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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「トラウマ」から その2

2025年06月09日 19時39分01秒 | 読書

   

 読みかけの「トラウマ」(宮地尚子、岩波新書)を久しぶりに紐解いた。
 横浜駅近くのオフィス街にある喫茶店で1時間半ほどゆったりできた。半分の45分ほどの読書タイムを確保。

 本日までに「はじめに」、「第1章 トラウマとは何か」、「第2章 傷を抱えて生きる」までを読み終わり、「第3章 傷ついた人のそばにたたずむ」の冒頭まで読み進めた。

「心のケア」というとき、第一に必要なことは、「心のケア」=「メンタルヘルス」を被災者・被害者に提供する小鳥も、「メンタリー・ヘルシー」な対応や施策を、社会全体が心がけることだと私は思います。何がメンタリー・ヘルシーかというと、個々の被災者・被害者が深く傷ついているということ、回復の道のりが新たなストレスをもたらすこともあるということを認識しておくことです。その上で当事者が希望やつながりを感じられるようなビジョンを社会が一緒に考え、執行していくことだと思うのです。対応や施策は、あくまでも当事者主権、被災者や被害者主導であってほしいと思います。」(はじめに)

秘密にすることによって、外部からの不必要な詮索の目を排除することは重要です。ただ、それによって支払わされる代償も少なくありません。‣‣‣語らないまま、秘密を抱え続けることは、生きる世界をひどく縮小させてしまうのです。」(第2章)

語られないとどうなるか。まず周囲からの理解や正しい診断を得られなくなります。第二に、秘密にしておくこと自体が、さまざまな症状をもたらします。第三に避妊や回避、抑圧や解離などによって語られない場合、その癖が固定化し強化されてしまう。第四に、語らないことによって被害が続いたり、さらなる被害者が生まれることもあります。」(第2章)

 精神医療については、分かっているようで分からないことばかりである。そして安易に分かったつもりになることの危険を、いつも思い知らされる。謙虚に知ろうとすることの大切さをいつも思い出させてくれる。
 じっくりと読んでいる。

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読了「図書6月号」 その2

2025年06月08日 20時13分22秒 | 読書

 本日の朝は団地の管理組合の諮問委員会の会議と巡回で2時間、昼前から1時間半ほど自治会の草取り作業。昨日のボランティアでの草刈り作業と同様かなり汗をかいた作業であった。2日間、たっぷりと植栽関連の作業となった。
 午後からは妻の買い物に付き合って、ショッピングセンターで夏用のランニングシャツなどを購入してもらった。減量のおかげでXLからLの大きさになった。このシャツの外に、いつものとおり重い食材をリュックに入れて帰宅。本日は一人行動はなし。読書もなし。
 夕刻は朝からの会議と作業でうつらうつら。



 昨日の「読了「図書6月号」」で引用を失念していた箇所があった。

・『カラマーゾフの兄弟』は家族人類学にとって宝の洞窟だ!    鹿島 茂
ロシアの民謡では、息子や娘がいる場合、3人と「決まっている」ようなものなのだ。スターリンのような独裁者の死後になぜかそうなる三頭体制もトロイカと称されるが、「三人の息子」による相続の枠に収まるといえる。‣ロシア民衆の頭脳には「三」という数字があらかじめインプットされていて、政治体制も「三」に収斂される。
ロシア型の共同体家族では、相続を巡る父親(ないしその代理としての母親)と息子たちの家族会議は、いわば「制度的」なものとなっていた。ドストエーフスキーが家族初の全員集合を「家族会議」としたのは、慣例に従ったからとなる。共同体家族にとって不可避な精度である家族会議という口実を使えば、ストーリーを円滑に展開できると判断したのである。

 まだまだ結論的な箇所に至らないこともあり、今回は引用のみにとどめる。

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読了「図書6月号」

2025年06月07日 22時46分32秒 | 読書

 本日の午前中は団地内のボランティア活動を2時間ほど。芝生・雑草刈のお手伝いと一部低木の剪定。
 筋肉がだるくなったが、午後はうつらうつら詩ながら「図書6月号」を読み終わった。今月号で読んだのは次の署編。

