Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。体力作り、俳句、山行、美術館・博物館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。

入院中の読書2 「高野聖」(泉鏡花)

2018年09月22日 22時10分17秒 | 読書
   

 病院のあるコンビニで揃えている本は小説では文庫本ばかり。そしてほとんどが推理小説。最近の推理小説はまず間違いなく「○○殺人事件」という題名で、どうも私はその命名が気に入らない。センセーショナルに「殺人事件」としてしまって、「小説」としての力点がどこかに飛んでいってしまっているように思う。
 シャーロックホームズのシリーズを書いたコナンドイルや、クリスティやなどの海外の推理小説などは「○○殺人事件」などという表題ではない。
 人が死ぬことばかりであることには、変わりはないといえばないので、表題に関わらず私はあまりにも人が死ぬ場面で溢れかえっている推理小説自体があまり好きではない。人が死なない推理しょせうつというと、「若い人向けの推理小説になってしまう」というが、人が死なないと大人の推理小説にならないのかと逆に私は不思議な気持ちになる。
 そんなこともあり、推理小説ではない文庫本を探したら、浅田次郎とこの泉鏡花の本がかろうじて2冊あった。
 中学生の頃は確か岩波文庫で高野聖を読んだような気がする。確か「眉かくしの霊」と一緒だったような気がするが、今度書店で確かめてみようかと思う。今回角川文庫におさめられているのは5編、「高野聖」と「眉かくしの霊」が共通している。
 私にはこの5編の中では「高野聖」は群を抜いて楽しめた作品であったと感じた。「夜行巡査」などの人物造形・設定などは私にはあまりに荒唐無稽であった。「義血侠血」なども歌川国芳のような凄惨で血がほとばしるような作品で、私の趣味ではなかった。しかし「高野聖」はこれらとは一線を画して、読む楽しみを味わうことができた。人と自然が、怪異を媒介として結びつけられる。自然描写に惹きつけられるし、一見能楽のような構造でもある。
 いつものとおり早読みをしてしまったが、もう一度じっくりと筋を負いながら読みなおしをしてみたいと思わせる作品である。
 「眉かくしの霊」は少しドタバタ敵というか、絵描きの妻と愛人がどうしてこんなことになるのか、話の展開に現代のわれわれからすればあまりに無理がある。
 泉鏡花の他の作品は知らないが、この高野聖は出色なのかと思えた。


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入院中の読書「苦海浄土」(石牟礼道子)

2018年09月21日 21時26分03秒 | 読書


 感想はすでに病室からスマホで次のような記事をアップした。

 「苦海浄土」(石牟礼道子)、読了。今回はあくまでも小説として読んだ。文章の力に吸い寄せられたから。詳細は後日。
 「山中九平少年」「舟の墓場」「第三章 ゆき女きき書き」「第四章 天の魚」「潮を吸う岬」「草の親」「満ち潮」など一見聞き書き風のところが秀逸である。作者のこの小さな沿岸地域の共同体へ共感・共鳴する感性と筆力に圧倒される。特に汚染される以前の海の内外の景観や小さな舟を操る漁のようすの美しさが印象的である。現在の「苦海」と対比されるのだが、あんちょこな半近代の匂いはしない。水俣病という状況の中に身をおくことで獲得した視点、発語による小説である。一筋縄では解けない世界が広がる。ルポルタージュやドキュメンタリーましてや政治的文章としてかかれたものではない。あるいは「聞き書き集」でもない。無論読み方は自由であろうが。
そして渡辺京二の解説が私の読解と通低するものがあった。

 詳細は後日、と記したが、やはり文章の圧倒的な力を前に、今はまだこれ以上の感想を書く気力も出てこない。



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病院17日目 本日の読書

2018年09月19日 21時22分03秒 | 読書
「セザンヌ物語」の第12節「セザンヌの静物画」と、「高野聖」から「夜行巡査」、「外科室」、「眉かくしの霊」読了。
「セザンヌ物語」は、残り五つの節と序文。「高野聖」は表題作の「高野聖」と解説、年表を残す。
「セザンヌ物語」はしばらくおやすみなさい。
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病院11日目 本日の読書

