Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

山道具の整理

2012年08月31日 20時38分39秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日はウォーキングも出来ず、ギックリ腰の再発の畏れもあり、ベットの上でジッとしていたが11時を過ぎるともう退屈でしょうがない。昼前に起き出して、押入の上段を占めている登山用品の整理を始めた。
 昔のテント山行の頃の重いリュック、炊事道具、古い冬山用被服などが出てきた。いくつかは思いきって廃棄した。さらに寝袋、カッパなどは虫干し。ただしテントはそのまましまい込んだ。多分使うことはないだろう。
 つい20年前と今とを比べると、リュックは随分と使いやすくそして軽くなったと思う。両サイドのポケット、ウエストベルトの使い勝手・・年々よくなっているのは間違いがない。そして大きな違いが水筒・水タンクだ。以前は1リットル・2リットルのポリタンクが主であったが今は500ccのペットボトルと、折りたたみ出来るタンクが主となった。
 衣服も新素材のものがお洒落なデザインで揃っているが、これは我々年寄りにはあまり必要はない。
 また冬用の下着や衣服も処分した。冬山はおそらくもう行くことはないと判断した。
 一方であったはずなのに無いものもいくつか。ショートスパッツ、高価だったウィスキー用のボトル、ゴアテックス製の手袋・・。チョットさびしい。

 一応片付け終わって腰痛にはならず、それなりに汗をかいて無事終了。山行より疲れたかもしれない。

山での負傷その後

2012年08月30日 09時14分54秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 脛に傷を持つ男‥

 下山して我が家で妻に左臀部の傷を見てもらったら、既に黄色や紫に変色しているという。痛みをこらえながらベッドに横になり、一晩ゆっくりと寝たが、朝になっても左臀部の痛みがとれない。変色部分を押してもらうととても痛い。また右脇腹にも傷が10センチほどの傷があるのがわかり、おさえると痛みがあった。
 妻に言わせれば、またも脛に傷を持つ男になってしまった、とのこと。どうも反論できない。そして医者に行くようにとの言。
 ここは妻の言葉を受け入れることにした。年金生活者の強み、仕事で拘束されることもなく、行きたいときに医者にかかれる。ということで、整形外科にかかってみた。ぎっくり腰でかかったことのある整形外科を訪れた。受付で待っている間に壁に貼ってある掲示物を見るとスポーツ医学に興味というか、造詣があるような医師らしい。
 診断室では、山で転んだ、というといかにも興味あり気にどこの山か、どのような浮石だったか、山はどのくらいの頻度で行くのか、経験はどのくらいかなどと聞かれた。私が「擦過傷はそのままにして様子を見るしかないと思うが、左臀部の痛みと右脇腹の痛みが気になる」と伝えると、肋骨に異常はないが、右臀部はエックス線写真を撮る必要があるといわれ早速撮影された。その結果は、さいわい骨盤に異常はないとのことで、湿布薬と痛み止めを処方された。
 さらに、痛みがある間は一切トレーニングは禁止、山行も禁止とのお達し。「でも来月の下旬にはもう一度北アルプスに行きたい」というと、苦笑いしながら痛みがなくなっているなら、といってくれた。
 当面痛みが治まるまでおとなしくしているしかないらしい。

北アルプス奥穂高岳山行

2012年08月29日 17時09分03秒 | 山行・旅行・散策
 危うく遭難者情報に?

 当初の予定より1日早い26日早朝に家を出て、2泊3日の予定で奥穂高岳に向かった。

26日(日)    歩程 2時間 17000歩
 上高地-岳沢小屋(泊)
27日(月)    歩程 9時間30分 27600歩
 岳沢小屋-重太郎新道-前穂高岳-奥穂高岳-涸沢岳-涸沢小屋
28日(火)    歩程 5時間10分 31500歩
 涸沢小屋-横尾-徳沢-明神-上高地温泉

 今回の山行の当初の計画は、2日目に、奥穂高岳から北穂高岳まで足を伸ばして、北穂高小屋に泊まり、翌朝涸沢小屋経由で上高地に下りる予定であった。
 第1日目、上高地は日曜日ということもあり訪れる観光客でいっぱい。その人の間をすり抜けるようにして、登山道に取り付いた。登山道の取り付き点に表示があり、「小屋に事前に連絡を」とのことであった。日曜日なので泊まる人はいっぱいはいないだろうと思っていたが、とりあえず電話をしてみてびっくり。宿泊予定で満杯なため、談話室に寝袋でなら泊まれるとのこと。泊まらないわけにはいかないし、談話室でも十分なので予約。登山道そのものは良く整備されており、岳沢小屋まではいたって快調に14時35分に到達。途中子連れのニホンザルの群れが登山道のすぐ脇でくつろいでいた。人を恐れるでもなく、人にものをねだるでもなく、ごく自然にすれ違うような感じであった。この岳沢小屋は確かに小さい小屋で12名の部屋が5室で定員60人とのこと。談話室でくつろいでいたらもう1人が奥穂高岳から下山してきて、「疲れたのであと2時間の下りがつらい」と宿泊を希望したら「談話室で我慢なら」といわれて入ってきた。

