Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

本日の俳句(101231)

2010年12月31日 13時48分36秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★山茶花の花弁を散らし風抜ける
★東京に木枯らし抜けて星の座へ
★寒気来る歳星白く輝かせ
★大年の湯を輝かせ身をしずむ

 山茶花の‥の句は先月行われた同年代の友人の葬儀に手向けた句。
 二・三句目、丘の上から強い寒気団による北風が吹く街を見下ろしながら港を遠望した。街の灯が凍てるようにまばたく季節だ。木星が明るく光っているのも寒さに凍えたようすに見える。
 四句目久しぶりに近くの銭湯でゆったり時間を過ごした。


 本年もこのブログを訪問の上、目を通していただきありがとうございます。来年もまた気の向くままに綴って行く予定です。お付き合いいただければさいわいです。
 皆様のご多幸を祈念いたします。


眼鏡のレンズ交換

2010年12月30日 17時35分21秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は眼鏡のレンズの交換。作り変えてからだいぶ時間がたち、レンズの傷が多くなり見にくくなったためレンズを新調することにした。注文していたレンズが出来上がり、フレームにあわせて加工する間の約1時間程、近くの店舗を歩き回った。眼鏡がないといかに不便か、情けない自分を味わった。
 視力を測ると両目で一番上の字がやっと見える程の近眼かつ老眼の三焦点レンズ。ものがぼやけるだけでなく世界がゆがんで見える。階段が怖い。ショーウィンドーの値札どころか商品そのものが認識できない。
 喫茶店で本を読もうにも、喫茶店は遠いので歩くのに不安があった。1時間という時間が長く感じた。ようやく眼鏡が出来上がった時の安堵感が忘れられなかった。
 前回車の前照灯がまぶしいと記述したが、それもあって10%の色付とした。夕方の対向車に効果は多少はあるようだが、その他の時間帯にどのような影響があるか不安だ。以前近視だけの時は何度かこのようにしたが、多焦点レンズにしてからは初めてだ。

本日の読書(101229)

2010年12月29日 14時00分17秒 | 読書
「発心集」(第2、第3) (鴨長明、新潮日本古典集成)
 巻2は巻1につづいて「往生は、無智なるにもよらず。山林に跡をくらうするにもあらず。只、云ふかひなく功積めるもの、かくのごとし。」を例示していると思われる。
 そして巻3の8蓮花城、入水の事は多分この発心集の節目の一節と思われる。焼身・入水・渡海などの身を滅することでの輪廻からの離脱、浄土再生の行を列挙した上で、其のことの否定の論理構築を試みている。
 当時流行し、多くの見物者までいたと言われるこれらの行動が救いにはならないということを検証しようとしたのだろう。このことは
「身燈・入海するは浄土に生るるぞとばかり知りて、心のはやるままに、かやうの行を思ひ立つ事し侍りなん。即ち、外道の苦行に同じ。大きなる邪見と云ふべし。」
によく表れている。

閲覧に感謝

2010年12月27日 20時46分24秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 ふと気付くとトータル訪問者数が4万を大きく超えていた。またトータル閲覧数も9万を大きく超えていた。
 多くの方のご訪問に感謝いたします。
 先月から少し間が空き、今月はさらに間が空いてしまったためもあり、訪問者・閲覧数も減っていた。
 訪問者・閲覧数を大幅に上げるのが目的ではなく、私の頭の整理・備忘録が主たる目的なのだが、間が空くということは、思考力が少し低下しているか、パソコンに向かって何かを考えようとする意欲が低下したか、どちらかだと思うと少し淋しい。
 引き続き細く長く続けることを目標にしていきたいので、よろしく。

年賀状

2010年12月26日 12時44分09秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨夜遅く年賀状を投函。戦前は正月に賀状をごく近しい人に宛てて書いたとの文章を読んだことがある。年末までに賀状をそれも大量に投函するするというのはどうも戦後のことらしい。
 本当は私も正月になってから書いて投函するのが当然だと思うのだが、正月の3が日にあわただしく賀状をしたためるのもできれば避けたい。正月が一週間くらい休めるならばそうしたいのだが。
 プリンターの調子がよくなくて、印刷終了が夜遅くなったもののやはり手書きよりも大量に早くできる。宛名書きは専用ソフトを使い、絵と正月の挨拶は出来合いを利用し、共通の挨拶10行ほどの文章を貼り付けた上で、出来上がる。その上で賀状に1~2行は自筆で添え書きする。
 その添え書きの出来上がりを見て、毎年毎年明らかに字が下手になったと感じる。もともと字は下手であったが、最近は自分でも読みにくくなったと思う。明らかにパソコン依存の結果だ。
 日常生活でも、仕事でも、趣味でも、賀状以外の手紙もパソコンに頼っている。キーボードの方が手書きより早くなってしまったので、思考もキーボードを打つ速度に順応していると思う。手書きでは書きながら考えるということもなくなった。キーボードを打ちながら指を回路にして思考しているともいえる。
 漢字もおぼつかなくなった。俳句すらパソコンだよりである。パソコンがない場所で俳句の下書きをしているときも簡単な字が書けずにあわてることがしょっちゅうある。
 いまさら手書きだけの世界に戻るわけにも行かず、自分でうろたえている。

