い黒線が一本走って全体の形を引き締めいているが、それは角がすれて下塗の黒漆があらわれたのではなく、わざわざ引いたのである。それも筆で書いたのではない。「なぎなた」と称する槍の薄い板の刃先に黒漆をつけて、ぽんとしのぎに当てるのである。「なぎなた」による局面への線引きは、現代の塗師屋(ぬしや)では至難の技」と書いてある。
 だから土門拳自身はこの写真のようにそれぞれの杓子全体が写っているものを完成品として出版している。私も確かにこの黒漆の線は美しいと思う。
 しかし造形写真として見る観点から、私なりに不遜なことをあえてさせてもらって、次のように見てもらいたい。不遜であることは承知の上で、このような鑑賞の仕方もあることを示してみたかった。

根来杓子 1964 部分


 土門拳の写したかった黒漆の美しい黒い曲線は写っていないが、私にはこの杓子の先の3つ赤い楕円の重なりと黒い染みと上二つの反射光、そして蓮華の花紋にも似た杓子の金色と上縁の反射光、この四つの杓子の連続模様が、構図として面白いし、好きだ。赤と金の背景の黒とのバランスもいい。
こんなわがままなで、不遜な鑑賞を許していただけないだろうか。

暑さと責任転嫁?

2010年06月28日 17時59分23秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 午前中は今年一番の蒸し暑さ。午後は蒸し暑いまま曇り空。夕方から大雨洪水警報と雷注意報&土砂災害警戒情報。
 すでに横浜北部と川崎西部はかなりの降雨量。
 午前中仕事で外を30分歩いて、作業服はすぐに汗でビッショリと…。下着の替えの常備があり助かった。熱中症の被害が出てもおかしくない天気だった。

 ブログの更新内容が滞りがち…。夏枯れか、お疲れモードか、体調の注意報か、はて、責任転嫁をいかがせん……。



きり絵「ふるさと福島」から(11)福島県立美術館(きり絵さとうてるえ)

2010年06月22日 22時29分46秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
福島県立美術館


 1984年7月開館のこの美術館、まず建物の屋根の形にビックリする。その次に広い水をためた景観が人をひきつける。旧建設省の公共建築百選にも入れられている。デザインもまた信夫山を背景とした立地も惹かれる。
 私が訪れたのは梅雨の晴間の暑い時節で、さとうてるえさんの案内であった。美術館は信夫山の緑に映えて、美しかった。しかしまだ私には絵の知識も極めて少なかった。
 版画家齋藤清の墨画と版画のコレクションが有名なのに、その名も知らなかった。雪国の情景の版画がいくつか印象に残っているだけだ。もったいないことをした。
 そのほか、印象に残っているのは、カミーユ・ピサロ「エラニーの菜園」、松本竣介「駅」。後者もその名も知らなかった。今ネットで検索して、1942年の作であることを知った。「生きている画家」とは違い明るい青い空が印象的な絵。これももう一度見たい。
 カミーユ・ピサロは知っていて見ていてうれしかった。
 今度行くときはもっと時間をかけてじっくりと鑑賞したい。

昨日の購入&鑑賞

2010年06月22日 10時54分41秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
バッハ ブランデンブルグ協奏曲(全6曲)
ルドルフ・バウムガルトナー指揮、ルツェルン弦楽合奏団、1978年

 1575円に惹かれて、1984年の再発売品を購入。早速5番、6番、1番から4番の順聞いた。40年以上前に何回となく聞いたものの、その後40年も聞いていなかったが、実に懐かしく耳に入ってきた。
 昔のイ・ムジチ(多分)主体のものより明るく華やかに聞こえた。テンポはゆったり目とのことだが、ヨゼフスークのバイオリン、ビオラというのがうれしい。こんなにも華やかなバイオリンだったのかな、と認識を新たにした。ただし、多分再生装置やレコードからCDへの変更のためということもあるだろうが‥。
 そして第2番のトランペットの華やかさにも驚いた。トランペットはギィ・トゥーロンという初めての演奏家。フルートは、オーレル・ニコレ、チェンバロはクリスティアーヌ・ジャコテ。全体に記憶よりも華やかだったのだが、ことにこの2番は最初自分の耳を疑った。 5番ではバイオリンが前面に出てチェンバロの音が後景に退いてしまったような気もしたが‥。でも悪い印象はない。というより好みだ。

色の名前

2010年06月21日 20時41分19秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 「俳句と歴史的仮名遣い」を受けて、次のような素敵なメールを友人からいただいた。

