Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

土門拳のエッセイ

2010年04月30日 23時13分18秒 | 読書
 4月24日のブログに記載したが、土門拳の文章はなかなか名文との評価である。ウィキペディアでは「土門の文章は、平易な表現を用いた人間的な温かさが伝わる、ケレン味のない引き締まった文体で、名文の誉れが高い」と記されている。
 これに刺激を受けて
「風貌/私の美学」(講談社文芸文庫)
を購入。居酒屋で読み始めたら、確かにいい文章だ。風貌の被写体とかかわって様々な有名人について寸評を書いているが、写真がなくても十分その場の雰囲気が伝わる文章だ。
 また写真論・芸術論もなかなかいい。
 連休中の楽しみを確保できたような気がする。



横浜美術館ポンペイ展

2010年04月29日 18時21分25秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨日は予報より長く、強い雨が続いた。夜中から明け方にかけて大雨洪水警報となり、一部小規模のがけ崩れや道路冠水などの影響も出た。天候不順で土中の水分も多く、雨の影響が出やすかったようだ。
 夜になりようやく晴間が出て、きれいな満月が快晴の空に浮かんだ。しかし10時頃から通り雨が少々。ようやくすっきりとした晴天となったのは午後から。
 ゴールデンウィークの初日、連合のメーデー会場傍の横浜美術館のポンペイ展はかなりの混雑であった。
 ポンペイの展覧会は過去もいくつかあった。残念ながら私自身の興味も知識もない中で、素通りに近い鑑賞となってしまった。
 大理石の人物像や神々の像は、いかにもギリシャ・ローマらしいものであると感じた。絵などは実際の彩色はかなり派手なものであったと思うが、退色を頭の中で補いながら鑑賞する力量は私にはなかった。
 私の興味を引いたものは「ピサネッラ荘の高温浴室」という大理石の浴室と当時のボイラー風の風呂焚き装置。お湯を沸かす装置と送水管・給湯管の展示。残念ながら解説を幾度か読み返したが、具体的な加熱・給水・送水の仕組みまでは飲み込めなかった。ガラス張りの模型でもあればよかったが、そこまでは過剰なおねだり‥。
 特にグッズも求めず、強い風の中を横浜まで妻と歩き帰宅した。1日(土)の予定が空いたので、5日までと8・9日の予定を急いで具体化したい。遠出はできないので、都内の美術館・博物館めぐりを妻とすることになりそう。よい企画を探さなくては‥。
 どなたか、是非ご教示を‥とは虫が良すぎるか。

大雨注意報

2010年04月27日 23時59分21秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 予報どおりの雨だが、大雨注意報が出て、現在のかなり強い雨が続いている。
 明日以降天候は回復し連休中は安定するらしい。しかしこの天候不順、野菜に限らすさまざまな影響が出ているようだ。茶葉の新芽も途中で枯れるものが出ていると報道されたらしい。
 穀物の育成にも影響が出ているのではないか。田植えの時期が遅れているようにも感じるがどうだろうか。



本日の購入
「芭蕉(「かるみ」の境地へ)」(田中善信 中公新書2048)

土門拳の写真②

2010年04月26日 08時01分26秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 いただいた土門拳の絵葉書となっている写真作品から2点を追加してみた。

  葦と船の写真は「舟・島根宍道湖」と題されている。モノクロームの写真では、良く写される題材の写真だ。私もモノクロームの写真を市民講座で習い、しばらくその先生の主宰するグループで勉強したとき横浜の三渓園で係留されている舟と葦を題材に撮影してみた。ただし小さな池のためこのような大きな景色ではなかったが‥。水墨画のような情景を求めて幾度かトライしたがうまくはいかなかった。
 このような大きな景色で、しかもカラーで、水平線と空がかすかな色の変化でわかれ、空と水に溶け込みそうな遠景の舟の写真はどのように撮るのだろう。焦点のあってといる葦は水面に克明に写っているが、舟と釣り人の影は微かに写っているのみ。焦点は葦にあっているのだが、この舟と釣り人が主題となるというのは写真ならではの効果・構図のような気がする。
 私が感心するのは一番手前の黒い杭の存在だ。普通ならこれを写しこまないようにカメラの位置を変えるなどの工夫をするのだろうが、私にはこの黒い杭がポイントのように思える。これが無いと通俗的な水墨画をまねた写真になるだけではないだろうか。
 一番手前の杭と、頭だけ出している杭を通って緩やかな曲線を描きながら無理なく舟にいたる視線ができる。これがなくて葦と舟だけだとこの二つを結びつける視線の誘導がなくなり、別のものが画面に並べられるだけになってしまう。この二つの黒い杭によって波紋が生きてくる。そして葦と舟を無理なく関連付ける波が際立ってくるように感じる。