本日の読書(101225)

2010年12月25日 11時36分14秒 | 読書
「中世の光景」(朝日新聞学芸部、朝日選書)
 1994年秋の刊行の有名な本だったが、つい買いそびれているうちに現在に至ってしまった。網野善彦氏の著作や中世史の本などを読んでいる中で幾度か言及されていたり、参照文献に列挙されていた。書店で立ち読みは幾度かした記憶もあるが、夏に古書店で手に入れていたもの。
 20名の多様な問題提起も今ではすっかり中世史の前提となっているような感じがする。私自身は最近は中世史のほんからは少し遠ざかっており、何となく懐かしいような気がした。

「発心集」(巻1、鴨長明、新潮日本古典集成)
 鴨長明はこの発心集で見る限り、物への執着に対して強い拒否姿勢があったと思われる。そのような話が続く。
 さらにこの一文に基本的な考えが込められていると思う。あるいは自分ができていないことへのあこがれなのだろう。
 「此れらは、勝れたる後世者の一の有様なり。「大隠、朝市にあり」と云へる、則ちこれなり。かく云ふ心は、賢き人の世を背く習ひ、我が身は市の中にあれども、其の徳をよく隠して、人にもらせぬなり。山林に交はり、跡をくらうするは、人の中に有って徳をえ隠さぬ人のふるまひなるべし。」(十 天王寺聖、隠徳の事)

歳相応ということ

2010年12月23日 12時37分11秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 初期の緑内障でかかりつけの眼科で、「ごく初期の白内障もある」といわれた。「笑い皺のように歳相応に皺がよっていると思ってください。手当ての必要はないがまぶしいと思ったことはあるでしょう」ともいわれた。
 「歳相応」とはあらためて聞くとやむを得ないものの淋しいものがある。同じ歳位の友人で白内障の手術をした話を聞くこともある。

 そういわれてみれば最近自動車のヘッドライトがとてもまぶしいと感じる。この白内障の初期症状だったのかと思うとともに、一定の年齢以上の「歳相応」の症状を持つ人にはこれはつらいものだということがわかる。
 人が自動車と面と向かって歩いているにもかかわらず、ライトを下に下げない車がなんとおおいことか。自動車を運転すると性格が変わる人が多いというが、自分が歩行者の時を考えればよいだけのこと。 特に最近の車は前照灯が異様に明るい。前照灯は前方を照らすだけでなく、その車の存在を対向車や歩行者にに知らせる安全上の役目もあるはずだが、あまりにまぶしすぎる前照灯はこの役目を果たしていない。目がくらんで危ないことこの上ない。車同士ならばフロントガラスの性能によってこのまぶしさは防げるが人間にこのまぶしさを防ぐ手立てはない。
 車の仕様として認められたのであろうがこの認可については再検討の余地ありと感ずる。高齢社会と云われ、人への優しさがうたい文句のこの時点で、この車の仕様はそぐわないものである。

 50歳で入退院を繰り返して以降、肉体的な歳を感ずる機会が多くなった。60歳というのは総合的に見て肉体でも精神面でも大きな変わり目なのかもしれない。

本日の俳句(101220)

2010年12月20日 18時16分48秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★坂道の乾いて白し冬満月
★天空の冬満月に老いの影

 冬の満月は襟を立てて見る。街灯の切れたあたりで斜め後ろから射す満月の光により自分の影がうつった。寒さのためばかりではなく前かがみのような姿に見え、あわてて背筋を伸ばした。

定年ということ

2010年12月18日 16時42分52秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は朝から何もする気がおきず、だらだらと布団で惰眠をむさぼった。最近はこのようなことを時々する。こうしないと一週間の疲れがとれないような気がする。土・日いづれかにこうしないと月曜が極めてしんどい。体力の衰えか、気力の萎えかはわからないが、いづれにしろ歳を意識する。
 歳といえば、先月末に来年がうさぎ年と宣伝されて、自分が来年60歳であることをあらためて認識した。知ってはいても実感としてわかないのが「還暦」であること、定年の年度であること‥ではなかろうか。
 学校を出て就職した頃、50代半ば過ぎの人には物理的な年齢以上の差を感じたものだ。好悪両方含めて。そんな感覚は今でも職場などでの振る舞いのたびに自戒として思い出す。若者に迎合する気はなくとも、つまらない意地を張ったことにならないか、応用力のきく対応を忘れていないか、そしてこのことが自分の自然な振る舞いになっているか‥。
 自分が職場で必要とされているかどうかは、過去の実績や自慢ではない。現在の振る舞いそのもののはずだ。レールは過去から定年までそのまま続き、そして定年で突然レールがなくなる。職場で「規範」として若い世代を律することをひたすら続けていれば、レールがなくなっても惰性でそのまま脱線して倒れてしまう。
 だからといって、徐々にノウハウも含めて若い人にバトンタッチをしていてもレールがなくなったときは多少の惰性がある。小さな躓きでも倒れる可能性がある。
 どの道、定年という停止線・車止めにストレスなく止まることは出来ないのではないだろうか。
 一週間という時間サイクルが体力・気力的にしんどくなっていると思う状態では、そのストレスに対応する体力・気力に自信はあまりない。私の勤め先でも定年後の年金敢然支給までの間の仕事の継続を認めているが、さまざまな理由で私はその選択をしたくないほうに気持ちが傾いている。
 かといって定年後に打ち込める何か、については不明だ。この「何か」を探しているうちに、人生の終末を迎えるのが人生なのかもしれない。