岳沢小屋

 しかし結局3名ほどのキャンセルがあり、布団付きの部屋に2人とも入ることになった。内心では、12名の中でひどい鼾を聞かされるよりは同じ部屋の広さに2名の方が寝袋であっても静かにゆったり出来ると思ったが、わがままも言ってられないので喜んで従うことにした。
 しかし、この想定外の混雑の原因が、20数名のツアーの予約客と聞いて私はびっくり。山の登り方は人それぞれだが、20数名のツアー客それも高年齢の喧しいグループと小さな小屋で遭遇するとは何とも不安というか、不吉な予感がした。翌日の朝食はお弁当に変えてもらった。
 2日目、重太郎新道も前穂高岳までは、コースタイムより早く2時間40分で到着。天候も快晴で、20数名のツアー客をさっさと追い抜き、行列を作るようなこともなく、いたって快調な山行になったとほくそえんでいた。小屋で危険なので注意といわれた紀美子平直前のハシゴも特に気にかけることなく通過した。が前穂高岳の下り、紀美子平の直前でひどい目にあった。

前穂高岳頂上

 紀美子平では人が多数集まり、荷物を置いて前穂高岳を往復していた。快調に前穂高岳を下りあり5分くらいで紀美子平にもどる場所で、降りる途中のぼってくる人に道を譲ろうとして、畳半分くらいの大きな平らな岩に飛び乗った瞬間、その岩が浮石であったため、転倒。転んだ瞬間その岩が頭のすぐ傍に迫ってきたのまでは気がついた。無意識にそれをよけるように右側に身をよじったので岩は私にぶつかることなく下に落ちていった。私の頭を直撃するように落ちてきたあの岩にぶつかったり、下敷きになったらと思うと今でもぞっとする。
 左の臀部に強い衝撃と痛みを感じて立ち上がったものの、あまりの痛みにそのまましゃがみこんだ。数人が私のところへ飛んできて、声をかけてくれたが、思うように返事が出来ない。「あの岩をよくよけたね」とか、「骨折はどうか」とかいろいろ心配そうに声をかけてくれた。ふと足をみたら両膝下から血が出ている。長い傷で20センチくらい。右の上腕部にも痛みがあり、袖をめくるとやはり10センチくらいの傷から血がでている。しかし見たところ血は盛り上がる程度で流れ出ているのではないので、広範囲でも浅い擦過傷と判断できた。
 誰かが膝の屈伸をしてみたら、といってくれたが、左臀部の痛みがひどく座ったまま身体を動かすことができない。何とか首をひねって振り返ってみると5メートルほど落ちたように見えた。4~5分だったと思うがようやく立ち上がり、ゆっくりと歩いてみたら何とか歩ける。見ていてくれた人にお礼をいいながら、5分ほどで紀美子平にもどり、リュックを背もたれにして休憩をとった。
 15分で痛みもとりあえず我慢できるようになったので、「戻るか、奥穂高を越えて穂高岳山荘まで行くか」。一思案して、奥穂高岳に向かうことに決めた。紀美子平から奥穂高岳まではコースタイムで1時間50分のところを1時間45分でついてので、多少の痛みがあるもののこの分では北穂高岳まで行けそうだと、その時点では考えた。頂上で昼食に岳沢小屋で作ってもらったお弁当を食べたが、このお弁当のご飯がまったく硬くて喉を通らない。岳沢小屋の夕食時に渡されたが、夕食のご飯は普通においしく炊けていた。夕食の釜と違う釜で炊いたものだったのか。おかずはおいしかったもののこれは残念ながらご飯は半分以上残さざるをえなかった。

奥穂高岳頂上

 昼食後、腰を上げたが左臀部の痛みがひどくなってきた。そしてかばうように歩き始めたものの奥穂高岳から穂高岳山荘までの下りのコースタイムが30分のところ45分もかかった。穂高岳山荘でさらに30分の休憩をとり、涸沢岳に荷を背負って登ってみたが15分もかかり、左臀部の痛みのために左足が思うように前に出ないし、踏ん張れない。また左手首にも痛みが出てきて、岩に手をかけるとある程度以上の力を加えると急に力が抜けてしまう。涸沢岳で30分近く様子を見たが痛みがひかない。これは様子を見ないといけないと考え、穂高岳山荘に戻り、10分ほど休憩したが痛みはひかない。

奥穂高岳と穂高岳小屋

 ここで考えたのが、「穂高岳山荘にとりあえず泊まり、明日の状態を見て判断する。次の選択は、明日の朝に筋肉のこわばりが更にひどくなっていたらここから涸沢小屋まで下ることが出来なくなるかもしれないので今日中に涸沢まで下ってしまう」という二者択一に思えた。
 当初の目的の奥穂高岳は登頂したので、これ以上無理をしてもしょうがないとの思いもあり、本日中に涸沢小屋に下る選択をした。ギックリ腰の再発も心配になった。ゆっくりと涸沢ザイテングラートと標識に名がついている道を涸沢小屋に向かい、ちょうど1時間30分で無事涸沢小屋に着いた。途中のクサリ場ではやはり左臀部の痛みにともない左足の踏ん張りに多少支障があり、左手を岩にかけることは避けた。