 “「○○い」のような色を表現する形容詞は四語のみshiro kuro aka ao のみが日本語の「基本色彩語」とされています。色を言葉で表現する「色彩語」と何かに例えて表現する「色名」がありますが、色名は「世につれ、時代や地域、文化」の違いで様々に変化し、興味深いものです。少し前の伝統工芸の職人ならば、客に「ピンクのが欲しい」と言われても「日本人なら鴇色ッて言ってくれ!」と文句が返ってきました。
 全国の小中学校対象の色名実態調査では(40年近く前)赤と黄の間の色名呼称は「橙」より「オレンジ」が使われており、小中学生はほとんどオレンジ、先生の半数弱が橙だったと聞いております。(学習指導要領改訂時に提言したとのこと)「橙」を「だいだい」と呼べる大学生も一人いるかどうかで、「お正月の御供え餅の上にあるもの」と説明しても大学生は「オレンジ」「ミカン」としか理解してないのが現状です。縁起担ぎで先祖「代々」子子孫孫から「ダイダイ」を乗せていると説明しても、中々理解してもらえない状況です。
 鴇は大空を羽ばたいている姿の、太陽に透けた風切り羽の「鴇色」の美しさが理由で絶滅したとも言われているのに、呼び名まで「撫子」の英名 pink に滅ぼされてしまった、という話しがしたくなり「歴史的仮名遣い」に絡めて書きました。”

 そう「俳句は伝統芸術だから歴史的仮名遣いでなければならない」という人々の多くは、私からすると枝葉末節な使い方にこだわりながら、大切なところを忘れていないだろうか。季語に載せられている言葉をそれこそ習い事を諳んじるように覚えることにエネルギーを費やし、その一方で大切な季節感をあらわすことを忘れ、季語以外の言葉遣いに無神経になっている「芸事」としての「俳句」になっていないだろうか。
 たとえば、月の満ち欠けによる小望月、望月、十六夜、立待月、居待月、臥待月、二十日月などの言葉、雲や空の様子の言葉、色の言葉、花の言葉などなど、一昔前はベストセラーとなったカラー写真の本があった。季語として、あるいは教養として知ることは悪くない。しかしそれ以上に、季節感をもって使い切ること、現代の言葉の中に無理なく自然に生かし、再び定着させようとするささやかな努力、これに私も心しよう。
 同時に、時代とともに忘れ去られ、死語となる語も当然ある。江戸の町並みや明治の文明開化時代の季節感と、現代の季節感は違う。あたらしい季節感をもった言葉も当然生まれてくる。季節感に関係ない言葉の死滅と誕生も当然ある。語感の変化もある。ここも当然わきまえて綴っているつもりだ。
 麦酒でなくビール、燕尾服でなくタキシードという言葉の持つ語感からするとすべてが翻訳語でなければならないわけではないが、しかしもともとある和語が廃れるのはさびしいものがある。
 私は右よりの政治的言語による「日本の伝統」なんてもは鼻から信用していないが、左翼の特許であった機能主義的な芸術論も信用していない。スターリニストの「民族論」「伝統芸能論」なども、もってのほかである。しかし万葉集以降の詩歌をはじめ、あらゆる芸術、技術に興味があるし好きである。自分の中に取り込みたいと思っていることだけは表明しておきたい。

俳句と歴史的仮名遣い(2)

2010年06月21日 19時19分31秒 | 俳句・短歌・詩等関連
(前日の続き)