 表紙は志村ふくみ《みわらび》茜
・[表紙に寄せて]花の器                     佐藤文香
・単価は自由自在                       栗木京子
・読むことは世界への扉を開く                 伊与原新・木下通子
高校時代に科学部に入って頑張って、楽しかったからそれで満足ということなんです。駆られを見ていて、実はそういうのが題字なんだなあと。
・一編の詩との出会いを求めて 茨木のり子『詩の心を読む』   松村由利子
1926年生まれの茨木のり子にとって、十代はほぼ戦争一色に降りつぶされた時期だった。戦争というもっとも野蛮な罪業を茨木は終生忘れることがなかった。働く女性の暮らしや自立を表現した石垣りんや長瀬清子の詩を丁寧に読み解いているのも、戦後の新しい女性像への共感が根底にあったからに外ならない。
・通史を描き、人々の「しんどさ」を紡ぐ 鹿野政直「日本の現代」 宇田川幸大
本書は読者にこう語りかけている。「それぞれの“しんどさ”を抱える人々がいる。その“しんどさ”が少しでも軽くなり、人々が幾らかでも呼吸しやすい社会や人間関係に、どうすれば近づきうるのだろうか」と。本書のいう「しんどさ」を可視化し、通史として描くのあるべき姿や通史を描く方法を考える際、本書はいまなお必読文献である。
・家庭科はすべてを変える 南の忠晴『正しいパンツのたたみ方』 山崎ナオコーラ
・つながる学校図書館をつないでいくために
          木下通子『読みたい心に火をつけろ!』   中沼祥子
・学びたい気持ちがあれば、スタートはいつでもできる
                    盛口 満『めんそーれ! 化学』           東えりか
・世界でいちばん短い詩  佐藤郁良『俳句を楽しむ』      神野紗希
・名文を楽しみながら英語力アップ!
                    行方昭夫『読解力を鍛える英語名文30』      河島弘美
・文豪も悩んでいた…… 出口智之『森鴎外、自分を探す』    仲島ひとみ
・「考えるジュニア」の背中を押す本」
      藤田正勝『はじめての哲学』            宇佐美文理
・現代の情報環境を泳ぎ切る方法
      梅澤賞典『ネット情報におぼれない学び方』     読書猿
・音楽を描く                        牧野伊三夫
 現代音楽・現代美術などを私はあまり見・聴きすることが少ない。特に音楽について言える。しかしいつも現代芸術に接するにつけて常に感じるのは「個別性への指向・思考の強さと、普遍性への指向・思考の欠如」である。現代芸術が時間軸を射程に入れていないということも意味する。一過性でもある。普遍性・時間軸を端からこれを拒否しているのである。この一編を読んでもこの疑問と確信は変わらなかった。
・『カラマーゾフの兄弟』は家族人類学にとって宝の洞窟だ!    鹿島茂
・六月に降る雨と雪                      柳家三三

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小石川後楽園で花菖蒲

2025年06月04日 21時39分14秒 | 読書

            

 本日、ルドン展を見ようと汐留美術館まで夫婦で出向いたところ、休館日であった。事前に休館日をチェックしなかったのがいけなかった。
 昼食はニュー新橋ビルの中の古いつくりの「パーラー」でチキンライスとナポリタンという60年前のようなメニューを堪能。
 昼食で機嫌を直した妻の提案で、小石川後楽園の花菖蒲を見に行くことにした。新橋駅から飯田橋駅まで行き、歩いて小石川後楽園へ。65歳以上は一人150円ということで、結果としてはきわめて安く済んで、幸運であった。

 園内の花菖蒲田の見ごろは6月8日ごろまでということで遅いかもしれないと思ったが、まだまだ十分に楽しめる状態であった。
 睡蓮・紫陽花も楽しめた。

 入園料が安く済んだので、夕食は外食で少しばかり贅沢をした。


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「死者の贈り物」(長田弘)