  二点目は「椿寺の五色八重椿根元・京都地蔵院」と題されている。椿の古木と散った椿、落ちた椿のならびに、はじめは作為を感じた。しかし見続けていると、落ちた椿が無いと老人の皺のような椿の古木の襞が緑のグラデーションの中にかすんでしまう。苔の質感と古木の質感の差を際立たせているのがこの明るい色の落ち椿だと得心する。右に伸びるねじれた枝の流れと落ち椿の右への並び方はこの椿の枝の大きさを十分に暗示してくれる。
 さらによく目を凝らすと苔の絨毯は根にそって波打っている。幹の皺と呼応するように。これも落ち椿によって際立つような仕掛けに見える。
 いづれにしろずいぶんと凝った視点と意図を感ずる。

 友人にもらった絵葉書をながめながら、いろいろと空想ができる写真作家であることをあらためて感じた。

 なお、酒田市の土門拳記念館に行っていない、と記載した。しかし妻の記憶では6年前の夏に鳥海山に登る前日に訪れている、とのこと。日記帳を見せられた。浅い池に囲まれた四角い建物が印象的だったとのこと。私はまったく記憶に無いし、展示内容も記憶に無いという情けない話だが、この場で訂正することにした。確かに訪れていたことは間違いがない。

ウォーキング

2010年04月25日 11時31分37秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 久しぶりの晴間を利用し24キロほどのウォーキング。快晴では無かったが、晴れ間が多い天気であった。夕方には雲が全天を覆ったものの、気持ちの良い一日を過ごすことができた。
 八重桜の季節となり、早いものは散り始めている。3時間半近いウォーキングの途中、八重桜でない桜の樹から不意に幾枚かの桜の花びらが軽い風に乗って眼前に現れることが幾度かあった。天候不順で桜もゆっくりと時間をかけて散っているのであろうか。ひとひらの桜の花弁を空に追っていると雲間から日差しがあたり輝いて見える。
★ひとひらの花が空より日を連れて

 横浜の環状二号線は新横浜より南側は歩道がきわめて広く、植栽が多い上に、沿道も緑が多く、景色も展望も変化に富んでいる。ウォーキングをしていても車の騒音や排気ガスを直に受けて不快な思いをすることは少ない。街路樹の新緑も、沿道の民家の庭の新緑も、ようやく春の気配が濃厚となっていた。天候が不順だが、植物は例年のとおりの季節に花をつける。八重の山吹や藤もすでに咲き始めていた。
 ★新緑の揺れ交うひかり土は黒

