Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

宮城県美術館常設展&ルオー版画集『ミセレーレ』展

2013年06月30日 23時09分51秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 先に掲載したゴッホ展を見た後、常設展を見て回った。事前の調査では松本竣介、靉光やパウル・クレーなどの収蔵品がある。また洲之内コレクションが寄贈されたとある。

 ゴッホ展を見終わってから1階の展示室に入ろうとすると小企画展ということで、新収蔵のルオー版画集『ミセレーレ』を全作品展示とある。うれしくなって思わずニヤリとしたまま、会場にはいる。

      

 会場ではいかにもルオーらしい太い線で書かれた人物像が並んでいる。「宮城県美術館のコレクションに、ジョルジュ・ルオーの版画集『ミセレーレ』が加わりました。優れた版画家でもあったルオーは、代表作と言えるこの作品で、人間の苦悩と希望を様々な形で表現しました。多彩な銅版画技法が駆使された、ルオーならではの重厚な絵肌も魅力です。初めての展示となる今回は、全58点を一堂にご覧いただきます」とある。
 この版画集もルオーの絵画と共通する太い輪郭線が特徴で、いかにもルオー然としている。同時にモノクロームの陰翳が「祈り」という原初的な行為を人間の存在の深い闇の底で捕らえているというような、不思議な感覚に襲われる。「祈り」という行為が、自然や自分の周囲の環境に対する絶望、自分の存在に対する不信に起因するのだと思うが、そんな祈りの原初的な発端を捉えているように思う。
 一枚一枚の絵に長い題が描かれているが、それはいかにも宗教者然としたルオーの言葉だが、それにとらわれずに版画だけから受ける印象がすでに「祈り」なのだ。その実感こそがこの版画集の魅力なのだろう。
 我々にはわからない、理解できないものもいくつかある。キリストや救済に対する感覚の違い、文化や伝統の違いなどの要素もあるが、それでも惹かれる多くの作品が、そんな「祈り」の普遍性を示していないだろうか。
 さらに絵画と共通する太い線は、あのルオーの不思議な色使いを髣髴とさせ、豊かな色彩を暗示してしまう不思議な感覚に襲われた。

 そして、次のコーナーがこの美術館のコレクション展示の今年度第一期の展示、同時に洲之内コレクションのコーナーもある。
 これらあわせて75点もある。カンディンスキーの「活気ある安定」など4点、パウルクレーの「Ph博士の診療装置」など6点、日本の画家では高橋由一が3点、藤田嗣治の「横たわる貴婦人」、長谷川潾二郎が「猫」を含む3点、靉光の「鳥」等々ととても豪華である。
 そして記憶に新しい松本竣介が「画家の像」「郊外」「人」の3点に洲之内コレクションから「ニコライ堂」「白い建物」の2点、あわせて5点も展示してある。すぐ近くにこの5点があるので、松本竣介特集のような気分すら味わえる。これらが並ぶと「画家の像」がひと際大きく見える。やはり代表作なのだろう。凛々しい顔に見る人もいるし、倣岸不遜な顔に見る人もいるかもしれないが、横のおびえるように後ろを振り向く女性や女の子の顔が印象的だ。
 その他三岸光太郎や佐藤哲三(2点)など懐かしくもあり、刺激的な「コレクション展」である。こんなに豊富なコレクションのある県立の美術館もあまりないような気もする。

松本竣介 白い建物(1942年) 洲之内コレクション


靉光 鳥(1940年)



 そとは冷たい雨が降り続いていたが、ゴッホ展と合わせてとても充実した半日となった。



宮城県美術館「ゴッホ展-空白のパリ時代を追う-」

2013年06月30日 14時10分04秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 6月28日(金)に仙台にある宮城県美術館で開催されている「ゴッホ展-空白のパリ時代を追う-」に行って来た。
 小雨が続く肌寒い天候であった。ここを訪れるのは確か3回目。前回は松本竣介の回顧展のとき。最初に訪れたのはいつだったか、また何を開催していたか記憶にない。宮城県美術館は彫刻家佐藤忠良の記念館を併設しているので有名である。

   

 私が知っているゴッホの絵は、1887年作の「タンギー爺さん」を除いて、バリに出る前のオランダ・ベルギーで農民を描いたいくつかの作品と、パリから南フランスのアルルに映った以降の作品にほぼ限られる。
 今回は南フランスに移住してゴッホの絵画が全面的に開花するいわゆる準備時代としてのパリに焦点をあてて、さまざまな画家の試行錯誤、技量を身につけるための努力を辿っている。
 2年間という短い時間に大きな飛躍を遂げ、後期印象派の代表格と評されるような画家の苦闘が、たったの2年間なのか、2年もの間なのかは人によって違う解釈になろうが、この濃密な2年という時間が再評価されている。

