Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

日付の変わらぬうちに就寝予定

2019年09月30日 21時48分33秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 今月も本日で終了、明日からは10月となる。10月と聞くと年末にもう近いという思いがしてくる。もう10月、まだ10月、どちらの感慨の方が大きいのだろうか。
 「もう」と「まだ」、考えてしまうと堂々巡りになってしまう。しまいにはどちらがどちらの意味あいなのか、分からなくなってしまって止めてしまう。

 今晩は「ゴヤⅢ」を読みながら、明日の早起きにそなえる予定。時たま早起きという緊張がないと私の場合はどんどん夜更かしに嵌り込み、しまいには朝刊が配られる頃に布団に入る状況になってしまう。

 これより若干の夜のウォーキング。

 


慌ただしい一日終了

2019年09月30日 19時14分32秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 とても慌ただしい一日がようやく終了。朝から親の家にベッドを搬入。部屋の手摺り設置や介護用の工事施工は明日に延期となった。それでも何とか明日工事に入ることができる。団地の中の工事なので、管理組合の役員にも工事の承認で相談に乗ってもらったり、急いで書類を回してもらったりと、迷惑をかけてしまった。

 工事が延期となって空いた時間を利用して、別の場所で所用を済ませ、夕方からは眼科で緑内障の薬の処方をしてもらい、10日の白内障手術以降速やかに執刀医の手紙を持参して診察を受けることについて相談。徒歩15分ほどの薬局を往復して薬を貰い、ようやく帰宅。

 いつものとおりの愚痴になるが、緑内障の薬代毎回5000円/月というのはなかなかつらい。ジェネリックがないというのが原因である。せめて半額にでもなってほしいものである。

 明日は朝一番で工事が始まるので、立ち合い。正午までには終わるとありがたいのだが・・。午後からは申し込んでいた「古代史セミナー」の第2回目の講座。工事が一日ずれ込んだために参加できない可能性が高くなってしまった。やむを得ないことであるが。
 正午までに工事が終了すれば、何とか開始時間に間に合う。難しい綱渡りである。

 こなさなくてはならない事ばかりが募って、消費税前の買いだめなどとてもできる時間的ゆとりもない。金銭的ゆとりもどこにもない。


「神奈川近代文学館第146号」(続き)

2019年09月30日 11時42分06秒 | 読書

 昨晩に続いて「神奈川近代文学館第146号」を読んだ。

・胸骨を風にさらして-中島敦という“法外”  辺見庸
「中島は「在る」ということの最も基本的な自明性を、おそらく戦時下にあってさえ大胆に疑った。‥存在の(ひいては「世界」の)不確かさと無根拠を語る。この訝りはどこまでもラディカルである。外部世界のみならず、自己存在の根っこにまで疑りが向けられてゆく。いままた、死者・中島敦の唇が動いている。‥「俺というものは、俺が考えている程、俺ではない」(カメレオン日記」)。そう呻いているようだ。」

・人間を見つめる               寺尾紗穂
「(南洋庁の役人として赴任した中島敦は)島民という他者を、きちんと見つめて描こうとしたように思う。‥中島敦の視点がいつまでも古びない理由の一つは、対象をきちんと見ようとしているということなのだろうと思う。それが文学や芸術という話を超えて、人間としてどれほど大切な知性の在り方であるか、彼が短い生涯に残した、決して多くはない作品たちがこれからも誰かに伝え続けてくれるだろう。そのことにただ、希望を感じている。」

 先に記した「図書10月号」の「中島敦・土方久功とポナペ島ジョカージ叛乱」(小谷汪之)と読み比べると寺尾紗穂氏の「人間を見つめる」は興味深い。


「神奈川近代文学館第146号」から

2019年09月29日 22時12分29秒 | 読書

 昨日図書10月号と一緒に「神奈川近代文学館第146号」も届いた。昨日から11月24日まで開催の特別展「中島敦展 魅せられた旅人の生涯」の紹介が中心。これは来月に見に行く予定。それまでに特集記事には目を通す予定。
 岩波の月刊の広報誌「図書」の表紙の絵を担当している司修氏が連載随筆を書いており松本俊介の「雑記帳」について記している。今号は連載の三回目。
 「雑記帳」の1937年6月号を紹介し、「日独防共協定が結ばれていることを想えば、「危険」という「エッセエ」に属していた」と記し、そこに掲載された中條百合子の「ヒューマニズムの諸相」を紹介している。
 この「雑記帳」は興味があるのだが、読む機会に恵まれていない。