涸沢小屋から前穂高岳

 涸沢小屋は涸沢ヒュッテとともに涸沢フェスティバルの最中でツアー客も多く、混雑していた。テラスで一息ついていると下からまた20数名のツアー客らしい一団がのぼってきた。そしてテラスでガイドと付き添いが大声で客に注意事項を伝達しはじめた。傍にいた単独行らしき70歳近い男性が、「山に20数名ものツアーで来るのはうるさいし迷惑だ。犯罪行為に近い。追い抜くのも面倒。」とぶつぶついっていた。思わず私も内心では賛成してしまった。岳沢小屋であったツアー客も20人であった。20人というのが1人のガイドを雇い採算がされる基準なのだろうか。
 夕食後、この小屋で消毒薬をもらい血がこびるついている箇所に申し訳程度に塗った。20センチの傷が1箇所、10センチの傷が3箇所、5センチ程度の傷も5箇所ほど、丸い3センチほどの傷が3箇所。さらに左臀部には湿布を貼って寝たが、お尻の痛みでまず、寝る体制になるのがつらい、寝返りが打てないでつらい一晩であった。そして左のお尻の中にどうもタンコブのように硬くなった部位があるようだった。
 翌朝は心配した他の箇所の筋肉の強張りに発展することはなく、左手首の痛みは幸いにも無くなっていた。

本谷橋から北穂高岳

 ここまでおりたのだからと、あとはひたすら横尾、徳沢、明神を経て上高地温泉にたどり着いた。途中の道は平坦で普通なら樹相や周りの景色を愉しみながら下るのであるが、今回はそのゆとりもなく、ひたすらお尻の痛みに耐えながら、それでもコースタイムより早く上高地につけたのは、幸いであった。上高地温泉では、擦過傷に温泉が沁みて悲鳴を上げながらも湯船に浸かった。2軒の旅館・ホテルのうち片方が日帰り入浴2100円、もう片方が800円、当然安い方に入ったがこちらも露天風呂もあり十分楽しめた。ただし12時半からのため1時間半ほど昼食をとりながら時間をつぶした。

 今回の山行、はじめから雷鳥にもオコジョにもあわず、高山植物を愛でることも、鳥の声や口中の姿に目を奪われることもなく、ひたすら傷の痛みに耐えながらのさんこうであった。涸沢小屋から上高地までの平坦な道は、普通ならば陽射しを木々がさえぎって気持ちの良い歩行が出来たと思う。ジョギングでのぼってくる人ともすれ違った。横尾や徳沢あたりで数日避暑を兼ねて滞在するのも悪くないと思った。

俳句誌11月号投句

2012年08月24日 11時31分26秒 | 俳句・短歌・詩等関連
俳句誌11月号投句
★夏旺ん山巓丸き岩ひとつ
★山稜に汗のしたたりただ寡黙
★渓流のつり橋無言雲の峰
★碧空を突き抜け帰還赤蜻蛉
★雪渓のしずくや遠き旅終わる
★落蝉の緩慢なる死仁王門
★遮断機の影の動かぬ暑さかな
★ビル風の渦のゆくえや広島忌
★塞の神今日も生真面目蟻の列
★炎帝や父の死そしてわが行方


虫の音を今年始めて‥

2012年08月22日 12時50分32秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日も高温注意報が出された。しかし夕べ、はたと蝉の声が途切れ、実にかすかではあるが、そして何の虫の音かはまったくわからないが、秋の虫の声がした。蝉の声がまったくしなくなった瞬間は、不思議な静寂を感じた。その静寂を身にまといながらいつの間にか熟睡することが出来た。
 団地の棟は東西に3列並んでおり、南北の風が吹くことはまずないのだが、早朝は南北の風が珍しく吹いて少し涼しく感じた。暑さの中に秋をかすかに感じた。残念ながら、起床の時刻にはもうかっと太陽が照り、まだまだ夏の猛々しい暑さが都会を圧している。

 昨日のブログを読んだ方からメールを2通いただいた。いづれも「オーバーワークではないのか、歳相応に」というものと、「酔って歩くのは危険」というもの。ご忠告に心から感謝いたします。
 5ヶ月のジョギングの疲れが夏の暑さがピークの今、出て来る頃ですね。少々ペースダウンも必要かと思っています。
 そして昔から酔うと遠くからでも歩いて帰る癖、これはなかなか治らないのです。現役で仕事をしていた頃、歩きながら一汗かいて家に着くと、妻から通勤着が汗臭くなって困ると小言をいわれていました。今は運動の時と普段の時とそれほど着る物に差はなくなり、すぐ洗濯することになりますが、それでもやはり嫌味のひとつも言われます。
 酔いが醒めて浴びるシャワーは、何とも爽快。でも事故にあっては何にもならないので、自重するにこしたことはない。今後は避けるようにしたいと思う。というか、外でそれほどに飲んではいけないということだろう。反省の弁。