 ある大きな俳句誌の主宰の巻頭句に
・雀見ずもう巣作りの頃なれど
・七重の塔の跡なし木瓜の花
など7句が並んでいた。
 まず、最初の句、「もう」は江戸時代は「もは」ではなかったろうか。明治時代にどうだっかはしらないが‥。また「見ず」という用法・語感は戦後のものではないか。
 また「七重」、歴史的仮名遣いにこだわるならば、読み方も「ななえ」にこだわるべきであると思う。日本語としても「イ」音の唇の緊張は緩みがたであるので、「五重(ごじゅう)」はあっても「七重」は「しちじゅう」はなじまない。市井では多くやまとことば本来の「ななえ」というのが日本語の自然の流れであったはずだ。これを日本語として読みにくい「しちじゅう」と読ませる語感の方が、韻文作者としておかしい。
 しかも「きゅうり」は「黄瓜」からきている。市井の言葉として「木瓜」が流通していたのであり、市井の言葉として統一するなら「ななえ」であり「木瓜」である。「しちじゅう」にこだわるなら「黄瓜」であるはずだ。
 私は、「投句は歴史的仮名遣いで」とことわっている俳句誌だからここまでこだわって批判してみた。これがそうでなければ、そのまま読み飛ばしていたと思う。特に違和を感じても、問題にすべきことではないと思うから。
 しかし歴史的仮名遣いにこだわるならば、語の使い方・語感もどこかに定点を設けてそこに設定すべきであると考える。そうなると現代の句は作れないことになる。あえて、あるいは無意識に現在の句をつくれば、そこで新旧の語句が、理由なく混在した不思議な俳句になる。歴史的仮名遣いだけに神経をすり減らした俳句がならぶ結社誌の会員欄を見ると、古い語と現在の語が、根拠なく意味の上だけで混在してしまっている。
 現在語を基本として、古い語をアクセントとして使う場合に作者の気持ちで歴史的仮名遣いを使うようにすれば、もっと自由な俳句の世界が開けるのではないだろうかと思う。
 新聞の投稿欄を見ていると、短歌の方が余程いきいきとしなやかに、現代の言葉をたくみに使い、そして現代を活写している。
 それでも私は俳句が好きだ。575という短い中に、余韻と広がりをどう持たせるか、対象物の目に付いたところや感動したところをどう的確に細部まで写し取るか、こういう俳句の醍醐味が好きだ。
 「芭蕉に戻れ」といわれた江戸中期は、言葉の変化は今ほど著しくなく、なおかつ、低俗・猥雑に俳諧が出した時代のスローガンであった。子規は、虚子は、俳句をその時代の言葉と書き方で革新した。俳句は、新しい時代の新しい言葉でつくるべきものではないだろうか。


俳句と歴史的仮名遣い

2010年06月20日 10時55分32秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 昨日のブログを以下のように書き換えてみた。

 夕べからの雨を受けてか、どこの紫陽花も美しく見えた。帰りがけに夕べの雨と今朝の紫陽花の様子を思い出しながら4句ほど作ってみた。

あじさい
たいらかに四葩新葉に雨一夜
あじさいを打つ雨赤きしずくへと
あじさいを打つ雨いとど赤いよよ
紫陽花の蕊それぞれにしずく秘す


 いろいろと俳句誌をさがしているが、どこも「歴史的仮名遣い」に固執している。それで取り寄せたものの見本誌だけで、継続の申込を行っていない。
 私は現代仮名遣いで作ることにしている。他の作者の俳句を鑑賞するのはどちらの仮名遣いでもいいのだが、歴史的仮名遣いに「こだわる」結社誌の在り様が私には理解できない。
 結社誌で「歴史的仮名遣いでなければ投句を受け付けない」となると、拒絶反応を示してしまう。歴史的仮名遣いにこだわるならば、他の文言、言葉遣いも、いつの時代かの、芭蕉なら芭蕉の時代の、子規ならば明治前半の、それぞれの模範とすべき俳人の活躍した時代の文言を基準とすべき話となってしまわないだうか。
 たとえば私の第3句目、いい作品かどうかの評価はまったく別に考えるのだが。「いとど」「いよよ」は古い言葉である。源氏物語・万葉集所載のことばである。現代の辞典(例・角川新国語辞典)には記載されていない。しかし現代でもわりと会話にも使われる。大げさに言ったり強調したりするときに、あるいはふざけた会話の中で使われる。この微妙な差異を作者である私は利用して俳句に仕立ててみたのである。あくまでも古語であっても現代の時点での感覚で利用している。
 この場合はたまたま違いはないが「しとど」「いよよ」がもし歴史的仮名遣いがあるからといって、それに従わなければならない必然はあるだろうか。歴史的仮名遣いでないと語感は伝わらないであろうか。
 あるいはその前におかれた季語でもある「あじさい」を「あじさゐ」に変えなければならない理由はあるだろうか。どのことばも現代の語感・意味・感覚で作っているのである。
 たしかにもし「いよよ」「しとど」に歴史的仮名遣いがあるとして「強調」の意味で作者が使うことはあることと思う。それは作者自身の作為・思いを尊重すればよいだけである。
 また、歴史的仮名遣いには合理的な側面も多くあり、戦前に教育を受けた方をはじめ、慣れもある。そのような世代の方々や慣れに従う方はそれが自然な表記方法であろう。私はそれは絶対に否定しない。
 作者にとって歴史的仮名遣いが好ましければ、その作者に任せればいいだけの話だ。それぞれの思いに従えばよいのである。たとえば「居る」ということば、「いる」よりも「ゐる」という表記がすんなりと気持ちに沿うという方は存在すると思う。「匂い」より「匂ひ」の語感の方が優しさがあるという方、雰囲気という意味合いが強いと感じて使われる方もおられることは確かだ。
 「俳句は伝統的な文芸だから歴史的仮名遣い」などといっているかぎり、俳句は廃れるだけの運命であろう。歴史的仮名遣いでなければ強調として使えないのであれば、逆に「いよよ」「しとど」は俳句では使えないことになる。
 また、歴史的仮名遣いにこだわるということは、語句の使い方も古風にしなければならなくならないのだろうか、という思いも出てくる。その時点を江戸時代におくか、明治・大正、昭和の戦前か、昭和の後期におくか、定点を決めなくてはならない。江戸も明治もそれぞれに微妙に違う時期がいくつもある。