 アムステルダムのファン・ゴッホ秘術間の集中的な7年間の研究成果が展示されているという展覧会である。技法上のことはよく理解できないが、初期の暗い画面構成から明るい画面への転移には、絵画に対する思いいれからの脱却と共に暗い諧調から明るい色彩の仕様という技法上の転移が同時進行する必要があったこと、その後に、筆のタッチや厚塗り・薄塗り、遠近法の習得、下塗りの選択、点描画法の取り入れと決別等々さまざまな技法上の苦闘の跡が示されている。
 写実中心から色彩の多様と調和、そして氾濫へ、筆のタッチとの調和により変遷していった様子が理解できる。さらに一気に書き上げたようなゴッホの絵であるが、実は入念な下絵に基づくものであることも教えられた。

 このような習作期ともいえる時代の絵だが、それでも心惹かれる絵がいくつかあった。私にとっても目新しい、初めて眼にする絵がいくつもあった。



 この絵「石切場の見えるモンマルトルの丘」(1986年)はオランダ時代の絵も思わせるような厚塗りの絵だが、雲の描き方がいいと思った。空の青と畑らしい緑の斜面、石切場の白と色彩の3区分が明確に強調されている。現実の風景の色感とは多分違って、色の対比のために現実を変えることに行き着いたのかもしれないと想像してみた。 石切場のゴツゴツした鋭い筆の運びによる量感と緑の斜面の柔らかい筆運び、雲のうねる様を処理した筆使いと素人の私にも何となくわかってしまうのが、問題なのかもしれない。



 次の「セーヌの河岸」(1887年)は極端に薄塗りである。こんな絵も描いたんだ、と思うと共に川の曲がり加減がなかなか面白いと思った。人の配置も面白い。上の絵といい、点景としての人の配置が実に効果的に思えるがどうだろう。ただしこの絵、左下半分を占める路が単調でつまらない。ここは色彩の工夫があっても良いと考えた。空と川の青は筆のタッチの差を利用しようとしているが、その効果ははっきりとは出ていないのではないか。そして全体に画面がおとなしい。後年のような躍動する風景になっていない。



 上と同じ「セーヌ河岸」(1887年)はこんどは上の絵の単調な道路などのような単調な色面はなく、色彩はバランスよく配置されている。川の面の色使いが、緻密に色を配置している。
 遠近も左辺中央への2本収束線でうまく出ているが、直線だけなのでちょっと単調。人の影の換わりに川岸に排水溝か何かの跡を利用して、5点ほどの黒いアクセントがありこれは効果的だと思う。ただし、右の岸の上の樹木の筆のタッチに統一性がなく、中途半端な感じがする。

   

 次の植物を描いた2枚の作品も年代による違いがよくわかる。はじめのバラを描いたものが1886年の夏、アサツキの鉢植えを描いたものが1887年の初め。前者がオランダ時代の暗い色調による質感重視だったものが、わずか一年をたたずに色彩とタッチの微妙な差で質感を描き分けるようになっている。そのかわり独特の質感・重量感、存在感が残念ながら希薄であることは確かだ。後者のほうがあっさりしている。しかも多少薄塗りだ。背景の色の配置にも気を配っている。光線の具合も明確だ。

 画家の言葉が引用されている。「僕は後悔することがある、オランダの灰色のトーンのパレットを捨ててなきゃ良かった。モンマルトルの景色を展ではなく筆でしっかり描けばよかったと」。画家自身はバリでの2年間の苦闘をあまり自己評価していないかのようだが、パリで当時前衛的であった印象派の影響を真っ向から受けて、色彩の調和から色彩の氾濫へと変貌を遂げたが、筆遣いについては原点回帰の面があったのかもしれない。しかし重厚な筆遣いと暗い色調の絵が、色彩が氾濫しそれを支えるうねるような筆遣いで躍動し流動する世界を描きえた画家には、この2年間の苦闘が必要だったと納得できる企画だったと思う。



 この「鳥の巣」(1886年)は画家が苦闘を開始した頃の絵ということになっている。弟の苦言を受けて、明るい赤と緑を加えるたり、背景を明るくしたりしているとの事。ゴッホの愛着のある絵であったらしい。新しい筆致を獲得する前の絵ということだが、私はこの絵が好きだ。
 ということはまだまだ私が飛躍できていない人間なのかもしれないが、それでもこの沈鬱な存在感が好きだ。



 さてもうひとつ、この展覧会での指摘。この1887年の絵、葦原とヒバリという取り合わせの絵として流通していたらしいが、どうやら研究の結果は違ったらしい。まず植物は円筒形の穂の状態から麦と断定され、麦畑にはえたケシの赤い花などが絵の赤いアクセントになっている。そしてヒバリとしたのは弟テオの妻ヨハンナが終生手放さずに「ひばりの飛び立つ麦畑」と命名してしまったとの事。地面近くを飛び、麦を食べるのであるから、この鳥はヒバリよりも十倍は大きいヤマウズラということだそうだ。ということで最新の正式名称は「ヤマウズラの飛び立つ麦畑」となった。
 絵は水平方向に単純な三層構造だが、空は視覚的に後退させる効果をねらって広い刷毛で薄く塗られて奥行を出し、麦畑は青い下地の上に粗い筆遣いで左向きの斜めの方向に風になびくように描かれている。また刈り取られた最下層の黄色の部分は麦とは反対の左向きになびくように描かれていて、麦の緑との対比をより引き立たせている。同時にこの黒いヤマウズラが書き加えられることで、麦の先端の画面を半分に水平に横断するラインと対角線との交わる点に黒い点が加わり画面の引き締めが行われているとの事。確かにこの鳥の黒い点が鳴ければ実にしまりのない絵になってしまう。
 