2025年05月27日 22時03分18秒 | 読書

   

 午前中は、「日経サイエンス5月号」の特集記事から「リュウグウが語る太陽系惑星の起源」と「アルマ望遠鏡で迫る惑星誕生の現場」を読んだ。
 午後からは昨日に続いて長田弘の詩集を引っ張り出してきた。「死者の贈り物」(ハルキ文庫)を再読。
 2003年に刊行されたこの詩集の「あとがき」に長田弘は「『死者の贈り物』にどうしても書き留めておきたかったことは、誰しものごくありふれた一個の人生に込められる、それぞれの尊厳というものだった。ひとの人生の根本にあるのは、死の無名性だと思う。」と記している。
 本日は前半の11編を読んでみた。いく枚もの付箋が貼ってあるが、3編から抜粋。


 渚を遠ざかってゆく人

・・・・
波打ち際をまっすぐ歩いてくる人がいる。
朝の光りにつつまれて、昨日
死んだ知人が、こちらにむかってあるいてくる。
そして、何も語らず、
わたしをそこに置き去りにして、
わたしの時間を突き抜けて、渚を遠ざかってゆく。
死者は足跡ものこさずに去ってゆく。
どこまでも透きとおってゆく
無の感触だけをのこして。
・・・・

 三匹の死んだ猫

・・・・
生けるものがこの世に遺せる
最後のものは、いまわの際まで生き切るという
そのプライドなのではないか。
雨を聴きながら、夜、この詩を認めて、
今日、ひとが、プライドを失わずに、
死んでゆくことの難しさについて考えている。

 箱の中の大事なもの

・・・・
愛するということばは、
けれども、一度も使ったことはない。
美しいということばを、口にしたことある。
静かな雨の日、樹下のクモの巣に
大粒の雨の滴が留まっているのを見ると
つくづく美しいと思う、と言った。
どこの誰でもない人のように
彼はゆっくりと生きた人だった。
死ぬまえに、彼は小さな箱をくれた。
「大事なものが中にはいっている」
彼が死んだ後、その箱を開けた。
箱の中には、何も入っていなかった。
何もないというのが、彼の大事なものだった。

 私は最初の詩の「わたしの時間を突き抜けて、渚を遠ざかってゆく。/死者は足跡ものこさずに去ってゆく。」というところにとても親近感を覚えた。死んだ友人、まだ生きているが連絡の取れなくなっていても無性に会いたくなる友人を思い出したとき、こんな感覚に襲われたことが幾度かある。
 その友人たちは、常にふと私の元から気が付くといなくなっていた。そしてそれが不思議に私の心に刻み込まれる足跡なのだ。その足跡は私の身体にわずかな痕跡も遺さずに突き抜けていく。突き抜けたという感触すら曖昧なときもあるが、確かに突き抜けていったのだ。この年になるとそんな感触が繰り返される。そんな友人たちが増えてきた。
 長田弘の詩は、そんな痕跡や感触を私に思い出させてくれる。


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本日から読む本「トラウマ」

2025年05月23日 13時05分49秒 | 読書

 一昨日までの「やさしさの精神病理」(大平健)に続いて、今回も精神科医の著書「トラウマ」(宮地尚子、岩波新書)。
 まだ1頁も読んでいないが、理解がどの程度できるか、まったく自信はない。
 しかしどんな本にしろ、ゼロということはないと思っている。私の図々しさだけは人一倍である。
 しばらくは精神科医の世界に足を踏み入れたい。

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本日から読む本「トラウマ」

2025年05月23日 13時02分51秒 | 読書

 一昨日までの「やさしさの精神病理」(大平健)に続いて、今回も精神科医の著書「トラウマ」(宮地尚子、岩波新書)。
 まだ1頁も読んでいないが、理解がどの程度できるか、まったく自信はない。
 しかしどんな本にしろ、ゼロということはないと思っている。私の図々しさだけは人一倍である。
 しばらくは精神科医の世界に足を踏み入れたい。


読了「やさしさの精神病理」(大平健)