 仕事は一段落するはずだっだ、明日月曜はあわただしい一日となることが確実となった。結局連休中も心休まる暇は無いのだろうか。

土門拳の写真

2010年04月24日 08時14分36秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨日は、友人より高崎市タワー美術館で開催されている生誕100年を記念の『土門拳の昭和』展の絵葉書と水彩画のしおり3枚、室生寺弥勒堂の釈迦如来坐像左半面相のA4ファイルをいただいた。
 土門拳の写真は東京都写真美術館に行ったり、大きな書店に行ったりした時には、その写真集をめくることが多い。いつ見てもどれを見ても、心惹かれる。
 筑豊、こども、肖像、風景、古寺、仏像、報道写真どれも好きだが、特に好きなのは古寺巡礼のシリーズ、寺や仏像、そして風景を題材とした写真だ。
 以前酒田市を訪れたとき、土門拳記念館に寄らなかったのが悔やまれている。是非訪れたい場所のひとつだ。
 送ってもらった絵葉書の中で、西芳寺の孟宗竹の写真がすばらしい思った。一見誰でも撮れそうでいて、決して真似など出来ない作品ばかりで、この1枚などもごくありふれた構図であり、視点である。
 1本の若竹の鮮やかな色が他の2年目以上の竹の見せる緑のグラデーションの中で不思議に光っているさまは、これを真似しようとして真似のできるものではない。そしてこの写真では落ち葉が敷き詰められた地面全体が背景としても美しいだけでなく、葉ひとつひとつに焦点が合いそれぞれが美しいフォルムを見せている。構図では左右を古い竹できっちりと区切り隙がない。それに反して上下は区切りが無く上下に開放されている。竹の高さや竹林の広がりを明確に暗示している。日が差し込んでいないにもかかわらず、左右を区切ることで逆に開放感が生じている。
 石地蔵の写真は初めて目にするが、私の好みだ。松の枝から滴が落ちる早春の雪原に顔を出した石地蔵。松の樹と滑らかな雪の表面、石地蔵の三つの質感の違いと肌合いの違い、そして松と雪原と地蔵のそれぞれの曲線、そして同じ三つの素材が作る影。これがこの写真のいのちだ。
 樹と雪と地蔵の三つの素材がつくる肌合い・曲線・影の三つの要素の響き合いが美しい。単純だが見ていて飽きることがない。誰でもがそこに居合わせたらものにできると思ってしまう写真だ。だが発見する力ばかりではなく、松の樹を大胆にカットする構図、一方地蔵のある右手は雪の空間を残し、左右共に広がりを確保している。これも真似はできないと感心する。手前の大きな滴跡もカットしてないところがいい。
 インターネットでいくつかの解説を読んだら、土門拳の水彩画も文章も、また書も見るべきものがあるとのこと。送ってもらった栞3枚には、それぞれ花瓶にさした一輪の花、ひとつの筍、1本の向日葵が描かれている。脳出血後のリハビリで左手で描いた物。どれも派手な色合いだが落ち着いた感じのいい絵だと思う。
 文章も是非今度は読んでみたいものだ。
 久しぶりに土門拳の写真を見、初めて絵を見る機会を得て、送ってくれた友人に心より感謝したい。

今朝のニュースの憂鬱

2010年04月23日 20時23分25秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 さまざまなニュースが飛び交い、政治も社会も経済も混沌の進行が急加速だ。その中で今朝、NHKはニューヨークの紹介特集で「スペースシャトルをニューヨークへ」というような話題を提供していた。
 要は引退するスペースシャトルをニューヨークに展示して9.11以降減少する観光客数に歯止めをかけようという運動が、州知事を巻き込んで行われているとの報道だ。だが、私が唖然としたのは、その展示スペースが退役空母上であり、アメリカ軍の歴代の退役戦闘機の展示スペースであるということである。
 子供を含めたキャンペーンに州知事が出ているのは愛嬌としても、アメリカ人の持つ、無神経さ、図々しさ、押し付けがましさ、鼻持ちならないあつかましさ、他の国に対する配慮の無さ、がそのまま反映したものに思えた。展示している艦載機は、獰猛な動物の模様を施され、それらの武器が威嚇し、殺し、抑圧した人々があり、このことへのこれっぽっちの痛みも匂わせていない。
 さらにその空母上でアナウンサーに取材をさせるNHKの撮影姿勢にもまた私には慄然とした。
 9.11が何ゆえ行われたのか、何ゆえベトナム戦争で敗北したのか、イラクは何だったのか、アメリカという国のどうしようもない思いあがりと根深い病、どの国よりも遅れた偏狭な底辺からのナショナリズムを見せ付けられた。同時にアメリカ社会の二重性、後進性もまた再び垣間見た。何年か前の巨大台風被害の報道で、南部の小学校の教師が「他の国とは違いアメリカは救援がすぐ行われる」と児童に「説教」をたれていたが、日本よりは余程遅れた災害対応に私には見えた。別に日本の災害対策を称揚するつもりはないが、アメリカが災害対策で他国より優れているとは思えない。このような思いあがりを喧伝する国は、みずからが「救援依頼」をする立場に立つこともありうることを素直に認めなければならない。他の場面では、だれからもそっぽを向かれる種を蒔いているだけである。
 あえて言わせてもらおう、心の中も含めて9.11の事態に「快哉」を叫び、溜飲を下げた人々が多数おり、「ざまみろ」と思った人間が世界中いたるところにいたことは事実である。あの犠牲者はテロの犠牲者であると共に、アメリカという国の今の立場、世界の立場からのしっぺ返しであることも事実である。犠牲者は二重に犠牲者である。
 テロを擁護する気はさらさらないが、アメリカという社会は、戦後のさまざまな事件からは何事も学んでこなかった。おそらくこれからも何事も学ばず進むだろう。日本もアメリカのまねをしつつ、謙虚に学ばない国になってしまっているとつくづく思う。
 私は宇宙開発が奇麗事ではなく、軍事開発や国威発揚、そしてアメリカという国の戦略的な経済戦略、ということなどと決して切り離されていないことは承知をしたうえで書いているつもりだ。しかし科学技術の先端としての位置づけの中で、国際社会の中での一定の位置づけを考えるならば、退役空母上や、退役戦闘機に混じった陳列など避けることが必要であろう。そんな配慮もできない「キャンペーン」など、取材するものではない。否定的な部分も含めえぐるのが報道機関の役割であるとしたら、何とも情けない取材姿勢である。

