Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

おさまらないハナミズとクシャミとセキ

2017年01月05日 22時35分23秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 なかなか鼻水が止まらない。量は多くは無いが、クシャミ・セキの発作と共に出始める。妻はかなりたくさんの鼻水がでるが、クシャミ・セキはあまりでない。
 本日はお酒は飲まず、休肝日とした。風邪にはアルコールは良くない。早めに布団に入り、睡眠を確保したい。
 明日も出かける予定は無いが、退職者会の私の属するブロックの会報(A4裏表)を作る必要があった。たぶん明日1日で印刷も含めて出来上がると思う。

 明後日が七草粥の日となっているが、出来れば明日にでも食べたいものである。

バッハ「八つの小さな前奏曲とフーガ」

2017年01月05日 18時04分38秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 バッハの「オルガン独奏作品全集」(全16枚組)を昔、ボーナスをはたいて購入した。16枚組で消費税5%の当時で税込み9975円。1枚当たりにすると611円だが、まとめての購入はかなり勇気を要した。
 多分2000年頃に購入したと思うが、購入した直後に1か月間入院、断続的に1年以上入退院を繰り返したので、じっくり聴いたのは10年くらい前だろうか。一カ月以上かけて全部を聴いたが、いわゆる大曲は大きなオルガンの音量に圧倒されてしまう。身構えて、心の準備が整わないとなかなか聴けない。大きなホールや教会などでは好ましいと思っても、個人の住宅の狭い部屋では、音量を絞って小曲に耳を傾けるのが相応しいと思った。

 本日聴いているのは、最後の16枚目のCDにおさめられている「八つの小さな前奏曲とフーガ」(BWV553~560)。私の狭い部屋で、音量を絞った夜でも聴くことができるので、気に入っている。1曲4分に満たない短い曲ばかりで、全曲をとおしても25分かからない。短いながらさまざまな表情を見せてくれて飽きることはない。


昨晩の地震

2017年01月05日 14時03分44秒 | 天気と自然災害
 昨晩は福島県沖の地震が0時44分(深さ60キロ、マグニチュード5.3)と2時53分(深さ30キロ、マグニチュード5.8)にあった。ともに私のすんでいるところは震度1。最初の地震は寝入りばなのためか、目が覚めた。2回目の地震の方がマグニチュードは大きかったがまったく気がつかず、朝になって横浜市からの地震情報メールで知った。後の地震では横浜でも震度2を記録した地点があった。



 二つの地震の位置も深さも微妙に違う。ツィッターでは上記の情報がある。まだ確定的な分析には接していない。
 しかし福島県沖、茨城県北部と2011年の地震の余震域での地震が頻発している。

老いの行方

2017年01月05日 12時09分37秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今朝の朝食からお節料理ではなくなり、いつものとおりパン食となった。私は朝は御飯と味噌汁、海苔+サラダがいいのだが、それは用意するのに手間が大変ということで却下されている。妻は自身もホテルなどでバイキングの場合、お粥や味噌汁・梅干しを好んでいる。

 最近妻は私が台所に入ることを嫌がるようになってきた。自分の片づけの仕方にとてもこだわる。私が台所を汚さないか、と心配のようである。
 私は大体が料理をしながら片付けていくので、料理が出来上がった時は、調理用具と生ごみは片付いているようにしている。結果として元に戻っているのだが、途中経過もまた気になるようだ。
 私は「人のする仕事を受け入れることも大切なことだ」と諭しているが、受け入れたくないよだ。人は歳を取ると、「人のしたことを受け入れる幅が狭くなるのだよ」と言っているが通じていない。家事から夫を排除しようとする意気込みは、自分なりの領域に対するこだわり、自信とプライドが強まっているのであろう。それ自体は悪いことではない。だが、客観的に見ると、高齢になると、ますます自分の領域にこだわるようになる傾向が強くなると思われる。それは他人を受け入れる幅が狭くなることに繋がるのではないか、とちょっと心配になる。
 もっとも私自身もだんだんその幅が狭く、人を受け入れがたくなってきている。人見知りがひどくなっている。それは逆に妻に指摘される。
 「老い」たら、現役時代よりも顔を合わせる時間が長くなり、病気でもすれば24時間顔を突き合わせることになる。老いれば老いるほどに、お互いに人生では一番濃密な時間をともにするようになる。その時間のすごし方というのもまた、なかなか大変なものがある。
 今はまだ私は昼間は出かけて夕方まで戻ってこない。講座や図書館や、本屋などを巡っている。またウォーキングをしている。これができなくなった時、そのたびに新しいすごし方を模索し続けることになる。それが刺激といえば刺激であるかもしれないが、いい刺激とできるか、大きな課題である。

 まだともに60代半ばだが、お互いに自覚的に客観的に「老い」を見つめなければならない年齢である。誰でもが通過しなくてはならないことであるが、誰もが正しい答えを得るとはならない課題である。