仙台市「地底の森ミュージアム」

2013年06月29日 23時16分09秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 まずは本日訪れた、仙台市富沢遺跡保存館「地底の森ミュージアム」から。
 このちょっと変わったネーミングの博物館は、富沢遺跡という江戸時代から弥生時代までの水田跡が幾重も重なる遺跡の下に、縄文時代の遺跡があり、さらにその下2メートルに、今からおよそ2万年前の旧石器時代の湿地林の根っこが見つかった。これ自体も珍しいが、さらにそこに旧石器時代人と思われる人の焚き火跡と100数点の石器、シカの糞などが発見された。
 その旧石器時代の森の跡をそのままの形で永久保存処理をするとともに、周囲に当時の森を復元している。
 展示館の中では、その焚き火跡がごく短時間の焚き火跡(1晩)であることをあきらかにし、その焚き火跡で石器を作成した痕跡であることもあきらかにしている。これはなかなか刺激的な推論であるようだが、説得力がある。さらに見つかった石器を組み合わせて、元の形の石を復元したり、その過程を通して、実際に石器をどのように作ったのがを具体的に再現している。
 石器の作り方については、私は何冊かの本を読んだがなかなか具体的にイメージ出来なかった。今回ようやく本を読んで作り上げたイメージが誤りでなかったことがはっきりしたように思う。
 石器というと黒曜石ばかりイメージしていたが、今回頁岩を利用していることがわかり、更に汎用性の高い石がイメージできた。またシカの角で本当に石器の剥片が出来るのかと思っていたが、実際に出来る過程が示されていてびっくり。
 ただし、細石刃というものがどのように作られ、どのように使われていたのかについてはまったく言及がなかったのがちょっと不思議だった。

   

 復元された森の中を歩いてみた。常緑のチョウセンゴヨウという松、落葉する松であるグイマツなどは、初めて見ることができた。またそれらのマツボックリも初めて見た。旧石器時代からの湿地であったようだが、2メートルの堆積を経て、弥生時代以降は水田が作られたようだ。堆積にかかわらず湿地で水がたまりやすかったのかもしれない。
 本日はハナショウブが美しく咲いていた。

 なかなか面白い復元、展示だったと感心した。実は私が学生の頃はこのような発見はなく、今から10数年前の発見だったらしい。

 私の趣味で欲を言えば、折角水田跡が江戸時代から時代を弥生時代まで遡るのだから、それぞれの水田の構造の特質、歴史的な構造変化そして栽培種の変化なども披瀝してもらえるとうれしいと思った。

 この遺跡の見学の後、そのまま地下鉄の駅に出て仙台から帰宅したのだが、この遺跡から1時間ほど歩いたあたりに「仙台市縄文の森広場」というのがあった。約4000年前の「山田上ノ台遺跡」の保存施設であるとのこと。竪穴住居の復元模型などがあるようで、これまで私が見た他の地域の復元住居と比較などしてみたかった。
 これは残念だった。事前に気がつけば、歩く時間がなくともタクシーの利用なども考えられた。残念ながら次回に持ち越しとなった。



東京に帰着

2013年06月29日 17時08分14秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
先ほど宇都宮をで過ぎた頃から太陽が顔を出し始めた。
仙台はずーっと霧雨か曇空。「雨男」にまた戻ったのだろうか。

東京に着いてみるとかなり暑い。日差しがきつい上、むっとする。晴れ間があるのに湿度が高いようだ。

たまたまなのだろうが、宮城と東京の機構の違いにビックリ。確かに学生時代は仙台の霧の日の多さに驚いた記憶がよみがえってきた。
初めは広瀬川から立ち上る霧に驚き、川が原因かと思ったが、多摩川・隅田川等のことを考えればそれが原因ではない。
今でもよくはわからない。

家に着いたら、また感想をまとめたい。ずいぶんコメントもいただいたので返事もしなくては申し訳ない。遅くなっていてゴメンナサイ。

仙台市の「地底の森ミュージアム」

2013年06月29日 12時39分35秒 | 山行・旅行・散策
昨日は宮城県美術館、仙台市博物館を見学。美術館は特に収穫大。訪れて良かった。
本日は、仙台市富沢遺跡保存館「地底の森ミュージアム」を初めて訪ねた。なかなか私には興味深い展示である。
詳細は横浜に戻ってから。まとめるのが楽しみ方の重要な要素になってきた。ブログを始めるまでは考えもしなかった。