休息がほしい

2010年04月21日 08時10分38秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
この間の疲れが出てきたからだろうか。
夕方の仕事の約束を失念して慌てた。22時過ぎにはビール1本で寝てしまう毎日が続いている。
2時過ぎに起き出してCDを1時間位聞いて、布団の中でなかなか寝付かれず、5時にやっと寝付くようだ。
運動不足と細切れの睡眠のためか、すっきりとした朝ではない。昼間も体がだるい。
土曜までは何とか仕事をこなして、規則的な生活に戻し、来週は少し休養したいものだ。

久しぶりにCDを幾枚か‥②

2010年04月20日 07時04分11秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 一昨日購入した3枚のCDのうち、3枚目を昨夜視聴。
 ①のヤナーチェクのヴァイオリン協奏曲「魂のさすらい」は初めて聴いた(と思う)。1989年の録音というからヴァイオリンのヨゼフ・スークは60歳。ヴァーツラフ・ノイマン指揮、チェコフィルの組合せだからそれぞれに思いいれの強い演奏者であるらしい。ヤナーチェクの生前その作品を紹介し続けたのがノイマンであり、スークの祖父の作曲家と同世代。民族主義的色彩の強い作曲家群の一人だが、独特の旋律は現代音楽にとても近く聞こえる。というよりも地域的な音楽を世界水準に普遍化し得た作曲家ということか。
 独特の美しい旋律は、いわゆる西洋音楽の本流の和声という海から抜け出て、なお人の心に染み渡ってくる旋律のような気がする。これ以上海原から切り離されるともう、私が感受できる音楽ではなくなるぎりぎりのところのような気もする。
 なかなか魅力的な作曲家だ。同時にスークの艶やかなヴァイオリンの音色に支えられて輝いているようにも思えた。
 ②のドヴォルザークのピアノ協奏曲は以前聞いたような気もするが、特に印象にはなかった。今回はひたすら技巧的なピアノに感心する一方第1と第2楽章、ファゴットの旋律が心に残った。