2025年05月21日 21時14分46秒 | 読書

   

 本日「やさしさの精神病理」(大平健、岩波新書)を読み終えた。

“やさしい”人々が「いちおう」だの「とりあえず」だのといった言葉を先発しているのを聞いていると不思議な気がしてくるものです。自分の価値に始まって自分の判断や行為に至るまで、一様に「とりあえず」や「いちおう」で塗り固めて‣‣‣‣‣‣。何だか、彼らが彼ら自身のすべてをかりそめのものとして考えていないように思えてくるのです。そう思って尋ねてみると、彼らが「本当の自分」を見失ったように思って「自分」に確信をもてないでいることが分かります。現在の「自分」が曖昧であればこそ、未来に自分を賭けることができないのです。夢想的な人は占いや新興宗教など未来を革新的に告げてくれる言葉に耳を傾けます。現実的な人は<未来のための過去づくり>に励みます。‣‣‣‣熱中できるものがなくても、日々の生活に「とりあえず」満足できていれば、“やさしい”人々はそのままの暮らしを淡々と続けます。生き生きと暮らしているという実感に乏しい生活ですが、熱く(ホットに)なるのが嫌いな彼らはあんがい、それがほどよいのかもしれません。」(終章)

 精神病理学の研究手法は私はよくわかっていないが、個別の症例のいくつかの比較から共通項を取り出して立てる仮設。やはりそこにはいくつもの恣意性が入り込む余地がある。それはそれで読者である私好みの針路ではある。
 病の定義の症例研究と、社会評論・社会批評へという道筋との違いがまだ私には分からない。この本の著者の大平健氏は、どのように分けているのであろうか。そこのところは分からないままである。多分これはこれからも分からないままであるような気がする。

 『とりあえず』このまま次に進みたい。

 こちらに引っ越しています。「https://shysweeper.hatenablog.com/」(同じく「Fsの独り言・つぶやき」)。引っ越し後も引き続きご訪問ください。


「やさしさの精神病理」 その2

2025年05月18日 21時09分30秒 | 読書

   

 「やさしさの精神病理」(大平健、岩波新書)の第3章から第6章まで読み進めた。平易な文章表現であるが、なかなか含蓄のある文章である。

“やさしさ”とは相手の心に立ち入らず、相手と滑らかな関係を保つことで市。葛藤をできる限り避け減らす工夫でした。縫いぐるみの柔らかい背中を“やさしく”撫でる時の“やさしい”感触。これ以上純粋で理想的で究極的な滑らかな関係はありえないでしょう。」(第4章「縫いぐるみの微笑み」)

近代語としての優しさは、人の心をなごませるような性質の一種でした。それは娘たちや花々の美徳として認められはしても、「華奢」の弱さに通じるマイナーな価値しか与えられていませんでした。優しさは与するに易しいことでもあったのです。やさしさが大変貌をとげたのは、1970年前後のことだと僕は考えています。学園闘争の閉塞状況のももとで、当時の若者たちは、自分も他人もともに弱い傷ついた者である、と認識しました。その時「互いの傷を舐めあうようなやさしさ」が求められ始めたのです。当時の若者たちにとって、この言葉は彼らの新発見--やさしさが人や花の性質であるばかりか、人付き合いの方法でもありうることを雄弁に表現してくれるものだったのです。若者たちの社会進出にともなって、メジャーな価値となってゆきます。その後、世の中は急速に代わっていきました。‣‣‣やさしさもさらに変化してゆきます。治療としての「やさしさ」から予防としての“やさしさ”の方が、滑らかな人間関係を維持するのにはよい。そういうことになったのです。」(第6章「“やさしさ”の精神病理」)

 読んでいて井上陽水の「心もよう」を思い出した。60年代からのフォークソングから70年代への転換点のような歌である。

 さびしさのつれづれに
 手紙をしたためています あなたに
 黒いインクがきれいでしょう
 青い便箋が悲しいでしょう?!