2018年09月13日 22時13分29秒 | 読書
「セザンヌ物語」(吉田秀和)の第4節「ドラクロアとゴッホ」、第5節「セザンヌにおける「線」」を読了。ようやくセザンヌの画法について核心に近づいてきた。

吉田秀和の文体にもようやく慣れてきた。何年も、否何十年も前に吉田秀和の「モーツァルトをきく」の冒頭部分を読んだ気がする。内容は覚えていないが、読みにくくはなかった記憶がある。
私の読解能力が落ちたということだろうと思う。
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病院11日目 「セザンヌ物語」再開

2018年09月13日 15時06分49秒 | 読書
昨晩は点滴のポンプが何度も「閉塞」となり警告音が鳴った。眠りを妨げられた。点滴の針が上手くおさまらないようで、先ほどやり変えてもらった。これで上手く収まってほしい。

本日は「セザンヌ物語」を再開。ゴッホを経て、ようやくセザンヌが取り上げられそうな節になってきた。迂回路が長い。しかしその前にこんどはドラクロア。勉強にはなる。
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病院九日目 ゴーギャンとセザンヌ

2018年09月11日 17時52分40秒 | 読書
血液内科では問診のみ。血栓の出来た原因を探る一環での受診だったようだが・・。明日の朝の採血を通告された。残念ながら原因究明の期待はうすそう。
明日は朝食抜きで胃カメラ。経験したことのある妻は「苦しかったよ」とニヤニヤしている。自分の苦しみを私にも味あわせたいらしい。

本日は「セザンヌ物語」の3節「ゴーギャンからセザンヌへ」を読了。ゴーギャンとセザンヌの作品を比較しながら、構図・描かれた平面の分析。読みごたえがあった。全部の理解は一読では無理、後日再読すべき40頁。
ゴーギャンという画家、あらためて注目したくなった。あまり馴染みがなかった、というよりは好みではなかった。
セザンヌとゴーギャンの直接の関係で言えば、セザンヌはゴーギャンを批判し、ゴーギャンが一方的にセザンヌに傾倒するという関係であったようだ。
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病院七日目 2冊目

2018年09月09日 18時03分25秒 | 読書
昼に妻に持ってきてもらったのが「セザンヌ物語」(吉田秀和、ちくま文庫)。古書店で500円。今晩から読む本は、これと昨晩地下のコンビニで購入した「月下の恋人」(浅田次郎、光文社文庫)。

浅田次郎は初めて手にした。半分は読了、「忘れじの宿」が印象に。
「セザンヌ物語」は序文に相当する部分で一旦中止。この序文の表題が「終わりにあたってのはしがき」なので最後に読むことにして本題から読み始めることにした。

退職者会の先輩がわざわざ見舞いに来てくれた。いつもこちらが世話になってばかりいるのに、恐縮してしまった。
妻はお返し(快気祝い)はどうするか、いまからもう悩んでいる。
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病院六日目 「苦海浄土」読了

2018年09月08日 19時55分48秒 | 読書
夕食は、
重湯、スープ・ドウ・レギューム、ササミスープ裏漉し、食塩5㌘、ほうじ茶、紙パック入りのテルミールミニコーンスープ味。
同じ流動食でもスープ・レギュームがポタージュ味でボリュームがあった。これは横浜の「霧笛楼」が関係して作ったメニューだという。香りも良いらしいが鼻の効かない私は悲しい。テルミールも始めて口にした。高タンパクの人工栄養食品。