久しぶりにCDを幾枚か

2010年04月19日 07時14分51秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
1.①バルトーク:ヴィオラ協奏曲
②シェーンベルク:浄夜
③ヒンデミット:ヴィオラ協奏曲「白鳥を焼く男」
ヴィオラ:今井信子、指揮:ガーボル・タカーチ=ナジ
ジュネーブ音楽院管弦楽団
2.①ヤナーチェック:ヴァイオリン協奏曲「魂のさすらい」
ヴァイオリン:ヨゼフ・スーク、指揮:ヴァーツラフ・ノイマン
チェコフィルハーモニー管弦楽団
②ドヴォルザーク:ピアノ協奏曲
ピアノ:イヴァン・モラヴェツ、
指揮:イジー・ビエロフラーヴェク
チェコフィルハーモニー管弦楽団
3.①ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲
ヴァイオリン:ギドン・クレメル、指揮:ネヴィル・マリナー
アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ
②アルバン・ベルク:ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」
ヴァイオリン:ギドン・クレメル、指揮:コリン・デーヴィス
バイエルン放送交響楽団

 これまでに聞いたことのあるのは、2-②、3-①②.他は初めて。

 1を購入した基準は、表紙に私の好きなパウル・クレーの「昇りゆく星」(1931年)の絵に惹き付けられたから。しかしこれは私には収穫だった。特に②シェーンベルクの「浄夜」は気にいった。透明感のある曲想は、気持ちを浄化してくれる。①は私のもともと貧困なバルトークのイメージをがらりと変えてくれた。

 3のベートーベンのヴァイオリン協奏曲はいろいろな演奏を少しずつ集めている。今のところ、スーク、フランツ・コンヴィチユにー、チェコフィルのゆったりした演奏が他の何物にも代えがたい気持ちをもたらしてくれる40年来の付き合いだ。
 ベルクのヴァイオリン協奏曲も約40年の付き合いだ。ブァィオリンの奏でる最初の4つの音の出だしが時々頭をかすめる。以前のレコードはハイフェッツの独奏で指揮・楽団は覚えていないが、とても静かな透明感のある演奏だった。そのレコードが壊れCDを渡辺玲子、ドレスデン・シュターツカプレ、ドレスデン州立歌劇場管弦楽団版で聞いてきた。
 まずベートーベン、第一楽章は残念ながら行進曲にも聞こえる。ベートーベンだからそれが正当な演奏なのかもしれない。しかしカデンツァにビックリした。解説にも書いてあったがクレメルはシュニトケのカデンツァを一部変形というものらしい。
 第一楽章のティムパニーの4連打を強く鋭く音にして背景としている。私にはこの4つの強く鋭い響きはちょっと異様だ。冒頭でもこの4つの音はこんなに強く鋭く鳴らしてはいけないと思う。やわらかめに、そして時計のような正確なたたき方ではなく、少しずつニュアンスを変えた4つの音にしてほしい。特に後の2つの音はヴァイオリンの独奏の2部音符の上昇に繋がるためには少しテンポを落とさなくてはいけないと思っている。そんな微妙な4連打をカデンツァであんなに鋭くたたいてしまっては本当に行進曲になってしまう。「運命」のモチーフも機械的な3連音符と4分音符にしてしまっては運命の幕開けとはならない。さまざまな逡巡とためらいをこめなくては‥。
 2楽章はもっと歌ってほしかった。しかし3楽章はカデンツァを除いて気に入った。特に最後の部分は気持ちよかった。カデンツァのティンパニーは1楽章と同じく私の好みではなかった。
 全体を通して、特に1、2楽章は私には、クレメルの音は全体的に鋭いが厚みがない音に聞こえる。もっとたっぷりと響かせてほしかった。
 あくまで私の受け取りであるし、再生装置の特性もあるだろうし、素人あるからえらそうなことはいえないのは重々承知で、勝手な言い草であることはご容赦願うが‥。
 ベルクのブァィオリン協奏曲もやはり、ハイフェッツや渡辺玲子よりヴァイオリンが背景に後退したような演奏。ハイフェッツが前に出すぎて目立ちすぎていたのかもしれない、あるいはシノーポリが独奏者を前面に押し出したのかと思ったが、オーケストラとのバランスの点からも、レクイエム的な曲という点からも、クレメルの演奏よりも私には落ち着いて聞くことができる。残念ながらこのCDは期待に反していた。クレメルは私の好みではないことがわかった。 