 「さびしさ」の解釈でいろいろな場面や背景が浮かび上がる仕掛けの「詞」である。同時に「さびしさ」の裏にある「やさしさ」が浮かんでくる。ここまでで私の感触は行き止まりであった。私はいつもこの歌にこの「やさしさ」“やさしさ”の区別はつかなかったが。もう少し読み進めたい。


 過去の投稿も含めて、こちらに引っ越しています。もう少しは、両方に投稿します。https://shysweeper.hatenablog.com/」(同じく「Fsの独り言・つぶやき」)。
 引っ越し後も引き続きご訪問ください。


昨日から「やさしさの精神病理」

2025年05月12日 21時56分45秒 | 読書

   

 昨日から読み始めたのは、「やさしさの精神病理」(大平健、岩波新書)。一昨日、書店の新書コーナーで精神医療関係の本を探していて見つけた。精神科医による1995年刊行の新書である。
 本日は読む時間的なゆとりはなかったものの、昨日序章「過剰な“やさしさ”」と第1章「“やさしい”時代のパーソナリティ」、第2章「涙のプリズム」を読み終えた。

 本書を読んで確かに1990年代には“やさしさ”が強調されていた記憶がある。当然にも私はその言葉の氾濫に違和感が強かった。私はいつの時も「流行り」言葉に大きな違和感を持つのが常である。常に私の持つ語感と、流行る言葉がもたらされる意味合いに大きな齟齬をきたすのである。また私の持つ語幹と違う言葉を入口に、不思議な言葉の世界に迷い込んでしまう。流行り言葉とはこういうものか、といつも私はその言葉の使い方を無視し、生きてきた。あえてその言葉を頼りに、社会の病理にたどり着こうなどとは考えも及ばなかった。
 
 第1章に取り上げてある4つの症例ならぬ事例は、相談者自身にとって重要な契機を「忘却」し、その代わりに他の事例を口実として浮かび上がらせるという逃避の事例でもある。一般的には大人になり切れていない、あるいは人間関係がうまく取り結べない人々、と判断されてしまう事例である。
 そこから社会の病理をどのように抉り出そうとするのか、興味深い。
 第2章の症例で次のような見解が示されている。

彼らの“やさしさ”は“一見やさしい”人や“やさしそー”な人、“やさしい感じ”の人をも含む「集団」との「協調」を目指していたのです。‣‣‣「やさしさ」がはやりの価値になったのは、六十年代後半の学園闘争時代のことのように思います。男も「やさしく」なければならなくなったのは、確かにあの頃です。‣‣‣違いは「やさしさ」が相手の気持ちを察するのに対し、“やさしさ”が相手の気持ちに立ち入らないことです。‣‣‣“やさしい”人々は、熱い人間関係が苦手のようです。「熱い思い」を伝えたり伝えられた利するのが嫌いです。反・熱血主義なのです。」(第2章「涙のプリズム」)

 六十年代の「連帯」の持つ「やさしさ」と、90年代の“やさしさ”を「熱血主義」と断定してしまうのは少し違和感はあるものの、否定はできない。「連帯」の「やさしさ」が相手の人格否定につながる場合があるという背理のような時代を垣間見た90年代の人々の“やさしさ”の持つ「踏み込まない」人間関係の持ち方という把握・結論は、興味深かった。


 まもなく引っ越します。「https://shysweeper.hatenablog.com/」(同じく「Fsの独り言・つぶやき」)。
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読了「統合失調症」

2025年05月11日 20時37分11秒 | 読書

   

 昨日「統合失調症」(村井俊哉、岩波新書)を読み終えた。

統合失調症が「普通の病気」であると強調してきましたが、その一方で「他の医学疾患とは異なる特徴もあります。無理矢理に「普通の病気」に落とし込むだけでなく、そうした面も知って置くことは必要。その特徴の一つ目が「病識の欠如」です。病識と大きく関係する問題して「妄想」という症状があります。」
このことが、精神医学が一般医学と異なる入院制度を必要とし、人権に関するデリケートな問題を伴い、医学の枠組みだけで扱いきるわけには行かない問題を残してきたともいえる。
妄想は「自由」や「愛」のような抽象概念と似たところがあり、自然科学での扱いが難しいのです。妄想を自然化する方向性も避けて通ることができません。」(第8章「病識と妄想」)