「苦海浄土」(石牟礼道子)、読了。今回はあくまでも小説として読んだ。文章の力に吸い寄せられたから。詳細は後日。
「山中九平少年」「舟の墓場」「第三章 ゆき女きき書き」「第四章 天の魚」「潮を吸う岬」「草の親」「満ち潮」など一見聞き書き風のところが秀逸である。作者のこの小さな沿岸地域の共同体へ共感・共鳴する感性と筆力に圧倒される。特に汚染される以前の海の内外の景観や小さな舟を操る漁のようすの美しさが印象的である。現在の「苦海」と対比されるのだが、あんちょこな半近代の匂いはしない。水俣病という状況の中に身をおくことで獲得した視点、発語による小説である。一筋縄では解けない世界が広がる。ルポルタージュやドキュメンタリーましてや政治的文章としてかかれたものではない。あるいは「聞き書き集」でもない。無論読み方は自由であろうが。
そして渡辺京二の解説が私の読解と通低するものがあった。
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「初期仏教」(岩波新書)読了

2018年08月31日 20時40分37秒 | 読書


 「初期仏教 ブッダの思想をたどる」(岩波新書、馬場紀寿)を読み終えた。
 30代の初めころ、中村元氏の「原始仏典」や岩波文庫のさまざまな仏典を読み漁った私にとっては、それ以来の初期の仏教を垣間見るいい機会だと思って購入した。私などは繰り返しが多い韻文による仏典の方が古い形をのこしているのだとばかり思っていたが、この本ではそうではなかった。
 私は中村元氏の訳したり編纂した原紙仏典を読んで、『「輪廻」から如何に脱出して、何もない死後の世界を求める』という徹底した無神論、唯物論として読んでいた。この読み方自体は中村元氏の本意ではないと思いつつ、この無神論、唯物論にとても惹かれた。古代インドで強く流通していたと思われる「輪廻」のいう共同幻想からの脱出、ここにブッダの「革命」を私は嗅ぎ取っていた。この直観とはこの「初期仏典」はまるで違っている。
 あまり詳しく述べる力などはまったくないのだが、出来るだけ古い姿に迫ろうとする姿勢は伝わった。しかし一方で「四聖諦(ししょうたい)」「縁起」「五蘊(ごうん)」「六処(ろくしょ)」「十二支縁起」などという煩雑な概念や議論がごく初期の口頭伝承で伝えられたのか、という疑問はつきまとった。難解な議論ではなく韻を踏んだ平易な教えが口頭で流通としていた、という方が私には受け入れやすい議論である。
 むろん私などが議論にかみ合う能力も研究もしていないので、何事も云える立場ではないのだが‥。そして中村元氏の「信」という立場が見えない議論の方が、信仰とは遠い地点にいる私などには嬉しい。すくなくとも私にはそのように思われた。


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「初期仏教」(岩波新書)ほか

2018年08月27日 16時21分30秒 | 読書
退職者会のニュースの原稿を印刷所に送信完了。予定より3日ほどはやく終了。ホッとしている。あとは校正刷りが出来上がるのを待つばかり。
さっそく神奈川大学の生協まで歩いて、岩波新書の「初期仏教」と「原民喜」を購入。
しかし暑い。
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読了「ベラスケス」(岩波新書)

2018年08月25日 17時30分48秒 | 読書


 「ベラスケス 宮廷の中の革命者」(岩波新書、大高保二郎)をようやく読み終わった。研究者としての著作だけに、歴史的な記述などが細かである。私なりの鑑賞の手引きとしてはなかなか手ごわかったが、ベラスケス理解の基本的な知識を得るにはもってこいの著作であると思った。



 「ラス・メニーナス」(1656、ブラド美術館)とは「若い侍女たち」の意。著者は「フェリペ4世の家族」としている。
 この絵は私にはいくつもの?がならび、いつも敬遠しがちであった。解説本を見てもいつも?は解消されず、イライラしていた。今の本では、少し理解ができたと思った。それでもいくつかわからないことがある。このことはいつかまた取り上げたいものである。