 2は楽しみだ。これは後日聞くことにした。

 2、3は廉価版。しかしインパル指揮のマーラーの交響曲全集も廉価版が出ていて、廉価版に目を通すのは、発売当時に買い集めた物として少々複雑な気分である。
 
 前回バッハのオルガン全集を買ったが、16枚のうち5枚を聞いたが、さすがに食傷気味、忙しさを理由にお休み中。しかしこれだけ揃って続けて聞くのはつらいものがある。感想もまだ書く段階ではない。

ブログランキング

2010年04月18日 22時08分24秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 4月17日のアクセスランキングを見たら、閲覧数341、訪問数167ということで、9333位/1396955ブログということになっていた。実は2月下旬から3月初旬にかけて閲覧数が350~500を超え訪問数も170~240を超えたことがあわせて5回ほどあったので、そのときもランキング入りしていたのかもしれない。
 いづれも9000位台ということではあろうが、多くの方の閲覧・訪問には感謝。
 特にこの二週間忙しさに負けて更新が少し滞り、訪問者が50という日もあったものの、更新を2回続けたらとたんに跳ね上がってビックリしている。
不思議なもので、文章を書き続けると、しゃべるのは半ば仕事とはいえ相変わらず気が進まないが、文章上はどんどん饒舌になっていく。少しブレーキをかけないと文章が荒れてくるのかな、と心配している。がさつなブログにだけはならないよう気をつけたい。