いい頭の体操になっている。

地下鉄の長町南駅降りてすぐにある。帰りはお蕎麦屋さん経由で地下鉄の終点富沢駅まで。

仙台に来ました

2013年06月27日 21時46分57秒 | 山行・旅行・散策
昨晩は仙台に1泊。
本日は所用の合間に宮城県美術館と仙台市博物館に寄りたいと考えている。
そのとおりにことが進めばいいのだが・・・・。

格安のホテルだが、悪くない。朝食も無料サービスで食べることができる。知っていればコンビニのおにぎりを買わずにすんだ。
お昼までおにぎりが悪くならないよう祈ろう。

壱岐の印象(3)追加

2013年06月27日 06時30分42秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 壱岐でこんな絵葉書を手に入れていた。忘れていたものが資料を整理したら出てきた。



 まずは、初代歌川広重(1797(寛政9)~1858(安政5))と、二代歌川広重(1826(文政9)~1869(明治2))の同じ場所(壱岐志作)の季節の違う図。左の図の雪景色が初代広重の作。雪のない(夏か?)右のが二代広重の作。

 私の好みでいうと、初代広重の雪の方が雪の景色だけあってキリッとした空気感がいい。低く垂れ込めた日本海側の冬の陰鬱な印象の空の色合いがいい。海が空に較べて明るく描いている。遠くの海のほうが明るい描き方でちょっと変わった配色に見える。
 二代広重の夏?の景色は、ちょっと霞んだ感じでこれも空の雰囲気がうまく出ているような気もする。しかし手前の山にしまりがない。



 そうしてもう一つの絵は、3枚とも三代歌川広重の作。この3代広重は鯨捕りに随分と執着されているようだ。左上と右下が鯨捕りの模様を描いている。左下は今も島の中心地である郷ノ浦を描いている。初代・二代がいづれも人の描写を排して自然だけの雰囲気に徹しているが、三代目は必ず人物を配することを忘れていない。

 そして人物がいづれも生き生きしているように見える。けっして類型化していない。よく観察して描いているように思える。幕末から明治にかけての鯨捕りの様子を記しているが、明治になっても江戸時代とそれほど変化は見えていない。貴重な風俗画ということになる。郷ノ浦の漁村のちょっとさびしい雰囲気も捨てがたい。


九州国立博物館、佐賀県立美術館ほか

2013年06月26日 21時14分35秒 | 山行・旅行・散策
   

 九州国立博物館では、文化交流展示ということで「海の道、アジアの路」と題して、「日本文化の形成をアジア史的観点から捉える」をコンセプトに日本とアジア諸国との文化交流の歴史に焦点をあてた展示が行なわれていた。
 この展示、九州国立博物館ならではの企画展示と思えた。特に対馬・壱岐・吉野ヶ里と見てきた人間には面白いである。一応見てきたことの復讐もかねてじっくりと見ることが出来た。

   

 さて、最初の写真のように九州国立博物館は太宰府天満宮に接するようにその巨大な建物が建っている。天満宮からはエレベーターと動く歩道で繋がっている。



 途中にはいくつかのお寺などがあり、眼を楽しませてくれる。

         

 この九州国立博物館、東京の国立博物館のように通常展・特別展というような仕切り分けはないようで、通常展ならではの展示物を希望していたのだが、何となく勝手が違った。

 この展示を見た後は大宰府の境内を歩いて西鉄の大宰府の駅に戻り、再び佐賀市内へ向かった。
 佐賀市内の中心地に、佐賀県立博物館と美術館が並んで建っている。博物館では常設展「佐賀県の歴史と文化」で、太古の地質時代から現代までの歴史の展示。
 美術館は、30周年ということでこれは期待が持てると勇んで行った。
 しかしチラシの裏面のように、訪れた日には、8番目の展示「ライバル種臣と梧竹」という書の展示であった。

   

 副島種臣は佐賀藩出身の政治家だが、書家として有名であるとのこと。中村梧竹は明治の三筆の一人といわれ、近代書道の基礎を築いたとの事。この両者交流が深く、副島の墓誌を梧竹が書いている。
 私はどちらかというと政治家らしい豪放な感じの種臣の書が好みだが、あくまでも書だけの評価である。政治的な評価ではない。
 残念ながら私には書というものに対する知識も技量も、鑑賞眼もないのでこれ以上はわからなかった。
 しかしすでに終わっていて残念だったが、絵画の展示を是非とも見たかった。
 チラシで見る限り誰の絵かはわからないのだが、なかなか惹かれる絵があったようだ。

 ここで、飛行機の時間を考えるとこれ以上佐賀市内に滞在するわけにはいかないので、美術館を後にして、佐賀駅に戻り、リムジンバスで空港に向かった。

 最後はちょっとはしょったというか、尻切れトンボになってしまったが、今回の旅行の印象はこれで終了。

梅雨と紫陽花と蝸牛

2013年06月26日 17時06分28秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 横浜では雨が朝から続いている。次第に強くなってきている。ようやく梅雨らしい雨の降り方だ。ただし梅雨にしては少しばかり気温が低いかもしれない。折角の梅雨らしい雨なので一日振り込めらるように家に閉じこもっているのも面白いなぁと感じた。しかし予定をすべてキャンセルするわけにはいかない。
 本日は、朝から家の傍にあるかかりつけの医院へ、次は勤めていた先の管理職を含めた退職者の会の総会で山下公園付近へ、講座の受講でみなとみらい地区へと、先ほどまで外出が続いた。
 朝のうちは雨も小ぶりだったので、紫陽花が雨に濡れているのを見ながら、ユッタリと歩いた。雨が紫陽花の花から葉へ、葉から茎へ、そして地面へ吸い込まれていくのもこの季節らしいありようだ。

