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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「篠山紀信展」&「2016第3期コレクション展」

2017年01月09日 23時27分04秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 横浜美術館で「篠山紀信展-写真力」と「2016年度コレクション展第3期「写真」」を見てきた。
 篠山紀信という写真家、あまり私にはなじみがない。俳優・タレント等の写真が大きく引き伸ばされている。被写体になった方で被写体そのものの力を引き出していると感じたのは、作家の三島由紀夫が日本刀を構えている作品と、歌手の山口百恵の作品だった。
 一世を風靡した宮沢りえの写真は同じ写真集からと思われる別の作品の展示であった。夫人の南沙織の現役時代の写真は強い目線が印象的で、惹かれるものはあった。だが、全体として私にはあまり「力」を感じない作品が並んでいた。チラシのオノ・ヨーコとジョン・レノンも空々しい。被写体との関係が希薄だと思えた。
 また東日本大震災の被災者を撮影した作品も、私には被写体に迫る力、災害の爪跡も傷も、被写体となった方の力もいづれも感じなかった。
 むろん私の鑑賞力の至らなさは棚に上げての感想だということは忘れないで読んでほしい。

 それに比べて「2016年度コレクション展第3期「写真」」は、時代の諸相を切り取って、未だに新鮮な力をこちらに向けて発している作品が多かった。大半がいわゆる報道写真の範疇である。しかし少なくとも戦後70年代までの作品はいづれも写されたものの生命力が私には伝わってきた。申し訳ないが、私にはこちらの展示がお薦めと感じた。もう一度展示を見ながら戦後の世界を彷徨してみたい、と感じた。

膝:痛みはないが力が抜ける

2017年01月09日 22時46分08秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は杖を突きながら横浜美術館へ。当初は妻とワールド・ポーターズに映画「この世界の片隅に」を見に行ったのだが、14時20分の映写は切符が完売。次回は19時半ということで諦めた。
 その足で妻はみなとみらい地区のスーパーへ買い物。私は横浜美術館へと出向いた。
 横浜美術館で「篠山紀信展-写真力」とコレクション展「「写真」全館展示」を見てきた。帰りも一人で最寄駅から横浜駅まで電車を利用し、有隣堂などをまわった後バスにて帰宅。
 ゆっくりと歩いたが、それでも1万歩を超えた。最後バス停を下りてから家まで500歩余りだが、きつかった。朝から歩くたびにカクカクと膝がきしむようになっていたが、帰り際には歩いていると突然カクッと力が抜けてしまう。それを4~5回繰り返してようやく玄関にたどり着いた。
 家に着くと左足をかばってあるいたためだと思うが、右側のお尻の筋肉が痛い。無理して歩いているのがいけないと思われる。このままだと腰を痛めそうでもある。
 明日は退職者会の幹事会なので休めないが、明後日診断を受けることになっている。どのような治療方針が示されるのだろうか。完治するのであろうか。不安がある。友人からは「歳相応の劣化でもあるのだから‥」とのアドバイス貰った。それを考慮しながら医師と相談である。

 どうもgooのブログのサーバーがダウンしていたらしい。最初私のパソコンが不具合を起こしてしまったのかと心配したが、そうではないようだ。他の利用者も編集画面に入れないどころか、表示もされないということを表明していた。果たしてこれで復旧したのだろうか。とりあえず試しにアップしてみた。

円山応挙展から「白狐図」

2017年01月09日 11時53分07秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等



 この「白狐図」(個人蔵)は1779年、応挙46歳の年の作品である。最初の展示室に展示されていて、私ははじめ地味な画面なので目に入らず、通り過ぎる瞬間に狐の眼の鋭さに惹かれ、振り向くようにして絵の前に戻った。可愛らしい動物でも、野生の狐の一瞬の動きを書き留めたものでもない。鋭い眼光が人間の眼にも見えた。
 まず白い躯体が胡粉で描いたのではなく、塗り残しである。わずかに体毛を描いた部分に胡粉が細く描きこまれているだけである。
 狐全体は写実的であるが、表情が狐そのものではない。特に口の端に何やら小さな牙状の歯、口先の赤、眼の金色が、現実のものから架空の霊獣に変身していく秘密だと思う。そして耳と四肢の爪にあるわずかな赤味が少々艶めかしい。秋と思しき風景だが、それもわずかに薄らしい細い線がまばらに3か所、16本描かれているだけである。
 白い狐の居るところが白い帯状に描かれている。これはけもの道ではなく、そこに月光でも射しているのかと思われる。あるいは後光のような燐光にも見える。狐とこの部分が画面から浮き上がって見える。
 次に感心したのが、何も描かれていない上半分の処理である。凡百の画家は、何もない空間や平面に気を使わない。優れた作品というのはこの何もない空間、平面を微妙な筆致で鑑賞者を飽きさせないように、そして作品の重要な部分として描き切っていると思う。わずかな横に惹かれた筆致、グラデーションにしばらく見入った。
 やはりこの作品も狐の顔のあたりが鑑賞者の眼の位置としているので、上半分は見上げるようにして見るのがお薦めである。狐が前にせり出し、そして上の空間が実に遠くの空に伸びていくように見える。
 この白狐は神の使いか化身か、人の内面を見透かすような鋭い眼付が強く印象に残った。この展覧会は「円山応挙-「写生を超えて」」とある。確かに写生の向こうに何かを提示しようとしている。