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「モネ それからの100年」展 2

2018年08月19日 17時56分26秒 | 読書




 「モネ それからの100年」展の第2章で最初に展示されているのが、「セーヌ河の日没、冬」(1880、ポーラ美術館)。
 最初の妻のカミーユが亡くなった翌年、セーヌ河が凍結するという大寒波がヨーロッパを襲い、多くの画家が描写をしている。この作品、カミーユの死から画家の回生の作品と云われている。結氷と解氷、あわせて20点の作品に没頭するモネに「回生」の契機を求めるという解釈の当否は別として、そのエネルギーには驚く。
 なお、この作品や「印象 日の出」、「黄昏 ヴェネツィア」、「ジヴェルニーの積みわら、夕日」などのあの橙色が美しい作品はいづれもスキャナーでの取り込み・再現がとても難しい。自動補正でも手動補正でも色合いがどんどん原作から離れていく。機械処理がとても難しい。これもモネの色彩感覚のすごさなのか、と驚いている。



 この作品は「チャリング・クロス橋」(1899、メナード美術館)。1899年から1901年にかけて断続的に倫敦に滞在し、フランスにもどっからも作品を仕上げているとのこと。解説によると画家は「私が失敗したのは、仕上げのタッチを加えるのにこだわった点です。最初のいい印象があっという間に消えてしまったのです。‥自分の力のなさにうんざりしました。」と記しているとのこと。だが、私はこの手の色彩感覚がとでも気に入っている。いかにもモネらしい画面が印象に残っている。霧の中で太陽の光が踊る雰囲気、特に煙が印象的である。
 この第2章には影響を受けた作家として、写真のエドワード・スタイケン、ウルフレッド・スティーグリッツ、画家のマーク・ロスコ、モーリス・ルイス、ゲルハルト・ペインティング、松本陽子、根岸芳郎、水野勝規、丸山直文などの作品が展示されている。



 スタイケンの写真は、歳の中の霧・水・水蒸気などをキーワードにモネとの共通の感覚というものを実感した。しかし私はまさかロスコの作品「赤の中の黒」(1958、東京都現代美術館)がここに取り上げられるとは思ってもいなかった。これは今回の解説の記事をじっくりと今後咀嚼してみようと思った。解説では「ロスコの絵画の茫洋とした瞑想的ヴィジョンの源泉に、彼にとっての原風景であるロシアやポーランドの夕日の康慶があることを指摘する向きもある。その繊細な色層の向こうから溢れ出てくるような光の感覚には、モネの作品、とりわけロンドンの連作との相関性を見出せよう。」とある。
 客観的な解説以外はあまり参考にしないものの、ロスコとモネの関係については心にとめておこうと思った。



 松本陽子「振動する風景的画面Ⅲ」(1993、倉敷市立美術館)は既視感のある作品である。具象から抽象への過程に着目して、モネの位置が見えてくるような気がしている。(ここは思い付きの独り言)
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「しのぶ・あだたらのむかしばなし」から 4