(2)に続く

本日の俳句(100619)

2010年06月19日 19時28分58秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 昼からの検査も無事何事もなく終了。結果も良好、とのこと。18時前までぐっすりと睡眠。

 夕べからの雨を受けてか、どこの紫陽花も美しく見えたので、帰りがけに夕べの雨を思い出しながら3句ほど。

あじさい

たいらかに四葩新葉に雨一夜

あじさいを打つ雨赤きしずくへと

紫陽花や花それぞれにしずく秘す


 いろいろと俳句誌をさがしているが、どこも「歴史的仮名遣い」に固執している。それで見本誌だけで、終わってしまっている。
 私は現代仮名遣いで作ることにしている。鑑賞するのはどちらの仮名遣いでもいいのだが、歴史的仮名遣いに「こだわる」ことが理解できない。
 結社誌で「歴史的仮名遣いでなければ投句を受け付けない」となると、拒絶反応を示してしまう。歴史的仮名遣いにこだわるならば、他の文言、言葉遣いも芭蕉の頃の文言にすべき話となってしまう江戸時代前・中・後・末期と明治・大正・戦前の文言が珍妙に混在するだろう。現代でも使う近世語があるのは事実だし私も使う。それは普段も強調などで使うからだ。しかし「あじさい」を「あじさゐ」と「書かなくてはならない」根拠などない。

 芭蕉もそんなことは言っていない。新しい時代の新しい言葉でつくるべきものではないだろうか。作者にとって歴史的仮名遣いが好ましければ、その作者に任せればいいだけの話だ。

大腸の内視鏡検査

2010年06月19日 11時29分48秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 いろいろあって本日は多分通算10回目の大腸内視鏡検査。9年間で10回目というのもつらいものがある。検査前の下剤・腸管洗浄剤はなかなか慣れない。微妙な体調の状況の違いや、服用している薬によって同じ下剤・腸管洗浄剤であっても、効き方や飲み心地が違う。
 これまではすべて麻酔なしで、自分でもモニター画面を見、説明を聞きながらの受検であったが、今回は病院が変わりどのようになるのか不安がある。
 ということで、今回は雰囲気をかえた書き込み。

土門拳を見る・読む(9)

2010年06月18日 20時33分40秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 前回で最後と考えていたが、この写真は是非にと思って再開した。実はあと2枚ほどある。

平湯峠カラマツ1964


 この写真、私も真似て挑戦したことがある。残雪期の下山途中でこれに似た風景と出会った。むろん技術などない。1時間ほどかかって、20枚ほどを絞りやシャッタースピードを変えてとった。しかし無残な結果となった。自分の納得のいくものは取れていなかった。モノクロームのフィルム一本分、捨てた。
 当然プロと8回の無料の講義を聴いて、三回ほど撮影会を経験した素人とは比較にならないだろうが、この一枚をとるためのエネルギーと確かな技術に圧倒されたことを思い出した。20数年前のことである。

 藤森武という方が「師を語る-凝視と撮影のあいだ」で、師であった土門拳について次のように書いてある。「とにかく好きなものしか撮らない。‥まず最初に書物で「調べる」。調べたあとに「見る」。その次が「感動する」。これは素直な感動です。感動したあと「凝視する」。これにうんと時間がかかる。最後に「撮影する」。」そしてこんなことも書かれている。「一点とるのに二時間かかるとすると一時間あまりは見ている。それだけたっぷり見たら、撮影は早いんです。‥むしろせっかちなくらい早い」。
 「調べる・見る・感動する・凝視する・撮影する」。この5つの要素。私なりにこれまで「見る・感動する・凝視する・納得(撮影)する」は心掛けてきたつもりだ。「調べる」が最初にきたり、後ろにきたり、そして「調べる」のを忘れてしまうことの方が圧倒的に多かった。これからも多いだろう。しかしこの「調べる」が欠けることで、「感動する」が1/10に、いや1/100や1/1000になってしまうものだと、あらためて反省している。
 ブログというものが少しでも、この「感動する」時間を長くし、「納得する」につながることを祈っている。