本日の俳句(101216)

2010年12月16日 21時25分58秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★しどけなく山茶花散りぬ月明り
★山茶花の赤は夕白は夜に映え

 本日はこの冬一番の寒さとのこと。曇り空で冷たい風とどんよりした雲が心を重くした一日であった。山茶花ももうとっくに盛りを過ぎ、先日は月明りに白の山茶花の散り敷く様子が美しかった。白の山茶花は夜に映える白さを持つ。夜になると白が浮かび上がってくるようだ。

本日の読書(101212)

2010年12月12日 20時58分27秒 | 読書
・「古語の謎 書き換えられる読みと意味」(白石良夫、中公新書)
 書店で立ち読みしたときとはちょっとイメージの違う感じがしたが、それは私の選択眼の無さ。しかし一見私には遠い存在の文献学なるものの面白みは伝わったような気がする。
 江戸時代の契沖・賀茂真淵・本居宣長などの業績は教科書で知るだけだったが、具体的な歌の解釈を通した解説は新鮮だった。

本日の俳句(101209)

2010年12月09日 16時34分48秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★裸木にオリオンの帯引き締まる
★裸木のしがらみ捨ててそのままに

 先週、帰宅途中に久しぶりに冬の星座を見た。枯れ木の向こうにやはり冬の星座の雄、オリオン座が目に付いた。勇者の腰の帯にあたる三ツ星も鮮やか、冬の大気に引き締まった体躯に見えた。
 そういえば、小学生になる前から図鑑によってすっかり天文少年になった私が、6年生になって買ってもらった望遠鏡を始めて向けたのもこの三ツ星近辺であった。点の連なりにしか見えなかったが、それでも飽きずにこの近辺を長時間丹念に見回したことは覚えている。しかし50年近くたって、望遠鏡を向けた星座の名も形も、星の名も、数ある連星の特徴も、星雲の番号もすっかり忘れてしまった。
 来年60歳になる私はすっかり世の中のしがらみにとらわれ、いつの間にか好きなことも忘れ果ててしまった。しがらみを覗いたら、残念ながら何もない空洞が残るだけになってしまったかもしれない。悲しいことだ。葉を落としても屹立する木々がうらやましい。

本日の俳句(101208)

2010年12月08日 18時26分00秒 | 俳句・短歌・詩等関連
本日の俳句
★欅枯れ日毎に迫る山の峰
★裸木の影黒々と大地這う

 ようやく葉を落としつくした木々も目に付くようになってきた。枯れ葉の舞い散る時節も終わりになったようだ。今年私の目に付いたのは松の落ち葉。他の枯れ枝にたくさん尖って黄色に変色した葉が絡みついたり、地面に落ちていてその多さに目を奪われた。
 木々の葉が落ちると遠くの物があらためて目に付くようになるし、また大気が乾いて寒気を帯び、遠い山並みが近くに迫ってくるように、鮮明に見えるようになる。
 毎朝、寒気を全身に受けながら枯れ木越しに富士や丹沢の山並みを見ながら通勤する。短時間だがうれしい時間だ。
 また、葉を落とした木々の姿やその影も新鮮に目に映る。朝日を受け地面にできる枯れ木の陰は色が濃く、くっきりしている。

愚感偶感(101205)

2010年12月05日 18時43分26秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 不眠気味だったが、ここ数ヶ月は過剰なほどよく眠るようになった。というか土・日・休日はかなり寝ないと平日の出勤がきつい。忙しいというわけではないが‥。

 私の住む団地にイタヤカエデがたくさん植わっている。今は黄葉の季節、この種は枝の先から徐々に黄葉するようで、緑の葉と黄の葉がグラデーションをなしておもしろい。また枝先の数対の葉だけは落葉せずに残るので、枝の中途に葉がない細い枝がたくさん出ている。これもおもしろい。
 年があらたまる頃、すべての葉が落ちて剪定をすると、集合住宅の壁に黒々とした墨痕のような影をつくる。これもまたおもしろい。春先の芽吹きの葉の色もまたみずみずしく、いっせいに葉が出るようすは心はずむ。
 四季を通して楽しめる風情の木だ。