危機一髪、恥ずかしながら‥

2012年08月21日 10時20分16秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日は朝に短い距離でウォーキングとジョギングを半々。その後石川町駅まで所用で出向いたが、ウォーキングを兼ねて往復とも歩いた。友人と飲んだ帰りは、それほどの量は飲んでいなかったが、いい気持ちで散歩気分&酔い覚ましを兼ねてゆっくりと、自宅の最寄り駅の近くにある銭湯&サウナに向かった。
 途中、桜木町の駅前の国道16号線を横浜駅方面に歩いているとき、酔いが頂点だったのか、ふと目の前が暗くなった。そのまま歩いていると周りの景色がどうもおかしい。最初はそれでもそのまま歩いてみたがどうも景色が想定と違う。立ち止まって正面を見ると、横浜方面ではなく、関内方面に向いて歩いているようだ。これがどうしても納得できなくて、後ろを振り返ってみたが確かに後ろが横浜方面の景色だ。横浜方面に立っているビルが後ろに見える。
 しばらく立ち止まって首を傾げていたが、どうもふと目の前が暗くなった時に無意識に歩いている向きを180度変えてしまったようだ。これはいけないと、深呼吸をして、いつもリュックに入れている冷たいお茶を飲んで、心身を落ち着けてみた。やはり関内方向を向いている。
 国道16号線の広い歩道上での出来事で助かったといえる。車道に落ちたり、信号無視して車に轢かれなくてよかったと思うと同時に危なかったと背筋とゾクゾクと戦慄が走った。
 一息ついて、横浜方向を向いて再び歩き始めて無事横浜駅に到着、ドコモショップで携帯電話の充電サービスを利用しながら、椅子に座って20分ほど寝かせてもらった。その後は銭湯&サウナまで何事もなく、たどり着き、快適に2時間たっぷりと汗をかいた。家に帰着したのが11時半だったか。
 端から見たら、酔っ払いのおっさんが危うい足取りで歩いているように見えたのだろうか。ドコモショップでは怪しい年寄りが闖入してきたように見られなかったか。朝になって反省をしながら、これを書いている。61歳にもなって、こんなことでは困ったものである。

 昨日の歩数は32000歩あまり。昨日に続き30000歩越え。本日は歩くのはお休みとしよう。

国道16号線を月見橋経由で金沢八景まで

2012年08月19日 21時49分27秒 | 山行・旅行・散策
 本日はウォーキングの一環として、10時半頃に自宅を出発して、国道16号線まで出てから南下、京急金沢八景駅まで歩いた。強い陽射しで顔と両腕、両膝下はまたまた随分と日焼けした。

 途中、松本竣介が「Y市の橋」で描いた月見橋を通ったので、ひとつ下流の、画家が眺めたであろう金港橋からながめてみた。この二つの橋はこれまで幾度も通った橋ではあるが、あらためて、跨線橋と月見橋を一体のものとして眺めてきた。松本俊介が眺め、そしてそれをたどって洲之内徹が地図を書き、写真を撮影した金港橋からながめると、確かに跨線橋はこの地点からは独特のフォルムを見せてくれていた。この跨線橋は現在は通行止め。歴史的な役割も終え、まもなく取り壊されるようだ。

 帰途は京急で横浜駅までもどり、軽く1時間ほど銭湯&サウナで日焼けして汗臭い身体を洗って、18時半に帰宅した。
 約37000歩、大体24キロメートル位。歩いた時間は正味6時間ほどだったと思う。
 途中の蕎麦屋で日本酒1合とザル蕎麦1枚。日本酒は秋田の平良泉(旧仁賀保町、現にかほ市)があったのでいただいた。このお酒が置いてあるのは珍しい。とても懐かしくおいしかったような気がする。
 国道16号線、終点は三浦半島の走水である。今度、こんな陽射しの強くないときに、朝早くから出発して走水まで踏破してみたい。
 また金沢八景は歴史的にも有名でいたるところに名所旧跡の案内が立っている。俳句の吟行を兼ねてそれらをめぐって歩くのも楽しみである。

 追記 月見橋は平成8年架け替えられたとのこと。形は変わっているようだ。

松本竣介展(in仙台) 3

2012年08月18日 18時30分40秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
Y市の橋 1942


Y市の橋 1943


Y市の橋 1944


Y市の橋 1944 デッサン


 「Y市の橋」は4作品がある。そのうち戦前のそれも画家の大きな転換点である1942年から194年に描かれている。背景の建物が大きくなったり小さくなったり、跨線橋が鮮明になったりといろいろ変化があり、1944年のものが構図的にもすっきりしている。私はこれが完成形と思い、これが一番好みである。橋よりも跨線橋の形態が画家の主題なのかもしれない。実は人物が描かれているのは、2作品かと思っていたが、洲之内徹は1943年の人物らしい黒い影はベンチレーターではないかと指摘している。それはさておき、この3枚のように画家は年の風景を忠実に描いているわけではない。あくまで人工物の配列や構成にこだわり、主となる構造物の形を引き立たせるように配列を自由に変えていく。画家がこだわる都市の美がもっとも強調されるように周囲の構成を変えている。ここでは橋と跨線橋とこの二つの造形的なあり様にこだわっていることがわかる。
 しかしここでも都市は、活力を感ずることはない。人の流れもない。人間を拒絶した不思議な景観である。そこに1人描かれた人間らしき黒い影からも生きている活力は感じられない。それ以前に都市を描いていたものから、突如人間がすべて排除された不気味な無人の都市を思わせる。
 完成形のもののデッサンを横に並べてみたが、私はいづれの絵にもあるこのデッサンが好きだ。完成形をモノクロームで別の作品のように仕上げた感じもする。あえて掲載してみた。