 一応「統合失調症」という病気の概要はわかったような気がするが、理解できたわけではない。あくまでも表面をなぞっただけの認識だと思う。これから少しずつ理解の度を高めたいものである。

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「統合失調症」 その3

2025年05月09日 21時44分16秒 | 読書

   

 精神科医の扱う分野について、ほとんど知識も素養もない私でも、その分野を少しでも理解したいと思い読んでいる。乱暴かもしれないが、この分野の他の書物などを読むとき、少しでも理解に役立つ入門書として読んでいる。
 そしてここでの記述が正しいという前提すら妥当か否かもわからない。しかし記述の仕方からは信頼できると感じている。
 本日は昨日に続き、第6章「治療」、第7章「歴史と社会制度」を読み終えた。
 いつものようにメモ書き風に。

メンタル・ヘルスは、社会や文化の強い影響を受ける。ブラック企業に就職した人のうつ病の罹患率は、間違いなく高くなっているでしょう。だからこそ可自由労働、教育現場や職場での悪質ないじめ、格差社会など、メンタル・ヘルスに悪影響を及ぼすような要因を減らす方向に社会は努力すべきなのです。それはたしかにそうなのですが、統合失調症という病気については、そういう問題ではないということなのです。」(第5章「原因とリスク因子」)

心の病気については本能的に家族関係や人間関係に原因探しをしてしまうという「素人感覚の錯覚」には十分に気をつける必要があります。しかし幼児期のトラウマ体験と投稿失調症に関連ありとする最近のデータをもう一度中立的な目で見ること自体は意味のあることでしょう。‣‣‣‣統合失調症に関係するかもしれない多くの因子は、現実には遺伝と環境の相互作用で生じてきます。かつては絵空事のような仮説であり、苦し紛れに言われた仮説という面があります。しかし研究手法が洗練さりていく中で、「遺伝的なな意味での統合失調症の生じやすさを持った子どもに特定の環境が作用したときに、統合失調症は高い水準で生じるのではないか」という遺伝・環境相互作用説は、具体的に検証可能な仮説にようやくなりつつあります。小児期トラウマ体験と統合失調症の関連についても、もう一度見直すべき時期に来ているのかもしれません。」(第5章「原因とリスク因子」)

精神科の医療現場は、保安的色彩と、医療的色彩の両方を持ち、折々の社会情勢の中で行ったりきたりしつつも、徐々に後者のウェイトが大きくなってきたというのが正確なところでしょう。」(第7章「歴史と社会制度」)

統合失調症という病気は、保安の対象であるというよりは、社会が手を差し伸べる対象であるという理解へと向かいつつあります。‣‣そうなった理由はなんといっても薬物療法の成功でしょう。‣‣‣私自身は、統合失調症は病院で治療する「病気」であるともちろん思っています。この本では統合失調症は「普通の病気」であるとまで言い切っています。‣‣‣民主主義や基本的人権という考えが定着した後になっても保安の対象と保護の対象の間で揺れながら今日に至る統合失調症の歴史を振り返ると、(「普通の病気です」という思考過程を)‣少なくともこの病気を持つ人の支援にかかわる人たちに、自分の頭でたどってみていただきければと願っています。」(第7章「歴史と社会制度」)

統合失調症が「普通の病気」であることを強調してきましたが、薬によって完全にではないに寄せ、かなりの改善がえられるということは、そのような見方を後押ししてくれることになった。統合失調症という病気への偏見を部分的には解消する方向に働いた。一方で、興奮し対処できない患者には薬で鎮静すればよい、という安易な考えを医療者が持つようになった面は否めず、身体拘束具に代わる「タブレット(錠剤)の拘束具」として、推奨容量を超えた使用が行われ、副作用は、病気の症状よりも患者さんの苦痛になることさえありました。不必要な大量処方によって生じた副作用を持つ患者さんの緩慢な動きや無表情は、ネガティブなイメージとなり、新たな偏見を生むことになりました。負の側面をどうすれば最小化できるかが、精神科専門医が習得を求められる知識と技能の大きな部分を今日占めるようになっています。」(第7章「歴史と社会制度」)