「図書10月号」

2019年09月29日 20時21分14秒 | 読書

 図書10月号を読了。結局今月号は16編のうち12編。今回は簡潔に短く引用。

・高い塀の中の世界を救う博士の夢      司  修
「救済のメッセージが聞けるだけではなく、それを耳にするだけで世界は救われるはずでした。‥‥待合室の囚人は増え続け、博士の重大なメッセージは永遠の謎となり、塀の中の謎となり、塀の中に入ったことを嘆くしかなかったのです。」

・新元号「令和」の文化背景         興膳 宏
「王義之『蘭亭序』(主題)→王渤風の駢文(文体)→張衡『帰田の賦』(語彙)という三段階にわたる回路を経て、「梅花歌の序」は誕生したことになる。(奈良朝の知識人たちは)その共通の形式におそらく日中という国境の意識を持たなかった。その具体的な証しが「梅花歌の序」ともいえる。奈良時代の文化のひとつの形がそこに示されている。‥かな文化の誕生する夜明け前の光景がそこに垣間見えるからである。」

・顔真卿墓探訪記              魚住和晃

・家の形を求めて四〇年           小松義夫
「人間はたった4キロメートル強の空気の層の中でしか、子孫を残し生きられないことを、身をもって知った。」
「『生きているだけでいいなんて、そんなことは思いもしていなかった』という女子学生の感想に、学生たちが普段、能率重視の空気や同調圧力などに縛られ、何かに追いかけられていることを感じた。このごろ、世界各地で日本の若者が旅をする姿を見かけなくなった。なぜだろう、といつも思う。生きているだけで絶対よい、と感じるために、日本社会に距離を置いて外国に出て、旅をしたり、‥ネット環境でなく自分の目で見て感じる体験を過疎寝るとよい。」

・中島敦・土方久功とポナペ島ジョカージ叛乱    小谷汪之

・田中美津を追ったドキュメンタリー映画撮影機   吉峯美知

・標準語との距離感について            藤原達也
「韓国語の初歩の初歩をかじって気づいたのは、敬語の煩雑さと、述語にもっていくまでの意識の流れという点で日本語とよく似ていることでした。」
「言葉が現実にたどり着かない苛立ちを存分に味わったうえで、なおも言葉を発するならば、出会った人たちを忘れるなこの単純そうにみえて実は難しい行為を心身に続けられるしかない、いうことですね。」

・癌になって考えること              長谷川櫂
「癌を宣告されたことは死そして生について、あらためて考える絶好の時間を私にもたらしたのである。  『しんかんとわが身に一つ蟻地獄』  櫂」

・借金・長江・胡耀邦               さだまさし

・神、おそろしきもの               三浦佑之
「鬼あるいは妖怪や怪物を、風土記は積極的に記載していない。五項目にわたる撰録要求のなかに該当する内容がないから拾わなかったというのてはなく、われわれがいう鬼あるいは妖怪や怪物といった明確な概念を持っていなかったからではない。一方、いずれの風土記においても、神はそれぞれの土地に祀られていばかりではなく、恐ろしいものとしても存在する。」
「八世紀初頭の「今」は悪しき力を発揮するような存在ではない。悪しき神から鎮まる神へと変貌して、神は今に存在する。」
「ヤマトの天皇の威力が神をも凌いで存するということを語ろうとしているというふうにも読める。」

・同音反復                    片山杜秀
「武満の音楽は、オーケストラ曲でもピアノ曲でも映像音楽でも映画音楽でも、『論理的に流暢なもの』からいかにして距離を取るかということへのこだわりから、いつもとらえられるように思われる。」

 


午前中は読書タイム

2019年09月29日 12時33分53秒 | 読書

 朝から曇り空で気温はあまり上がらない。予想最高気温が26℃となっていた。

 9月22日の「「酒井抱一」(岩波新書)購入」に著者の井田太郎氏がツィッターでコメント。嬉しかったが、自分の文章を読みなおしたら、訂正した文章と訂正後の文章が混在していた。慌てて訂正後の文章に変え、再投稿。訂正したときが深夜だったのか、頭が混乱していたようだ。情けない話である。