 1941年頃を画期として大きく転換した松本竣介の絵について、多くは昨日掲載した「画家の像」「立てる像」「三人」「五人」を契機とするようである。私は洲之内徹の指摘するとおりこの4点の作品は、あの座談会に対する画家の反発を契機として、表現してしまった以上ある意味画家ののっぴきならぬ大きな力を感じて、自己防衛的な表現、そして自己の存在確認のための表現のような気がしている。
 そういった意味ではあの4点は、画家のネガティブな動機に基づく作品かもしれないのだ。それなのに「抵抗の象徴」としての作品に祭り上げられ、そして現在でも自称前衛党の党員・議員たちが大挙してこの展覧会を見に行く事態が続いている。画家にとってはいい迷惑かもしれない。
 そうであっても画家の思いは詰まっているのであり、画家の生涯を画した作品であることには変わりはないが‥。


街   1938年


街にて 1940年


都会  1940年


 本当は画家がどのように戦争を捉え、あの時代を潜り抜けたかは、画家の絵に対する態度、絵の変容の中から想像するしかないはずだ。私にはそんな力量はとてもないが、それでも気になることがある。
 1941年が画期となって大きく絵が変容するのだが、確かにそれまでの都市の風景は「街」(1938年)や「街にて」、「都会」(共に1940年)などのいわゆるモンタージュといわれる複合画法に登場する無国籍風の女性像や都市風景の絵とは大きな隔絶がある。
 画家は「今の僕は、人間的汚濁の一切をたヽきこんだところから生れるものを美と言ひたいのだ」というように、活気と猥雑とに充ちた都市の様相を、何の疎外感も違和感もなく受け入れてそして一心に表現していた。
 さらに今回の展覧会で「構図」と題されたセクションがあり、そこにはクレーやミロの影響をみることが出来る。具象的なものからより抽象的なものへのの志向が垣間見える。
 これらの絵を見てから、1941年以降の絵の特徴は、
1.以前より暗い画面であること
2.実景に基づくが、それは実景と大きく変容していること
2.人の存在が小さくなり、あるいは人が登場しないこと
3.人が存在するときは黒い塊として犬・荷車等と一体であること
4.街・建物・街路・工場・線路・運河・橋などの人工構造物が前面に 出ていること
などがあげられる。
 洲之内徹は松本竣介への造形的な関心について、岡鹿之助の影響を指摘すると共に、この1941年以降の絵について、「橋が川を横切る角度、川岸のカーブ‥そういうものこそが竣介の視覚的興味を強く惹きつけたのにちがいないと信じるようになった。彼は川面に枝を垂れている柳だの、水面に映る夕焼の空の残照だの‥そういんピトレスクなものにはまったく興味を示していない。人工の構造物の配列と組み合わせだけが、彼のポエジーに適うかのようである」と書いている。
 松本竣介という画家にとっては、この1941年を画期として、目に映る都市の、東京という都市の風景が大きく変容したのであることは確かだ。それまでの活気と猥雑と、そして無国籍的な要素を前面にきらめいた都市の様相は、あの美術家を圧倒的力で抑えようとする軍部ファシスト達の恫喝を契機として、画家にとっては大きく違った様相を示し始めたのだろう。それまでの都市を構成する人々への関心、人工の構造物への興味は、瞬時に変容させられたのではないか。
 ただしここで多くの場合に問題となる、日本というナショナルなものと近代との相克に類するような葛藤は松本竣介という画家にはなかったようだ。このことはまた大きな課題となるのだろうが、私の手には余る。
 それまでの活気に満ちていた都市は突如画家にそのエネルギーを与えなくなり、無国籍な人びとの往来も影を潜めてしまったのだ。かわりに目に飛び込んでくるのは、静謐ともいえる静かに押さえ込まれた人工の構造物と、時代に取り残されあるいは翻弄されて押し黙る人びとだったのではないだろうか。同時に、画家自身とその家族が生きていくための厳しい生活のため現実と、画家自身が寄って立つ思想・理念の再検討を迫られたといえる。戦争というものが画家にもたらした変容はこのようなものではなかったか。
 画家は時代からの疎外感を都市からの疎外、あるいは孤立と認識しているのだろう。都会を見つめる目は、造形的に都市を具体的な実景から再構成するようになったのではないか。それらが1941年以降の絵の変容に結びついたのではないかと思うようになった。
 画面に現れる点景としての人物はそのような画家を象徴し、あるいは都会を見つめる自己を投影したものであろう。ここでは「画家の像」に見られる大見得を切ったような自負もなければ、「立てる像」のように自己が寄って立つ思想を表現することが許されない時代への不安な意識もない。都市の中に描かれる人物は極端に小さく、そして傍観者的に点景となっていく。この2枚の絵は、背景の描き方といい、古典的な西洋絵画に接続するような人物像である。ナショナルな、日本の絵画の伝統への回帰とは正反対の方向を示している。だから抵抗の画家の名が冠せられたのだろうか。しかしこの方向はこれ以降試みられていない。
 ただ都市を造形的に見つめなおすという自己試練ともいえる厳しい課題に耐えるエネルギーに、私は敬意と共感を覚える。
 画家は抵抗の画家といわれて持ち上げられるような政治的なメッセージを絵画によっては表現していない。しかし強いられた条件のなかで、自己の表現のあり方に強く執着し続け、それをやりきったことは確かである。「抵抗の画家」はその描く絵画の方法論で、軍部へ媚びもせず、活力を失って世界性を喪失した都市の現在を描ききろうとしたのではないか。そしてそれを見つめる目を、黒い人物像として画面に描いたのではないか。政治的なプロパガンダによる「抵抗」などよりは余ほど芸術に対し誠実に振舞ったといえないか。