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「統合失調症」 2 

2025年05月07日 21時53分33秒 | 読書

 本日は親の通院の付き添いで、二つの病院を回った。14時過ぎに家を出て、帰宅したのが16時半。タクシー利用のため、私の歩数計はわずかに500歩。
 運動のために、17時過ぎに家を一人で出て、6千歩ほどのウォーキング。結局本日の読書タイムはわずか15分ほど。

   

 この間、細切れの読書であったが、どうにか「統合失調症」(村井俊哉、岩波新書)の第3章「統合失調症の経過」、第4章「他の精神科の病気との違い」、第5章「原因とリスク因子」を読み終えた。私のような素人にもわかりやすい文章と構成である。いつものとおりの気になった部分や勉強になった部分の引用は後日にしたい。

 これより夜のウォーキングを4千歩ほど。本日は早めの就寝予定。
 明日は都内に出かけて友人と合う予定。

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読了「図書」5月号

2025年05月05日 09時38分37秒 | 読書

 昨日「図書」5月号を読み終えた。
 目を通したのは、

・川端康成「名人」と木谷明のこと      泉 徳治
・橋口五葉と夏目漱石 さらに岩波書店    岩切信一郎
・プランクトンの声を聴く          山内若葉
・独身生活                 奥本大三郎
・ウォーター・コーリング          永井佳子
歩きながら大地の起伏を感じ、風景を見ることは自然と人間の営みの接点を知ることにつながる。たとえ時代を経て大きく変化した土地でも、その場所から見える景色のなかに過去とつながるためのヒントが隠れている。

・反骨と祈りをこどものそばに        大和田佳世
子どもって穴が好きでしょう。ちくわもドーナッツも穴を食べる。絵本の面白さってちくわの穴みたいだと思うんです。ページとページの間の余白、前後の画面のつながりを脳内で作りながら読む楽しさですね。どんなに大人の絵本好きが増えてももっとも優れた読者は子どもだと思う。驚くほど豊かに想像をふくらませて‣‣‣
 そういえば自分の子どもに本を読み聞かせているときに同じように感じていた。もう40年以上前のことだが。こういう読書を今の年齢でやってみたい衝動に駆られたが、果たしてできるだろうか。もっと謙虚に本と向かい合いたい物である。

・シチェーリング「ゴドリヨフ家の人々」は共同体家族なのだろうか?  鹿島 茂
・五月は鰹とドキドキと           柳谷三三


 このブログ、引っ越します。当面(5月中?)は両方のブログに記事をアップ予定。
 3日以上もかかったが、ようやく画像の移行も終了した。
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 引っ越し後も引き続きご訪問ください。

 


本日からの読書「統合失調症」

2025年04月30日 22時24分16秒 | 読書

 久しぶりに読書タイム。数日で読み終わる予定であった「大気で読み解く名画 フェルメールのち浮世絵、ときどきマンガ」(長谷部愛、中公新書ラクレ)を読了。ほぼ一か月もかかってしまった。前回記載した点があり、読みとおす気力が失せたこともある上、忙しかったのと、「風邪様」症状も重なってしまった。

   

 本日から読み始めたのは、「統合失調症」(村井俊哉、岩波新書)。精神医療の本は以前に中井久夫の著書を基礎知識不足、消化不良・理解不足のまま強引に十数冊読んだときと、最近「「川の字」文化の深層心理学」(北山修・萩本快、岩波書店)を読んで、もう一度その世界のことを知りたくなったこと。中井久夫の著書を文化論・社会批評として読んだのだが、もう少し理解を深めてみたい気がしていた。そのための準備。
 この本が読みこなせるか、まったく自信はないが、挑戦したい気があるうちは、何とかなると勝手に思い込んで購入してみた。