桜の句

2010年04月18日 10時35分55秒 | 俳句・短歌・詩等関連
桜咲く朝日がはじめにあたる木に

桜咲く森に朝日がさすあたり

さくら花森と空よりあふれ出づ

花朧画布に奥行き添える筆

桜咲く一輪ごとに枝広げ

初花の風には散らぬ力秘め

ひとひらも落とさぬ花に有る力

桜咲く上野の道を富嶽まで



春の雨を聞きながら‥

2010年04月17日 12時01分36秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 久しぶりにゆったりとした気分で朝を迎えた。朝6時、雨の音で目が覚めた。夕べ22時頃からの強くなった雨が降り続けていたらしいとわかった。昨晩は寒かったのが体でも、頭の中でも、記憶していたためか立春後の春の雨の趣と捉えていた。枕もとの携帯でニュースをのぞいたら相模原で積雪との情報に、あわてて窓の外を見たが横浜では雪とはなっていなかった。数年前ならば、油断して職場に駆けつける時間を逸したことになるが‥。
 しかし、寝室の窓の庇から落ちる雨の様子は、立春後の春を告げる雨にしては少し強すぎる感があった。それでも仕事の山をとりあえず越え、先が見えてきたためか、気持ちに一応ゆとりが出ているのだろう、雨の音が心地よく響き、二度目の眠りに誘ってくれた。
 夕べ、21時ごろから1時間半ほど居酒屋で「隣のやまい」(中井久夫)を読んでいた。呑むピッチが速すぎて、実質読んでいた時間は20分くらいだったろうか、後はいつものように酔いに身を任せて、店の喧騒に耳を傾けながら、ボーっとしていた。豆腐にかかっていた葱のキザミの残りと乙類の焼酎を舌に転がしながら。
 ふとカウンター席の隣の三人グループの50代半ば前のサラリーマンが、一緒に来ていた二人の30代の若手に「お前たちのしあわせせって何だ?」と聞いた。この時までこの人の話は耳に入ってこなかったから、3人の会話の内容は覚えていないが、突如耳に入ったから語調が少し変わったのだろう。ゆったりとした語り口だった。思わず私はびっくりしてそちらに神経を集中した。
 最近のサラリーマンのグループの居酒屋での会話は、耳にするのも嫌なものばかりだ。そこにいない同僚の悪口ばかり、それも徹底的に攻撃する。はっきりいってこれでよく「仲間」として付き合っているな、と思う。戦争で相手をののしるような水準である。特に営業関係がひどい。これでは職場の円満な運営などありえないだろうと思うが、競争心をとことん突き詰め、コスト至上主義が蔓延する中、サラリーマンが自分で自分たちの首を絞め合っていることがよくわかる。
 そんな風な会話とは明らかに違った語調の問いかけだった。「お前たちのしあわせせって何だ?」。私の隣の方の言葉だったのでそれを発した時の顔の表情は見逃した。
 問いかけをされた連れの30代二人の答えは早かったが、私には実につまらない回答だった。「仕事が片付いて○○さんとこうして飲みに来ること」「あんな部長をはやくおいだすこと」。私がちらっと50代の男性の横顔を見たが、「口を少し尖らせた」顔をした。そしてちょっとの間をおいて、「じゃ3時間もたったからもうお開きにして、来週楽しく飲もう」といって勘定を払い始めた。30代二人はだいぶ出来上がっていたようで素直にこのことばにしたがって連れ立って、急な階段を降りて帰っていった。
 私にはあの時の、「口を少し尖らせた」表情・顔からは「つまらない答えを聞いた」という落胆と、「お前らもう少しまともな人生を考えろ」という叱咤を感じた。私にはこの50代の男が仕事でも組織運営でもそれなりの誇りと自信、そして周りをまとめる力量を感じた。同時におそらく仕事以外の自分の城・領域を持っている人に感じた。
 私も勘定を済ませて、この方の後をつけてどんな暮らしぶりなのか見てみたい衝動に駆られた。今時の居酒屋でのサラリーマンの会話とは明らかに異質で、私には好ましい人柄に見えたからだ。その衝動をこらえて、しばらくさらにボーっとしていた。窓から強くなった雨音が聞こえてくるのに気付いた。客も満席からいつの間に半分くらいに減っていた。
 一人で居酒屋にいると些細なことで感傷的になってしまうこともある。今回もそんなことのひとつのエピソードでしかないだろうが、傘を差しながらの帰途も妙に心に残った。「口を少し尖らせた」表情がとてもさびしげに脳裏に焼きついた。その会社が自分の居場所とは違うと感じている表情だったのかもしれない。あるいはサラリーマンということにそもそも違和を感じている人なのかもしれない。
 しかし同時になかなかに懐の深そうな立ち居振る舞いに見えた。私もそのような振る舞いが出来ているであろうか。しかもそのような問いかけをして、会話が成立する職場にしてきただろうか。
 相手が人間だから自分の思うようには組織も人も動かないのが前提だが、その組織に貢献が大きいという思い込みが大きかったり、長年その組織にいたり、その組織の責任者になると、自分の思い通りになるという錯覚に陥る。先の「幸せってなんだ」という問いかけは、若手の30代の職員にそのことを理解させようとした問いかけだったのかもしれない。
 組織は思い通りには動くものでもなく、そうしてはいけないものであり、組織の運営上広い選択枝を用意する懐の深さがあるということの必要性、自分とは異質の人間の必要性を、組織の前提として教えたかったのかもしれない。自分の組織がそのように選択肢が広くあり、いろいろな人材がいることがその組織のサラリーマンにとっては「幸せ」であるはずなのだ。

 さて「私にとって幸せ」と何かについては、答えが無いのが実にさびしい。夕べ帰宅後風呂の中で「俺にとって幸せ」をあらためて聞かれたら何と応えよう、と考えた。
 平日は、職場の中での軋轢がなく過ごせ、土日祝日に晴れて、午前に2時間10キロのウォーキングをして、昼においしい焼酎のお湯割り一杯かお酒を1合と盛り蕎麦一枚を食し、午後も3時間15キロのウォーキングとサウナつきの広いお風呂にゆったりと2時間かけて入り、夕食にやはりおいしい焼酎のお湯割り二杯か、生ビール一杯とおいしいお酒を1合に少しずつ肉と魚と豆腐のつまみをいただき、早めに寝ること。後は、自分なりに満足できること俳句が出来たとき。
 こんな程度のものかもしれない。

 そんなことを考えながら帰宅したこと、帰宅後風呂で雨音を聞きながら考えたことを、雨の音で思い出した。
 雨を春を告げるものとして聞き、居酒屋の会話が否定的でないものとして心に残り‥ということは、私の方の仕事の区切りも見えて心にゆとりが出来た証ということだろう。