 昨日届いた岩波の広報誌「図書10月号」を読んで午前中を過ごした。16編中10編。残りの内、いつも目を通している三浦佑之氏と片山杜秀氏の文章を読めば一応終了予定。
 いつものとおりの覚書風引用は、本日か明日にまとめる予定。

 これより親のリハ病院へ見舞いへ。2日の退院に向けて準備。


京急線の事故現場

2019年09月28日 21時45分21秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 久しぶりに旧東海道を川崎宿方面に歩いた。旧東海道といっても洲崎神社から北は現在の国道15号線の中に敷地がある。先日大型トラックと京急線の衝突事故の起きた神奈川新町駅の踏切で、亡くなった運転手に手向けた小さな花束とお供えの水の前で合掌してから子安駅まで行って、再び同じ道を引き返しきた。
 先日の事故の現場は小さな花束とペットボトルの水がなければ事故のあった場所とはわからない。もう忘れ去られようとしていることに何とも言えぬ感慨が湧いた。
 労働災害であることに違いはない。なぜあの道に入らざるを得なかったのか、そして最善の対応はどうあるべきだったのか、という教育・指導は行われていたのか、この議論がどこからも聞こえてこない。
 ことほど左様にあっという間に人の死は忘れ去られていく。場所の記憶とともに頭の中の引き出しにしまっておきたい。

 しかし68年も生きているとこの人の死の記憶ももう抽斗から溢れるほどになり、やはり記憶は難しいのかもしれない。人の死にまつわる教訓は、それを生かすということと、供養することとは別にものなのだろうか。

 ウォーキングから戻ってから一息ついて妻と外食。といってもいわゆる街中華。生ビール一杯ずつと、横浜ならではというサンマーメンと餃子と麻婆豆腐各ひとつずつ。60代後半の夫婦二人ではこれで余るほどである。麻婆豆腐は注文しなくてもよかったかもしれない。


ウォーキングに出かける

2019年09月28日 15時35分18秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 取りあえず自宅にいてこなさなくてはいけないことは終了。日がかげって曇ってきた。ウォーキングにはいい天気のようだ。明日からはまた雨も降るとのこと。ウォーキングをするのであれば今のうち、と思われる。

 夜は妻とどこかで外食、といっても豪華な食事は無理。何処で何を食べるか、考えながらのウォーキングである。妻は用事があるといって一足先に自転車で出かけた。何の用件かは聞き忘れた。

 本日はどこらあたりをウォーキングするか、玄関を出てから気分次第。旧東海道を北上するか、南下するか、開港の道か、鎌倉道か、その他の旧街道にするか。あるいは現代の道にするか、住宅街の道をのんびり歩くか‥。


彼岸花 再

2019年09月28日 13時57分40秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 午前中に工事業者が書類を持ってくるとのことで、朝7時に起きようと思っていたが、結局8時に起床。年寄りは早起き、という格言はわが家族には当てはまらない。



 ケヤキの大木の下、日陰に毎年咲く彼岸花が今年も咲いた。一昨日まで蕾であったが昨日花をひらいた。

★照準の定まらぬ対峙彼岸花       藤井誠三
★砂に陽のしみ入る音ぞ曼珠沙華     佐藤鬼房

 第1句、ちょっと怖くてよくわからないところもある。「戦」を連想させるのが、「照準」と「対峙」という言葉。戦前の言葉遣いは分からないが、戦後は企業では「販売戦略」だの「絨毯爆撃」「成長の突破口」だのと軍隊用語を平然と、不用意に使っている。それがデモや選挙でも政治家の発言でも使われる。何とも物騒な資本主義・「民主主義」が戦後75年になろうという今も続いている。
 仕事なのか、政治的場面のか、何かを目的に他者と相対しているのだろう。その糸口が見つからないということなのだろう。こういう強いものいいに対して作者は大きな違和感を持っていると思われる。それが「定まらぬ」という語に籠められているのではないか。単に目的がはっきりしない、というだけでなく会議の在り様・人との対し方に腰が引けている。私には好ましい人の性(さが)であると思う。生身の人間のつぶやき・ぼやきを感じた。
 さらに赤い不吉な予感と不即不離の彼岸花を配した。狙いは相対する人である。相対する人を倒すのか、販売対象者としての狙いなのか、何とも殺伐とした社会への違和感満載の句として理解した。