松本竣介展(in仙台) 2

2012年08月17日 14時07分20秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
画家の像 1941


立てる像 1942


 「画家の像」「立てる像」「三人」「五人」は一体のものとして鑑賞され、論じられることが多いそうだ。今回の展示でもひとつの括りとして4つの作品が並べられている。
 画家の像が描かれた1941年に発表された、陸軍省情報部の3人の軍人と御用批評家1人という画家が1人も出席していない座談会に、反論する形で書かれた「生きてゐる画家」が引き合いに出される。この「生きてゐる画家」という反論も今回のカタログに資料として掲載されている。
 他の画家が無視ないし反応しないことをもって応じたの対し、松本竣介の反論は、「権力をもった文化破壊者として威喝しつつ立ちはだかる軍部=ファシズムに対して、人間と芸術家の名のもとに抗議している」(土方定一)という評価が下され、戦後も抵抗の画家といわれた。
 しかし果たしてこれだけの評価でこの時期の、そしてその抵抗の画家の象徴的な絵である4点の人物像を評価していいものなのだろう。洲之内徹は「松本竣介は、ストイックな性情と一種の殉教者的熱情の持ち主であって、自らの理想に殉じて甘んじてタテマエ論者にもなり、そしてそういう自己の内部に相克を感じながらも、陶酔を感じることが出来たのだ」‥「松本竣介は『人間と芸術家の名の下に』立ち上がり、たちはがかっているのかもしれない。だが、その物々しい大仰なポーズの虚しさは、彼の自負と使命感と陶酔の虚しさなのではないだろうか。私は松本竣介が好きだ。しかしそういう松本竣介は、私は好きになれないのである。」としるした。この洲之内徹の見解は、「抵抗の画家」という松本竣介という画家をその枠にはめ込んでしまうこれまでの評価を覆すのに大きく貢献した。だが、その4点を、「大仰なポーズの虚しさ」としてばかり見ると、その後の松本竣介という画家の歩みが理解されなくなるのではないか、と思うことがある。
 なぜこんなことを書くかというと、「抵抗の画家」とはいいつつ、戦争末期に向かって松本竣介はこれ以外の「抵抗の画家」らしい絵は描いていない。描いているのは、静謐でしかも暗い都市風景である。これ以降は立ちはだかる人物も描いていない。それどころか、「生きてゐる画家」をよく読むと洲之内徹の指摘するとおり「軍人の言う『世界的な価値』に補足、あるいは修正を行ってはいるが、『国策』そのものには抗議していないばかりか、協力を約束してさえいる」。その上「航空兵群(試作)」(1941年)という戦争画を出品している。また岩手県で戦意高揚の戦争が展で水彩画やポスターを出品している。これは「生きてゐる画家」という論文を発表するための方便としてのレトリックではなく、洲之内徹の指摘のとおり「国策」そのものは否定していない証左でもある。カタログの解説では、「戦争画という主題に芸術としての意味を見出そうと試みたが、出来栄えには納得がゆかず‥」ということのようだ。
 かといって洲之内徹のいうとおり「大仰なポーズの虚しさ」として4点をひとからげに否定的に評価してしまうのも、私は極論だと思う。

 確かに1941年以降画風は大きくかわり、その画期がこの4点の作者と思しき人物を大きく配した人物像だ。松本竣介の描く人物像は自画像を除いて具体的な個人の特定はほとんどできないのだが、この4点では妻の禎子夫人と本人が登場する。子供は構図にあわせて「構想された」人物像だ。しかし4点は少しずつニュアンスの違いがある。
 まず「画家の像」では都市の遠景を背景に立つ画家本人は確かに何者かの圧力に抗するように毅然として立っている。半分後ろ向きの禎子夫人と思しき女性像は、画家の後ろでおびえるような視線を背後に向けている。子供の表情ははっきりしないが、この事態に母親にすがりつつあるようでもある。家族を守るために立ち尽くすとでもいうようなきりっとした画家の表情に、確かにこの時代の圧力に抗しながら、画家として自立していこうとする気概を感ずる絵である。背景の都市の絵は、たとえばダヴィンチのモナリザの背景の絵のように、世界を象徴するものとして画家の寄って立つべき世界を暗示している。これには東京や横浜の建物や都会の風景を集めている。
 これに対して「立てる像」では一転して単身像である。そして毅然とした立ち姿というよりも、何か不安を持ったような空ろな視線を感じるのは私だけだろうか。画家が自分の進む絵の方向に対する自信と不安を同時に表現したような表情でもある。孤独感が滲み出ている。そして背景が、高田馬場にあったというゴミ捨て場・清掃事務所と変電所といわれ具体的な場所である。野良犬と2人の小さな人物が描かれている。背景の景観は都市一般ではなく、画家が好んで描いたどこかさびしいスポットの当たらない平凡な、もっといえば都市の底辺に近い一角である。そういうところに愛着を持ち、そこに都市の現在を見、そして「画家の像」よりも都市の中にさらに一歩踏み込んだそこを自分の寄って立つ根拠にしていると宣言しているようである。この背景の元になった「風景」(1942年)にははっきりと1匹の犬と1人の哀歓のただようような人物が書き込まれている。松本竣介の描く都会風景にはこのようにさびしげな孤独な人影が必ずといっていいほど書き込まれている。