 都会の喧騒に乾いた地面が、春の雨とは違った様相で潤っていく。流れていく雨水に都会の棘が少しは柔らかくなっていく。

 しかし午後になって降り方がひどくなってみると、歩くのがやはり鬱陶しい。何とも身勝手なものである。雨が降らなければ「降って欲しい」といい、降れば降ったで「鬱陶しい」といい、これでは雨をつかさどる神がいたとしてら、怒るだろう。怒って被害が出るような雨になると困るのだが‥。
 といってもまったく信仰心のない私に、「神の怒りが届く」という発想がないのが、困ったものである。神も怒りがいがないだろう。いや余計かっかと怒るのだろうか。その土地土地の神の性格によって対応が分かれるのかもしれない。

 梅雨に紫陽花が咲くように取り計らった神ならば、その紫陽花に蝸牛を添わせた神ならば、そんなに怒りを外に向けることはないと、私はたかをくくっている。



 横浜美術館協力会の会員向け講演会の案内が来たので申し込んだところ、今朝参加出来る旨のメールが届いた。
 8月4日(日)、14時~15時30分
 「ジャポニスムと文化のキャッチボール」
 講師:宮崎克己氏(美術史家・昭和音楽大学教授、ジャポニズム学会理事長)
 講師は、ブリヂストン美術館学芸課長、副館長を歴任された方らしい。




登山靴‥いつ買うか?

2013年06月25日 17時00分00秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 ようやく先ほど吉野ヶ里遺跡を訪れた感想をアップした。残りは最後に訪れた九州国立博物館や佐賀市内の感想などが残っているだけだ。肩の荷がおりた感じがする。
 吉野ヶ里は写真をいっぱい撮ったが、そのうち3枚しか使わなかった。写真を撮る執念も薄れ、ただシャッターを押しているだけのようだった。

 旅行の印象をまとめることができたら、机の上にさらにうずたかく積まれた旅行中にもらったパンフレットや、購入した本などを整理してしまわなければならない。これもまた面倒な作業だ。

 昨日は友人たちと4人で東京駅でワイワイ。オジサン4人、周囲の人たちに負けずに大声を出して楽しんでしまった。ちょっと騒がしくて迷惑だったかな?

 本日はこれから講座を受講しにみなとみらい地区に出かける。アップの時間を17時にセットして、出かけることにする。
 帰りに登山靴を物色しなくてはならない。昨年の北アルプスでの使用で側面に穴が開いてしまった。もっとももう10年使ったので買い替えはやむを得ないとは思っていた。皮製の重い登山靴ならばそんなことにはならないのだが、歳相応に靴は軽いほうが長く歩くのにいい。頑丈さと、軽さ、そして耐久性、兼ね合いが難しい。
 実は街中を歩くために昨年購入したゴアテックス仕様のウォーキングシューズの底がもう磨り減ってしまった。張替えは出来ないので買い替えになる。これにもお金がかかる。一日3万歩歩いた場合、ジョギングシューズで約1万2千歩。残り1万8千歩をこのウォーキングシューズというかトレッキングシューズで歩いたことになる。少々酷使しすぎた。雨が降りそうもないときはジョギングシューズが汎用の運動靴を使用したほうが、良いのかもしれない。
 靴代、かなり高価なので長持ちをするような使用を考えないといけないことに気付いた。

吉野ヶ里の印象

2013年06月25日 12時09分48秒 | 山行・旅行・散策
                     

 吉野ヶ里遺跡というと、1989年、確か昭和から平成に変わったばかりの頃、「邪馬台国時代のクニ」「魏志倭人伝に記載された卑弥呼の居住地」などとセンセーショナルに喧伝された大きな遺跡であることは有名だ。
 この発表前にこの遺跡の発掘の前史は1910年代から注目を集めていたらしい。しかし魏志倭人伝に記載されている「クニ」とは比定されることはなく、その周辺の「クニ」として落ち着いてきた。また邪馬台国九州説だどうのと憶測・早とちり・願望記事がマスコミを躍らせていたことも覚えている。
 国の史跡として整備が進められているので、一度は現地に行って実際に歩いて見たいとかねがね思っていた。栽培している紅花がさわやかで美しかった。

   

 遺跡に入っていくとまず目につくのが、鳥をかたどった木の門柱のようなもの。これは壱岐の原の辻遺跡でも目についた。その遺跡ではこれは何か、何に基づいた復元かわからなかったのだが、今回展示を見てようやく理解した。韓国で実際に残されている民俗からヒントを得たらしい。これは鳥を神の使いとみなしたり、死者の霊魂が鳥にのって冥界に自由に移動できると考えに基づいた発想らしい。
 これは私としてはなかなか面白い復元かと感じた。