 第2句、まずは「閑さや岩にしみいる蝉の声」(芭蕉)を思い浮かべる。鬼房の句は、無音の音。蝉の声ではなく太陽の光が砂にしみ入るときの音が聞こえるのだという。その光は墓場に眠る死者にとどくことはないはずである。それゆえに光が届くようになるために曼殊沙華が咲くのである。これには論理ははなく、感覚でしか理解できない。
 同時に私は「いつのまにか、/今迄流れてもゐなかった川床に、水は/さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました‥‥‥」(中原中也、一つのメルヘン)を思い浮かべた。陽や陽を受けた音が実際に聞こえ始めた、という詩である。蝶にみとれていた間は無音であったけれど蝶が見えなくなると音が復活する。
 場面は違うのを承知でこの詩を思いついた。赤い曼殊沙華から目を逸らした瞬間、無音であるはずの「砂に陽のしみ入る」音が聞こえたのだ。動く蝶と動かない曼殊沙華、だが目を奪うことに違いはない。それが目から逸れた瞬間、世界が変わる。
 この変化を捉えることが、詩の成立なのだろう。


秋の蝉

2019年09月27日 23時55分20秒 | 俳句・短歌・詩等関連

 「音楽の理論」(門間直美)は5ページほど読んで、いつものとおり本棚にめでたくしまい込んでしまった。「ツンドク・タテトク」を半世紀続けて、いつも最初の〇〇ページで終わってしまう。
 その後は「ゴヤⅢ」を読見進めた。こちらは興味深く読み進めている。

 秋の蝉の声も微かに、そしてときどきしか聞こえなくなった。

★遠き樹に眩しさ残る秋の蝉       林 翔
★秋蝉のこゑ澄み透り幾山河       加藤楸邨
★蜉蝣やわが身辺に来て死せり      和田悟朗


音楽理論の事始め

2019年09月27日 20時32分25秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 リハ病院からの帰途は歩いてみた。少しだけ遠回りをして神奈川大学の六角橋キャンパスの生協に寄って家まで歩いた。約8000歩ほどであった。寄り道をしなければ6500歩程であったろうか。行くときは陽が当たり暑かったが、帰りは陽射しも大きく傾き、ウォーキングとしては楽であった。ただし洗濯物の入った紙袋を持ち歩いたので、腕は草臥れた。

 昨晩の宴会の影響は体から消えたと思うが、本日は休肝日。

 昨日の昼間に続き、夕食が住んで読書タイム。ふと思いついて、「音楽の理論」(門間直美、音楽之友社)をひっぱり出してみた。音楽の理論というか、楽典というのはいつも数ページで、高い塀のようなものに跳ね返されてしまう。だいたいは和声の理論、それもほぼ最初の「和音の進行」で挫折する。
 今回はそこまで行く前に放り出しそうである。もともと完読を期待してページをめくっているのではなく、楽譜をながめるのが楽しいのでめくっている。
 それなら有名な曲のスコアで十分、といわれる。それもそのとおりでスコアを見るだけで十分に楽しい。しかしやはり「理論」というものに惹かれるのも事実である。

 どういうわけか、私の頭の中は「理論」と聞くと活性化されるようだ。理解できても理解できなくても、「理論」という語感に弱いのだと思うことにしている。いつか読もう、と思っているうちに50年近く経ってしまった。

 むろん、「酒井抱一」と「ゴヤⅢ」は手放さずに読んでいる。ユックリではあるが。


「知性の叛乱」‥いまいづこ

2019年09月27日 10時22分17秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 たっぷりと7時間は寝た。しかしまだ眠い。朝起こしに来た妻に、にんにくの匂いがきつい、といわれた。そういえば昨日はだいぶにんにくの効いたネギをたっぷりと食べた。寝る前の入浴に加えて、朝のシャワーでもう一度全身をくまなく洗身。だいぶさっぱりとした。
 と油断をしたら、キーボードの横に肘をついたまま寝ていた。自分の寝息で目が覚めた。