三人 1943


五人 1943


 「三人」は人生の三段階を描いたとされている。背景は曖昧として樹木一本以外は判然としない。しかし正面を見つめている少年の眼差しは毅然としたものを感ずる。三人とも裸足で地面にどっしりと立っている。
 「五人」は夫人と思われる女性以外は構想された子供3人と画家本人が描かれている。背景は「画家の像」ほどははっきりしないがそれでも煙突と煙も見え、都市の遠景であることがわかる。これも人物は全員裸足で地面についている。画家の姿でこの絵だけは両手をポケットに突っ込んでいる。傲然ともいえる「画家の像」、少し不安げな「立てる像」はともに両手先は軽く握っている。私は、すこし気を緩めたポーズらしく感じている。一方で婦人と思われる女性像は何かしら諦念というか、諦めというか、放棄された意志すら感ずる。これはよくわからない。
 この「三人」と「五人」は同時に製作されたらしいが、厳しい時代への拮抗や不安といったメッセージではなく、生活者としての自立の現在を描いていると感じる。裸足がその暗喩ではなかろうか。この戦争という厳しい時期、生活の厳しさもあるがそれを正面から引き受けつつ、都市風景の絵が作成されていく。


 この4点の絵、確かに「生きてゐる画家」を発表して、時代の流れに大きく異議を唱えたあとの画家の心象風景を暗示していると思う。そういった意味では画家の抵抗が読み取れる。しかしすべてが大仰な上滑りしているわけではない。4点それぞれに読み取れる心象風景は違いがある。「画家の像」からは不安とない交ぜになってはいるが昂然とした気概が読み取れる。洲之内徹のいうように自負と使命感と陶酔を読み取ることもできる。しかしこの自負や使命感は具体性が乏しい。「立てる像」は一転して、不安が前面に立っていないか。背景の風景が示しているように都市の状況は暗く、背景に描かれる人は寡黙に正面に対し背を向けている。都市はその活力を失ったかのように静謐で寡黙をしいられているのだ。「三人」「五人」では、本人と家族の現在が表現されているらしいが、外界からの圧倒的な力への意志というよりも、内的な必然にかられて描かれたような気がする。繰り返しになるが、戦争というものへの怒りや抵抗というものを読み取ることはできないような気がするがどうであろうか。それとも私の感じ方に欠陥があるのだろうか。



 戦争が画家にどのような影を投げかけていったのか、私にはよくわからない点もあるが、次回以降少しずつ言及してみたい。

 

松本竣介展(in仙台) 1

2012年08月16日 11時31分54秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 8月10日仙台を訪れたのを幸いに開催中の「生誕100年松本竣介展」を見てきた。6月から7月にかけて神奈川県立美術館葉山でも開催していたが、それは見損なった。なお、11月23日から1月14日まで世田谷美術館にても開催予定となっている。
 油彩画124点、デッサン120余点、その他膨大なスケッチや資料も展示されている。この回顧展を逃したら松本竣介の絵をこれだけ一堂に見る機会はなさそうである。






 構成は
第1章 前期 初期作品、都会、郊外、街と人、構図
第2章 後期:人物 自画像、画家の像、女性像、顔習作、少年像、    童画
第3章 後期:風景 市街風景、建物、街路、運河、鉄橋付近、工場、   Y市の橋、ニコライ堂、焼跡
第4章 展開期 人物像、新たな造形へ
と整理されている。

 私は松本竣介という画家を知ったのも最近だし、丁寧に画集を見たわけでもない。そして見たことのある絵は「画家の像」「立てる像」「並木道」「ニコライ堂」「Y市の橋」くらいだ。
 それでも前2者の背景の都市の景観と大きな人物との異様なアンバランス、後3者のその都市の静謐でいて異様にゆがめられた変形のあとをうかがわせる造形と哀愁を醸し出している小さな人間、これは決して忘れることの出来ない絵である。
 今回初めて生涯の作品の全体像を概観して、あらためてその魅力を再認識した。

 モディリアーニやルオー、クレーやミロの影響を受けた、そしてひょっとしてシャガールも念頭にあったかもしれない初期作品からも、都市それも建物に対する関心が濃厚に読み取れる。晩年というか戦後まで続く人物に対する関心もひとつの系統があるが、私にはその流れよりも、都市への松本竣介の視線に引かれる。都市の景観に対する造形的な関心がこの作者の生涯の課題だったのだろう。