 実はこの吉野ヶ里の遺跡についていくつかの疑問と興味を私は持っていた。
1.まず、衣服について。弥生時代の遺跡での復元や私が習った頃の教科書ではとてもみすぼらしい衣服を人々は着ていることになっている。また魏志倭人伝でも縫うことをしらず、貫頭衣といって頭陀袋を頭から被っただけのような格好がそのイメージが教科書的なイメージだった。私はどうもこれがしっくりこないのだ。
 魏志倭人伝の記述が正しいとしても、そんなにみすぼらしかったのだろうか。魏志倭人伝に記載があるからこそ、彩色もデザインもかなりしっかりしたものを着ていたのではないか、身分差が社会にあれば、上下で随分と差があり、上流身分の人は着飾っていたのではないか。という疑問だ。
2.次に、首のない人骨や骨まで達する疵を負った人骨が墓から出てきて、かなり激しい戦いが行われていたといつも言われている。しかしこれが私にはそのままストンと理解できないのだ。初期的な共同社会があるとして、戦闘による死だけと断定してしまっていいのだろうか。
 私には、共同体間の戦いも当然あったと思うが、同時に深い傷というのは集中的な攻撃がその個人にされた可能性がある。内部での粛清・抗争、あるいは何らかの犠牲の方がより現実的ではないのか、と昔から感じていた。今回この疑問を解決できればうれしいと思っていた。
3.さらに、地理的な位置関係である。今回は残念ながら登る余裕は出来なかった背振山地だが、この山地を北にして南向きに有明海に面する立地はどのような景観をもっているのか肌身で感じたい。同時にそれが吉野ヶ里という遺跡全体の中でどのような役割を演じているのか探りたかった。
4.また、壱岐の原の辻遺跡でも感じたのだが、都市的な空間、市的な空間がこの吉野ヶ里にはあったとしてそれをどのように復元しているのだろうか。

 以上の4つの疑問を携えながら広い遺跡を歩き回った。遺跡は実に広い。旅行の6日目で疲労も蓄積されていて、さらに蒸し暑い天気で太陽に晒され続けたので、後半はちょっと熱中症気味になり1時間ほど休憩をとった。

            

1.被服・衣について
 衣服については遺跡内の展示館でもまた、古代植物館でも、扱っていた。特に養蚕の技術、染織の技術について試みが行われているようだ。植物由来・有明海の貝由来の染色技術を解明している。また遺物から縫った衣が出土しているとの事。これらから魏志倭人伝の記述とは違い、高度な染織技術が再現されようとしていることがわかった。
 確かに上層階層の人以外は、そのような高度な衣服を常時着ていたとは思えないが、それでも紅花畑を復元している様子などからは一定の色は庶民も着用していたのではないだろうか。貝紫などの高度な技術が必要で、希少な色は特別な人しか着用できなかったと思われるが‥。

2.首のない人骨、疵のある人骨について
 首のない人骨や腹部に矢を射込まれた人骨、骨に疵のある人骨などが甕棺墓から見つかっている。私は昔からこの腹部に矢を射込まれた人骨や首のない人骨については戦いとは思えなかった。矢などは威力があるが、混戦ではなかなか致命傷にならずに出血による衰弱をもたらし、最後は弓矢以外の刀剣・槍などによる刺創・打撃・切断などが必要と感じている。腹部に矢がいくつか残っていてそれが致命傷とするとそれはその個人に対する集中的な射掛があったということで、混戦による戦いとは考えられないのではないか。防御用の盾なども保持していたことでもある。だから内部制裁、あるいは処刑ということは否定できない。
 しかし一方で甕棺墓で埋葬されていることでもあり、私の考えは間違いかもしれない。ただし処刑であっても埋葬はあり得る。
 首の無い人骨というのも戦い以外が考えられないか、と思っていた。今回の展示では首のない人骨から腕や鎖骨に瑕があると言うことなので、これでは確かに戦いでの瑕を受けた後、首をとられた可能性がある。しかもこの人骨は甕棺墓からでているので、戦いの犠牲者のひとりというのは理解した。
 私の疑問は、甕棺墓での埋葬ということで、確かに他の集団との戦闘の可能性が高いことについては納得した。しかし処刑されたとしても埋葬ということはあり得る。今ひとつ納得できない思いはある。