 昨日飲みながら退職者会の会員と話をしていたら、「50年前は『知性の叛乱』、現在は『知の敗北』」と誰かが言っていた。別の仲間は「いやいや『常識の敗退』」、「あこがれるような『知性』のかけらも見えない」、「『粗暴の横行』がキーワード」とも言っていた。言葉遊びはわれわれ酔っ払いのたわごとではあるが、われわれを取り巻く社会が、何とも情けない社会になってしまったものである。
 同時に話題となったのは「介護」。こちらは言葉遊びや笑いはなく、それぞれの体験を頷きながら聞いていた。
 そして「カジノ」へ舵を切った市政への怒り。

 と昨晩を回想しつつ、うつらうつらとしている。本日の気分は「後退局面」。


草臥れた本日は間もなく就寝

2019年09月26日 22時49分13秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 横浜駅近くの居酒屋から歩いて帰宅したのが21時頃。ボーっとしているうちに時間がだいぶ経ってしまった。
 入院していた親の退院が来週に決定。手摺り設置等の部屋の改造は来週早々の予定である。ギリギリでなんとか間に合いそうである。

 退院後の生活の在り様についていろいろと手を尽くしている。いざとなるとこれまで聞いていた知識とは違うことがたくさんあり、戸惑うことばかりである。
 初めてのことは、なかなかうまくこなせない。分かってはいるが、イライラすることが多くなってきた。

 宴会の途中で草臥れてほとんど寝てしまっていた。昼間のウォーキングが思ったよりも陽射しが強く、そして暑くて体力を消耗したようだ。
 お酒を飲んで心地よい眠りというのは幸せである。宴会が終わると同時に目が覚めて、歩いて帰る気力が戻ってきた。

 本日はこれにて就寝予定。だいぶ草臥れた。


萩の花 Ⅱ

2019年09月26日 15時33分35秒 | 俳句・短歌・詩等関連

★地ずり萩紆余曲折は口にせず      林 香稟
★白萩の一叢号泣の代り         恩田侑布子

 萩の花というと、乱れる・こぼれる・露・風の連想が圧倒的である。「乱れる」から艶のある句にしたりと連想が固定してしまう。そこから自由な句が欲しいと思ってもなかなか見つからない。
 そんなことを考えながら二つの句を選んでみた。いい句なのか、というと自信はない。

 第1句、地ずり萩、というのは地面まで垂れ下がった萩なのだろう。現実過程での紆余曲折、苦労は云わぬがいい。相手に恩着せがましいから。その紆余曲折は地面を這いずり回るような苦労だったのであろう。地面を撫でるようでは花も可哀そうかもしれないが、それが逆に美しさを際立たせるものであると納得すれば、いいのである。

 第2句、「号泣」とは萩のイメージからは対極にある激しい感情ではないか。萩はつつましやかで、派手ではない。強く、大きな存在感のある花ではない。号泣したい強い感情を一束の萩に閉じ込めて抱えてみたのであろうか。誰かに渡したのであろうか。それもひときわ清楚な白萩である。激しい恋の気分であろうか。


本日は夜まで

2019年09月26日 09時05分56秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 本日は朝から所用があって9時には家を出る。午後からは組合の会館に寄って若干の作業。そして夜は横浜駅の近くで、他の会員との懇親会。人数は30名くらいだろうか。いつものとおり、賑やかな交流会のはずである。役員として参加するのではないので、堅苦しくはないのがいい。あまり深酒はしないようにして、他の方の近況報告、問題意識、こだわり、そして退職者会への要望などを丁寧に聞きたいと思う。
 美味しい日本酒はそのための道具。お酒を飲むことが目的ではなく‥、と思いつつ最後はどうなることやら。帰宅時間もかなり遅くなりそう。ただし二次会はない。現役のときのように二次会などにはどの参加者も行かない。

 昔から組合の役員というのは、あまり人のいうことを聞かない。人のいうことを最後まで聞かずに自分の云いたいことを言って相手を説得した気分になる人が多い。悪い癖である。私は人の意見を聞くのが好きである。人の意見をさえぎることはしない。仕事と同じで、聞き上手になることが、人と仲良くなる一番の方法である、と思っている。

 午後の組合の会館での作業はごく短時間で終わるはず。懇親会までの時間は会館から横浜駅までのウォーキングと読書タイムに当てたい。

 最高気温は昨日の28℃と同じくらい。天気も同じようなものらしい。出来れば27℃以下で会って欲しいのだが‥。