なあむ

やどかり和尚の考えたこと

義道 その11

2021年03月24日 05時00分00秒 | 義道
宿用院時代

当初、英照院に住みながら宿用院の住職を務めるという計画だったが、住職と監寺の責任の重さと愛着を測ればどうしても住職地に重心がかかってしまい、英照院の方は1年余りで辞任させていただくことになった。
河北町谷地の宿用院は600年の歴史がある寺で、4年前に亡くなった先住市川清矩大和尚は、28年間河北町長だった人であり、また曹洞宗宗議会議長も務めた有徳の住職だった。その分、一般の檀家からすれば近寄り難い部分があったかもしれない。そこに、20代の住職家族が生後間もない子供を抱いて寺にやってきたので、みんな興味津々で様子を見に来た。何も知らない土地で住職の経験もない状態だったので、こちらも関心をもって檀家と接してきた。お陰で、120軒ほどの檀家の家族構成、顔名前、親戚関係までほとんど頭に入っていた。
新しいことを何か始めても喜んで協力してくれ、応援してくれた。
手始めに寺報月刊「なあむ」を発行した。これは松林寺で先行した寺報「いちょう」を追いかける形でスタートさせた。宿用院の役員さんが毎月檀家に配布してくれた。また門前の掲示板に毎月仏教の言葉を書いて張り出す掲示伝道を始めた。次いで月例の坐禅会、写経会を開始した。
教化研修所の時代、中野先生に、「寺に人を寄せるには何がいいですかね」と聞いたことがあった。先生は「それは祭りがいいよ、10年やれば伝統になるよ」と教えてくれた。その教えを実行したのが「宿用院地蔵まつり」だった。野ざらしの石地蔵に覆い堂を作りたいと発願し寄付を募って完成させた。その落慶式を盛大に挙行しイベントも行った。終わって「楽しいね」という声を待ってましたとばかりに「来年もやろう」と例祭にこぎつけた。それから毎年5月最終日曜日を定例として25回まで続いた。
おじいさんやおばあさんお母さんは寺に来るが最も来ないのはお父さん方だ、そのお父さんたちを集めるために結成したのが「宿用院羅漢クラブ」だ。その羅漢クラブが地蔵まつりを主催し、その流れで、新年会、花見、芋煮会、バーベキュー、旅行と、次々と企画してはとにかく飲んで楽しく過ごした。
研修所時代に少し法話の勉強をしていて、必修として布教師養成所にも出席していた。住職となり、大般若会・施食会などのお寺の行事で話すようになった。老人会や公民館行事などにも講話として呼ばれていた。しかし、浅い勉強と薄い知識の中で話をするのは穴あきダムのようなもので、すぐに底をついてしまう。もう一度勉強しなおさないと話ができないと思い、昭和62年(1987)から布教師養成に通い始めた。年3回で当初は1週間の日程だったが次の年から5日間になった。少し話せると思って高くなっていた鼻の根元から見事に刈られた。行くたびに落ち込み自己嫌悪に陥ったが、お陰で勉強させてもらった。
平成4年(1992)、本堂の柱が白蟻に喰われていることが分かり、土台を全て取り換える改修工事を行った。併せて平成5年に宿用院開創600年を迎え、その法要と初会結制を挙行し、記念誌『宿用院縁起』を作った。

河北町長の選挙にもかかわった。総代の一人が立候補し、当時の町政の事情もあり頼まれて掲示責任者を引き受けた。無事当選し二期目を迎えた時、事前の予想では無投票ということで、断り切れず現職の後援会長を引き受けた。その直後に立候補したのが、何ともう一人の宿用院総代だった。総代同士の一騎打ちでは、住職がどちらかの後援会長など務められないと退任を申し入れたが、選挙は既に走り出してしまっていて、辞めるに辞められない状況になってしまっていた。この事が宿用院時代で最も苦しい出来事だった。ありがたいことに、その後現職が当選してからは、ほとんどしこりも残らずどちらの総代も寺の運営を積極的に担ってくれた。

平成11年(1999)高木善之環境講演会「美しい地球を子どもたちに」が開催された。主催したのは環境NGO「ネットワーク地球村」の山形県会員が中心となった実行委員会だった。宿用院が事務所となり会員の一人だった私が実行委員長になった。河北町で一番大きな「サハトべに花」の大ホール定員800名に1100名が集まった。通路に立ち階段に座りステージ上にもパイプ椅子を並べたがそれでも入りきれずに帰った人がいて、ステージから眺めて思わず鳥肌が立った。その実行委員会の熱を次につなげていこうと結成したのが「河北町環境を考える会」だった。私が代表となり、毎年「100万人のキャンドルナイトin河北」を開催、講演会や研修会、宿用院を会場に毎月例会を行ってきた。会として東日本大震災の炊き出しにも何度か行った。お寺が環境問題の発信地になるべきと考え平成21年(2009)庫裡の屋根にソーラーパネルを設置した。

宿用院住職になる時、父親から「10年勤めてこい」と送り出されたが、なってしまえばそう簡単に辞めるわけにもいかず、結局27年住職を勤めた。
新米住職を暖かく向かい入れ、かわいがり、交流を深めた宿用院檀家衆の顔が次から次へと浮かんでくる。私にとっては家族同様のつき合いだった。

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