2018年08月15日 17時07分44秒 | 読書


 全体で30の昔話のなかで、25番目にのっているのが「鈴の鳴る石」。他の昔話では他の地方に類型の話があったり、さまざまな○○譚などがあり、楽しい本である。この「鈴の鳴る石」はお話としては、どのような類型になるのかは想定もつかなかった。しかし現在の心性にもつながる印象的な話だと感じた。
 鈴が鳴るような微かな音がするという山の上の大石、それは当然周囲が削られて残った石なのだが、どこからか飛んできた石に思える、というのは普遍的な発想である。誰もが小さい時にそんな石を見たことはありそうだ。
 ここで私が共鳴したのが、微かな音、であること。風が吹いて大きく鳴る石ではなく、それとなく聞こえる微かな音、これが読む人の心をまず惹きつける。大きな音ではいけないのである。かすかな音であるから人々が興味を示す。もともと「タブー」とは些細なことなのだが、それが独り歩きすることでいつの間にか、人びとの意識の上に重くのしかかってくるものである。そして「タブー」はいかにも重要なことのように思われてしまう。
 さらにその石と音のいわれが、奉公娘が苦労の果てに「このまま何も考えないでここにいたい」という心性に基づき、娘が石になる。奉公先にも、郷里にも、家族にも心を寄せることができずに、このままこの世から消えてしまいたいという心持ちは多くの人が現在も持っている。否、実に現代的な心性でもある。
 切羽詰まったとき、迷ったときの心性は「このまま何も考えないでここにいたい」と「ころりと横になって」そのまま動かずに永遠のときを過ごしたい、と私も幾度思ったことであるか。ふとそんな自分を思い出させる。この多くの人にとって共通の心性がいつの間にか、大石の「タブー」への変貌する端緒もここで示される。
 さらに「若者」が石の中に誰かいると思い、この石を石目に沿って割ってしまう。その心性もまた私にはよく理解できる。「何が起こるかわからない」という恐れから、些細なタブーを作り上げてしまう意志に人は興味をひかれ、そしてそれを暴きたくなる。私は「暴きたくなる」心性そのものである自分を心の底から好きである。しかし歳とともに行動には慎重になる。そしてこの若者が羨ましい。好きであるが、行動に移せない自分が常にもどかしい。
 タブーなどというものは暴いてみれば、たいして何もないのだ。だから若者はガッカリして石を見つめ、「いったいなんだったのかなぁ」となり、「それっきり石は音をださなくなった」のである。
 だが、タブーを知りたかったのは若者だけではなく、村人も同じであった。ここでタブーを破った若者が何かに罰せられるか、逆にタブーを破ることに臆病だった村人を復讐するか、の後日談がないのもまた、語り継ぐ人ないし筆記した人の「タブー」になっているのかもしれない。

 なお、このさとうてるえさんの挿し絵、若者にクローズアップしたものではなく、多くの村人が聞き耳をたてているところが、私の上の書き方に即していると感じて、気に入っている。

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昨日読んだ本「絵画資料で歴史を読む」(黒田日出男)

2018年08月14日 17時49分51秒 | 読書


 昨日会議と会議の合間に組合の会議室で読み終わったのが、「増補 絵画資料で歴史を読む」(黒田日出男、ちくま学芸文庫)。いつものとおり覚書として。

「歴史とはイメージ豊かな世界であるはずです。私は、日本史をイメージ豊かな世界として読み解き、そして描き出そうと考えたのです。‥1970年代には、日本の歴史学は「資料学の時代」に突入していきました。文献資料だけが「資料」であるような時代は終わり、従来の歴史学が少しも関心を払わなかったさまざまな「資料」によって、多彩な歴史連休が行われるようになってきたのです。私の試みも、そうした「資料学の時代」にふさわしい歴史研究ということになったのでした。‥本書の絵画の読み方は、あくまで歴史家のものであり、もっと限定すると日本史家のものです。‥また、絵画に対して、美術的に鑑賞・批評したり、「資料」として読んだりと、重層的ないし多重的に向き合って楽しんでいます。」

 初めて黒田日出男の著作を読んだ。情けない話ではある。大変刺激的な著書である。
 ただし文庫本の制約があり、絵画資料が豊富に印刷され出いるのだが、小さすぎで、読み込めない。拡大鏡を使って難しい。そこのところが極めて残念であった。


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「魂の3時間大演説」

2018年08月13日 09時10分09秒 | 読書
   

 昨日購入した本は今話題となっている、「枝野幸男、魂の3時間大演説-安倍政権が不信任に足る7つの理由」(ハーバー・ビジネス・オンライン、税込745円)。
 なかなか手に入らないようだが、昨日有隣堂にはだいぶ置いてあった。国会演説には著作権はないそうなので、党にも枝野代表にも実入りはないのだそうだ。
 読みかけの本、読まなくてはいけない本は大量に机の上にあるのだが‥。
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