白濱一羊句集「喝采」を読む

2010年04月16日 03時59分17秒 | 俳句・短歌・詩等関連
先月の文章、アップするのが遅れてしまった。
非力を省みず、感想を書かせてもらった。

好きな句
・細波の影亀甲をなすプール
・青空に喝采のごと辛夷咲く
・舞ひあがるもの何もなき枯野かな
・瀑布へと加速つきたる水の列
 「加速つきたる」という語が水の速さだけでなく豊富な水嵩、そして滝の大きさ、水の力を存分に表現している思う。後に続く「水の列」という語もぴったりだ。
・水の上に水乗りかかる秋出水
・岩あれば岩を乗り越え雪解水
・親も子も溶けてひとつに雪兎
・ビル街を貫き鮭ののぼる川
・凍滝の芯を滴る水の音
 行き届いた観察の確かさ、理知的な観察力を感じる。光に反射する氷のなかに流れる水の発見だけでなく、「音」も確かに聞き分けている。視覚と聴覚が同時に飛び込んできて新鮮に感じた。
・手枕に春眠といふ重さかな
・パン屑を奪ひ合ふ鳩原爆忌
・屈葬の形で眠る雪の夜
 私は深夜まで仕事に疲れた時など体が冷え切って眠れないことが間々あるが、このようにして布団の中で自分自身の冷えに耐えている。羊水の中に回帰するような感覚かもしれない。
・かたくりのひとかたまりにしてまばら
・どこまでが道どこからが雪の原
・ひもすがら降りて嵩なき春の雪
・一本の杭と戯れ春の水
 春の水のゆったりとしたさま、雪解け水で嵩がました川の情景と感じた。ゆったりとしたリズムで杭や障害物にあたって水の紋が広がる情景が伝わる。ひょっとしたら何かの花弁が杭に絡んでいるのかもしれない。いろいろな情景を連想させてくれる。
・萩刈りて風の姿を見失ふ
 萩の動きで風を詠むことを考えますが、「刈」った後に風の姿を発見した。秋の風のさわやかさが伝わる。
・露のせてゐて芋の葉の濡れてゐず
・打ち寄せしものをまた引き盆の波
・天までは昇れぬ重さ花吹雪
 花吹雪などは天上の世界を彩るものにたとえられるが、これを「昇れぬ重さ」があると‥。これによってある一定の高さで花吹雪が空間に漂う大きな景色を表現することに成功している。大変あでやかな句と思う。
・平らかに湖水残して鳥帰る
・命なきものの軽さを蟻が曳く
・結局は同じ枝へと赤蜻蛉
・白鳥の凍ての極みの声と聞く
・誘蛾灯命のはぜる音のして
 命のはじける音、自然の厳しさを見事に捕らえたと感じた。誘蛾灯に集まる虫は生の終焉を迎える場合が多いが、しかし確かな生きた証を残している。
・黒々と目玉の濡れて蝉生まる
・鴛鴦にほどよき間合ひありにけり
・嘴でしごく翼の氷かな
・初蝶の死して全き翅残す
・闘牛の蝶に怖ぢけて後退る
 序にあるとおり、生き物に対する細やかでおだやかな把握に共感した。人間にたとえる方法が安易な思い入れではなく、独自の表現であることに好感が持てる。この句、牛の身の重さと蝶の動きの軽さ、しかし対等に相対する緊張感が伝わる。
・天井の染み動き出す春の闇
・朝の陽にあばかれてゐる蛍の死
・マネキンの捨てられてゐる旱かな
・完璧といふ曲線の寒卵
 序では虚実の句というひとかたまりがあった。私はこの四つの句をシュールレアリズムの絵画のように感じた。私はこのような句にいくつか挑戦したものの見事に失敗した。再度挑戦しようかと思わせてくれる。

 さて、水・川・海・湖を詠んだ句がいくつかあるが、どれもが水の動きを見事にとらえられていると思う。
 そしてどの句も確かで、凝視とも思える観察に裏打ちされた表現ではないかと思った。凝視を表現に練り上げる力、理知的に再構成する力、見事だと感じた。