なあむ

やどかり和尚の考えたこと

義道 その16(最終回)

2021年04月28日 05時00分00秒 | 義道
忘れ得ぬ人々

誕生からこれまで生きてきた中で出会った人々は数えきれない。その中でも私が強く影響を受けた忘れられない人々も数多い。
家族親族は別として、小学校から教化研修所までの先生方。同級生。僧侶としての羅針盤であり娘の名付け親でもある恩師遠藤長悦師。師には仏教の親近感と温かみを学んだ。
ボランティア会の有馬実成師、松永然道師、両師には生きた仏教を学んだ。野村、八木沢、手束、佐藤各氏。カンボジアのトン・バン家族。永平寺役寮時代の本庄、西田、南の各同志。宿用院檀家の愛すべき人々。和田みさ子さんはじめ河北町環境を考える会のメンバー。まけないタオルのやなせさん、早坂師。兄弟の契りを結んだ清凉院三浦光雄師。そして中島みゆきさん。
鬼籍に入った方も多い。その誰一人がいなくても私はなかった。私という人間はこれらの縁によってできていた。いや、この縁そのものを三部義道と名付けてもいい。
仏教との出会いも大きかった。縁によって寺に生まれ、そのことで悩み、父を恨み反抗もしてきたが、それは仏の掌の上でのことだった。仏の縁の中に生まれたのだった。
和尚でなければ難民キャンプにも行かないし、永平寺にも行くわけがない。和尚でなければ三部義道はない。もし生まれたのがお寺でなければ進みたい道は明確にあった。建築設計士。それがだめなら大工、看板屋、ペンキ屋という順で希望があった。しかし、それはお寺を継がなければならない反発からの希望だったかもしれないし、もしそうなったとしても、そこに義道はいなかっただろう。義道は、和尚への反発によって和尚となった。
仮定やタラレバの話は結局は存在しない。今ここに在る人間だけが私なのだ。これまで出会った縁に感謝などしない。感謝するほど他人事ではない。私自身のことなのだから。

あとがき

自分という存在がいつ消えていくのか自分には全く分からない。徐々に消えていくならその準備もできるかもしれないが、一瞬のうちであることも十分にあり得る。だとするならば、できるうちに自分の生涯を記録しておきたいと思った。父の生涯については『千代亀』に書いた。子孫にその人生を残したいと思った。それなら自分のこともと考えた。
幸か不幸か令和2~3年はコロナ過において時間がたっぷりとれた。ので、つらつらと思い出しながら振り返ってみた。
20代のころから、自分が死ぬのは60歳だろうと想定していた。それ自体若気の至りだったと思うがその誕生日が近づいた頃はそれなりに緊張した。自分の想定に自分が縛られる自己暗示のようなものだった。その日を何ということもなく通過して、次の想定をしようとも考えたがバカらしくなってやめた。
「生死を生死にまかす」と道元禅師も言っている。元々自分にどうすることもできない命をどうにかできるように考えるのは愚かだ。ただ、準備だけはできる。「浜までは海女も蓑着る時雨かな」で、どうせ死ぬからと言って今日のいのちを粗末にするのは更に愚かだ。今日の生き方が明日を生むのだ。今日が最期の日だとすれば自分で納得のできる今日の生き方でなければならない。
ということで、その日の準備のためにこれを書いておいた。その時に、書いておけばよかったと悔恨を残すことのないように。これで終わるかもしれないし、さらに書き足すかもしれない。
振り返って、ここまでは、プラスマイナス比較して楽しい人生だった。人生を楽しいと振り返ることができるのは、社会的な時代背景にもよるだろうし、家族に突然の事故や深刻な病気など大きな悲劇がなかったことにもよるだろう。それはお陰様である。素直にありがたいと思う。
松林寺の内仏壇には過去帳が祀ってあって、毎日繰っては掌を合わせている。父親の先祖の二戸新七家、母親の両親、十和子の両親の他、これまでお世話になった上述した方々の戒名、さらには阪神淡路大震災、東日本大震災の物故者精霊もその日に記入してある。私に生ある限りその諸精霊と共に生きたいと思う。
もう「なぜここに居る」などとは考えない。居るべくして居るのであり、なぜ生まれたのかなどはどうでもいい。元々命は何一つ選べない。生まれる時代も社会環境も、親も親の職業も兄弟も、自分の顔も体も性格さえも選べない。学校も先生も同級生も自分では選べない。老いて髪の毛が白くなるのか抜けるのかも選べない。更には選ばないのに病気や災難はやって来る。そして死ぬことが、生まれることを選べないように選べない。生老病死何一つ選べない。選べない命をどう引き受けるのか、引き受けた命をどう使うのか、その覚悟だけが問われている。
毎朝顔を洗うように、なすべきことをなす。そこに「なぜ」と疑問を差し挟む意味はない。
今を生きる、ここを生きる。(了)