次に目に付くのはやはり楓図壁貼付と松に秋草図屏風。
ポスターになった楓図壁貼付だが、全体を見ると、私には少しくどく、また右側が雑然とし過ぎでいる。絵としての中心がない。太い大きな幹が中央から左の上に据えられているが、中央の幹が太すぎて精彩を欠く描写に見える。また樹形の左右のバランスが悪い。安定感がない、かといって躍動感があるというのでもないような気がする。
右側の萩の葉の描き方も何か雑然としている。右側があふれる生命力、繁茂の力、左が整然とした水のある空間と言うのだそうだが、このままの構図で果たしてどうだろうか。楓の葉が生きていない。萩の緑に負けている。退色のためだと思われる。
しかも画面全体でずれがあるのだ。復元した場合はもっと違った印象になるようだ。確かに強引に画面の中心に寄せすぎているような気がする。左右天地をそれぞれの方向に延ばすと、バランスも奥行きも良くなるらしい。中央左側の川の一部のような濃い水の部分が、池なのか川なのか釈然としない。池でも川でもいいのだが、収まりが悪いと思う。
これはぜひとも全体の構図も色も復元し、もとあった環境の下で観賞したい衝動に駆られる絵だ。今まで述べた私の不満が解消されると思う。部分部分が放つ力強さからはこれらの不満を覆すような魅力、人を曳きつける力が秘められていることを大いに感じた。
松に秋草図屏風は、松の幹が主題のように目に飛び込んでくる。保存状態が良いそうだ。左側のズレはとりあえずは気にならない。むろん復元は望みたい。むくげ、菊、芙蓉の白がそれぞれに生きている。そして暗い会場の縦長の端からの遠望に耐えられる。しばらく遠望に見入った。
左のほうがすっきりしている。薄もすっと伸びて喜んでいる。右側の図の少しの雑然とはよいバランスを保っている。白と緑と金色のバランスが良い。菊の赤がくすんでいる。この色が復元され左側はとても引き締まった画面になると思う。そして芙蓉の下の岩が面白い。松の幹の存在感に対抗する役割を担っている。芙蓉と良く調和している。
柳橋水車図屏風は、異様な柳の幹と様式美の橋と水車、川としては大きすぎる波。様式化され「長谷川風」として受け継がれたそうだが、もやった芽吹いたばかりの頃の柳と、新芽からだいぶたった頃の伸びきった新芽の柳の対比が新鮮ではあった。豪放な力強さはどこに消えてしまったのだろうか。
萩薄図は落ち着いた私好みの絵だ。萩の一枚一枚の葉、一つ一つの小さな花が生きている。実に丁寧に描きこんでいる。萩を描いた右双の金泥は、萩の背景として萩を浮き立たせている。左双の薄は穂が出ていない状態のものだが、金泥は薄の中に溶け込んで温かみを与えている。金泥が細い葉の薄の群落と一体になっている。萩と薄を別々の双に書いた意図が私なりに伝わったような気がする。それでいて右から左に抜ける風を感じる。これがこの絵の一体感なのだろう。
柳に柴垣図屏風もいいが、これは退色が著しい。これも是非復元がほしい。柴垣の丹精な垂直の線の並びが、写実的ともなった柳の素直なたたずまいと響きあっている。
こうしてみると、曲がりくねってうねることで量感をあらわす楓や松の大きな幹よりも、垂直な線、細い線で描く描写にひょっとしたら長谷川等伯という画家の真髄があるのではないだろうか。次回に触れる水墨画の竹もそうだ。
さて前半の圧巻は波濤図だ。金泥と墨絵、あの岩は「これが等伯」というトレードマークの岩だ。水平と垂直と45度の135度のたった4種の、てらいと迷いのない力強いタッチの刷毛目のハッキリした太い線で出来ている。あらゆる種類の岩が網羅されているような錯覚を与えてくれる。
広い大海につながっているようにも見えるし、この絵だけで一つの完結した世界を作っているようにも見える。波と岩だけでできた曼荼羅図、世界全図と云ったら大げさだろうか。また、雲海の中に浮かぶ岩稜のにも見える。それこそ朝日に輝く須弥山から見た日の出前の世界図が、描く人間の頭の片隅にあったといってもいいかもしれない。
金泥がきらびやかさではなく、奥行きをあたえている。これはじかに見て気づいたことだ。