3.背振山地との位置関係
 今回、晴間が出て北に背振山地を背負っている吉野ヶ里の景観は理解できた。当初はもう少し斜面が迫っていて勾配が海に向かっているのかと考えていたが、そうではなかった。山地は遠かった。しかし遠すぎることはない。そしてほぼ真北に背振山地の最高峰の背振山がそびえている。その背振山地を越えると同時代に栄えていたと思われる奴国がある。
 さらに、これはとても重要なことと思えるが、有明海を越えてほぼ真南に雲仙岳が聳えている。これは私はまったく気付かなかった。当日も残念ながら雲仙岳を見ることは出来なかったのだが、展示館で写真が展示されていた。
 この展示を撮影しなかったのはとても悔やまれる。なかなか雲仙岳の偉容を見る位置というのは、人々に何がしらかの観念を与えるのではないだろうか。
 南北の線が背振山と雲仙岳に向かい、その南北の線に沿って遺跡がある。いわゆる宮室などのある北内郭と、その北にある墳丘墓もその線上に位置する。これは祭祀的にもこの地方の重要な位置的特質を与える場として吉野ヶ里が存在したのではないだろうか、と思えた。これは行って見なければ理解できなかった。



4.市、都市的空間について
 これについては残念ながら展示や建物の復元からは日ごろの疑問は解消されなかった。高床式の倉庫群のあるところが、市的な場として想定されているが、大勢の人が集まる「市」がどうしてそこに想定されるのか、またどのような規模の市があったと考えられるのか、疑問は余計に膨らんだ。原の辻遺跡の復元でも感じたのだが、この人々が集まる「市」という場の復元について、もう少しエネルギーを配分してもらいたいな、と感じた。
 さらに原の辻遺跡では、船着場跡の発見などもあり、船の復元が行われていた。とても刺激的な復元で合ったと思う。ここの吉野ヶ里も有明海の河口から川に沿って当然船が通っていたと思う。この舟運と市の関係、船の復元など市と云う場へのこだわりを感じられなかったのは私の見方が足りないのだろうか。

 今回の訪問、行かなければわからなかったことを体験できて興味深かったが、残念ながら日ごろの疑問が解消されなかったこともある。いっぺんに解消されたならつまらないので、少しずつわかればそれが楽しいのだ。
 この吉野ヶ里の遺跡公園はまだまだ整備途中のようである。引き続きの充実を期待した。

 



黒米

2013年06月23日 22時30分00秒 | 料理関連&お酒


 壱岐で古代米の黒米を1合購入してきた。黒米のほかには、緑米と赤米もそれぞれ1合購入した。本日はそのうち黒米をいつものお米に二割ほど加えて炊いてみた。お米は小粒だが、結構粘り気がありおいしく食べることが出来た。
現在はいろいろ十何種類もの穀物を混ぜた雑穀米のご飯がもてはやされている。その中にこの黒米や赤米なども含まれているので、特に珍しいものではないが、壱岐では原の辻遺跡の整備にともない、これらの古代米を生産する農家も出てきているようだ。



 そしてその中に、壱岐焼酎のお湯割りにこの黒米をひとつまみ加えるという焼酎の飲み方が紹介されている。
 早速やってみた。なかなか美しい紫色がお米から立ち上がってくる。面白い。そして熱いお湯に長時間つけていることになるので、ゆっくりとこのお湯割り焼酎を飲み干すと、お米が柔らかくなって食べることも出来る。
 この壱岐焼酎のお湯割り、ちょっと爽やかな味がする。なかなかいけると思う。次回からはまたこれを試みよう。

沖縄慰霊の日

2013年06月23日 20時52分19秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は沖縄慰霊の日。情けないことに私はすっかり失念していた。この日に対する考え方はいろいろあることは承知をしている。しかしどんな場合でも、戦争を考える便にしたいものだ。ネットでの検索では、

 1974年に制定された「沖縄県慰霊の日を定める条例」により、「我が県が、第二次世界大戦において多くの尊い生命、財産及び文化的遺産を失つた冷厳な歴史的事実にかんがみ、これを厳粛に受けとめ、戦争による惨禍が再び起こることのないよう、人類普遍の願いである恒久の平和を希求するとともに戦没者の霊を慰めるため(条例第1条)」、6月23日を「慰霊の日」と定めている。
 一方で、司令部が壊滅してもそれを知らされなかった兵士たちが抵抗を続けたため、散発的な戦闘は司令部自決の日以降も続いた。このため、慰霊の日を司令官自決の日と定めることに対して疑問を投げかける立場もある。たとえば沖縄市では、慰霊の日を休日とする一方で、同年9月7日に降伏文書への調印が行なわれたことから、同日を「市民平和の日」と定めている。

 となっている。

 忘れてはならないことは、沖縄戦とは非戦闘員が米軍ならびに日本軍により大量に犠牲となり、そして自決という名の殺戮が公然と行われたということだ。さらに米軍占領下で開始された、長く軍事・基地機能優先が今も続いているということだ。
 米軍による無差別都市爆撃、原爆という惨禍、日中戦争以来の日本軍によるアジアでの非戦闘員に対する非行・殺戮、どれも戦争というものが本質的に持っている許されることのない蛮行である。戦争というものにどんな美辞麗句をつけたとしても、その本質は変わらない。
 「慰霊の日」の式典にあわせて訪沖し、式典に参加した首相や、外務大臣・防衛大臣、駐日大使がどのような政治的な目的をもっていたか、誰もが素直には納得できないことを知っている。