本日の夕食献立

2012年08月14日 20時20分03秒 | 料理関連&お酒
 本日は本格調理の2回目。料理は3品。
★ 油揚げの玉葱・豚肉詰め
1.油揚げ3枚を擂粉木でしごいて、2つに切り、袋状にする。一部を 帯状に切り取りみじん切りにして2に加える。
2.玉葱2個、ピーマン1個をみじん切りにする。
3.豚肉の薄切り肉を6枚用意する。
4.袋状にした油揚げの内側にに3の豚肉を敷き、2の具を袋一杯に詰 める。
5.グリル・魚焼器等で詰めた物を7~8分程焼く。
6.食べるときは生姜醤油をかける。
 焼くとき焦げ目が付く程度を目安とし、早めに焦げ目がついてしまったときは電子レンジで具に火が十分通るように加熱する。
 レシピ本では、豚肉とピーマンについては触れていなかったが、酒の肴ではなく夕食のメインディッシュとして少々物足りないと思い、豚肉を加え、いろどりにピーマンのみじん切りを加えてみた。
 豚肉をきれいに油揚げの内側に敷くのは難しかった。具を包んで油揚げに詰めた方が楽かもしれない。
 さらにレシピ本ではからし醤油で食することになっていたが、私の好みでおろし生姜とごま油と醤油をかけてみた。

★ くずし豆腐
1.木綿豆腐1丁は十分水切りをして、手で多少くずし、冷蔵庫で冷や しておく。
2.茄子1個を電子レンジで火をとおし、みじん切りにする。
3.胡瓜・茗荷・大葉をみじん切りにする。
4.1に2、3を加え手でざっくりとほぐしながら混ぜる。
5.揉み海苔をかける。
6.食べるときにごま油を加え、おろし生姜添える。
 レシピ本では、具に長ネギのみじん切りもあったが、用意がなくて今回はパスした。またレシピ本では生姜のみじん切りを具に加えていたが、今回はおろし生姜にしてみた。

★ サラダ
1.胡瓜・ピーマンを適当に切り、薄切りの玉葱を水に曝し、適当に皿 に盛り、ゴマだれ味のドレッシングをかけて食べる。
 鰹節をかけて、醤油風味のドレッシングもいいのだが、油揚げの袋詰め、崩し豆腐共に醤油味だったので、鰹節を省略しゴマだれ味のドレッシングとしてみた。

 油揚げの詰め物は3枚を二つに切り計6個作ったが、夫婦2人では量が多すぎた。2枚で十分であったようだ。くずし豆腐も豆腐1丁を使ったが、これを半丁にしてもよかったかもしれない。サラダは適当にありあわせの野菜で十分。
油揚げも、くずし豆腐もそれぞれに酒の肴として十分に通用する。
 作るのに要した時間は1時間ちょっと。少しペースをあげることが出来たかな。例によって作り終えたときはボール・擂粉木など調理器具も、魚焼器も、包装材も生ゴミも処理済で台所はきれいに片付けることが出来た。これは私のこだわり。

 次回はいつになるのか、月に2度くらいだから同じものというよりも毎回違った料理に挑戦しようと思う。


横浜での句会投稿句

2012年08月11日 20時45分43秒 | 俳句・短歌・詩等関連
句会投稿句
★遮断機の影の動かぬ暑さかな
★ビル風の渦のゆくえや広島忌
★落蝉の緩慢なる死仁王門

 鳴子・仙台の往復に疲れたのか、本日はジョギングもウォーキングも、そして身体を動かすことも何事もする気力がわかず、午前中はボーッと過ごした。横浜では朝から雨が降るとの予想がはずれ、午後も夜も降らなかった。しかし湿気はかなりあった。
 午後に行われた横浜に出席のためようやく身体を起こし出かけた。句会のあとはようやく身体も横浜での暑さに慣れたのか、その後に行われた暑気払いには出席し、参加者と和気藹藹と懇親を深めることが出来た。

仙台より先ほど帰着

2012年08月10日 23時19分28秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は妻の母の納骨式で仙台へ。納骨式の前に今人に貸してある妻の実家を点検し、お寺へ向かう途中で川内にある宮城県美術館に立ち寄った。納骨式が終了し夕食を仙台でとり、先ほどようやく横浜に帰ってきた。
 佐藤忠良記念館と併設の立派な美術館である。何年前だったか、佐藤忠良記念館を訪れたことがあり、今回は2回目。松本俊介の生誕100年ということでの画業全体が見渡せる大規模な展覧会である。まとめて松本俊介の作品の多くを見ることができるというので、仙台を訪れるのにあわせて足を伸ばした。
 感想は夜も遅いので明日以降に掲載予定。

 仙台市内は横浜や東京よりは多少気温が低いとはいえ、それでも市街地の中心部の陽射しはビルや舗装道路の照り返しで、きつい陽射しである。しかし納骨を行った仙台市の西の町外れでは、途端に陽射しは昨日の鳴子温泉の感想で記したように、途端に陽射しの厳しさは和らぐ。蝉の声も緑が多い所為か、柔らかく聞こえた。町外れといっても中心街からタクシーで15分程度の作並街道沿いの寺。仙台がサラリーマンにとって住んでみたい都市としてかなりの上位を占めているというのも頷ける。