 きな臭い時代、沖縄戦や空襲や原爆や、侵略ということ、軍隊というものの本質、「国家」・国境線というものの危険な実態をキチンと考えたいものである。


横浜歴史博物館「絵巻で見る江戸時代」展

2013年06月23日 19時42分35秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は横浜歴史博物館の収蔵資料展である「博物館コレクション 絵巻で見る江戸時代」展を見学した。
 当初、セキセイインコの大き目の籠を購入するため、市営地下鉄「センター北」駅に出かけたのだが、妻が籠を購入する店のすぐ傍にある横浜歴史博物館に行きたいといい始めた。理由を聞くと、展示の絵巻物の中に、出身地の庄内藩一揆を描いたものがあるのだという。私も見に行きたいと考えていたのでまったく異存はない。ということで籠の購入前に歴史博物館におもむいた。入場料は企画展で1人200円。

   

 展示構成は
1.東海道と旅-東海道の旅、旅の風俗-
2.武士の世界-描かれた大名行列、鷹狩の風景-
3.庶民の世界-町のくらし、農村の四季-
4.絵巻で見る事件-蜂起する百姓たち、江戸の火事-
5.絵巻で見る幕末-西洋式の軍事訓練、黒船がやってきた、軍隊の行進-
となっている。
 1.は県立歴史博物館と重なり、しかもこれを目的とした展示なので「旅」については県立のほうがいろいろと面白かった。しかし旅の風俗の絵巻はこちらでしか見られないものがあり、やはりあわせて見るのがいい。
 目玉は4で、結果として幕府がこの転封を撤回して、処罰者が出なかったという幕末期1840年に起きた庄内藩「三方領地替え」反対一揆を描いた「百姓一揆絵巻」、そして江戸の三大大火の一つ、1772年の目黒行人坂の大火を描いた「火事絵巻」。
 ともに特に著名な画家の手になるものではないようだが、実にいきいきと描いている。もっともこれだけでなく、稲荷山開帳図、江戸風俗図巻、風俗図巻、年中行事風俗絵巻もともに極めてリアルにいきいきと町人をはじめとした都市の生活者の姿が描かれている。顔の表情、仕草、店の様子、町の喧嘩の様子など面白おかしく、それこそ掛け声も聞こえてきそうな感じである。

 そしてとりわけ4.の二点の作品はとても興味深い。

      

 庄内藩の一揆は、発端から江戸での越訴、地元での7万6千人という膨大な人を集めた2回の集会など、圧巻である。
 妻は「庄内の人間は普段はおとなしく静かだけど、一端怒って行動を起こすと怖いんだよ」と一言。これはちと誰に向かっていったことなのか、不安であるが‥。
 火事絵巻も火事という災害に都市の人々がどのようにたくましく立ち向かっているか、よくわかる。

 なお、カタログは二種ある。この二つの絵巻の全体の複製と解説に限った図録は500円とお得な値段。これを購入した。

         

俳句結社誌9月号投句

2013年06月23日 11時37分02秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 昨日の戸塚駅近くでの句会の後の懇親会が終了したのが、7時40分くらい。朝厚い雲に覆われた空だったが、お昼前には再び雲が切れて、あっという間に晴となった。夕刻から雨の予想で雷注意報も出ていたのだが、予報はハズレ。
 この晴れ間を利用して、久しぶりに戸塚駅から横浜駅を通って我が家まで歩いてみることにした。約15キロほどであろうか。3時間に少し欠ける程度と踏んで歩き始めた。
 いつもは逆コースを旧東海道を神奈川宿-保土ヶ谷宿-戸塚宿を辿って歩くのだが、昨晩は現在の国道1号線をひたすら横浜駅をめざして歩いた。日中の気温が29度の予想だったが、夜になれば涼しい。湿気もさほど感じなかったので、快適な歩行が出来た。2時間50分で我が家にたどり着いた。途中どこかで休憩しようと思ったが飲み屋しか空いておらず断念。横浜駅でコーヒーでもと思ったがこれも面倒になったのでそのまま歩きとおした。
 23000歩ほどであった。一日の合計は31000歩、旅行の最後の日以来、久しぶりにたっぷりと汗をかいた。
 10時30分ちょうどに家についてそのままシャワーを浴びて、冷たいお茶がおいしかった。すっかり酔いも醒め、快調。

 句会では対馬・壱岐・吉野ヶ里の印象で句を作ったが、まだこなれていないし、吟行句のような出来だったので、いろいろ指摘を受けた。5句のうち3句は指摘を受けて直したが、2句はまだ、うまくなおらない。いづれも来月の投句にまわすことにした。

 俳句結社誌9月号投句
幼子の予期せぬ一歩立葵
少年の気合一声風薫る
青年の気ままな欠伸夏近し
夕焼空豆腐水ごと切り分ける
白南風や父の蔵書に無頼派も
夏の潮真ん中にある白灯台
風死して日時計影を太くする
義母の忌に仕舞う姿見たちあおい
桑いちご腕の産毛をゆする風
夏の雲蔵の杜氏に声もなく