きのう書いた感想は「意味」にしばられすぎていたかもしれない。私は実は『ぼくの航海日誌』は好きではない。ただし、一か所だけ、とけも好きなところがある。1行だけ、とても好きな行がある。
「六月 すべてが美しすぎる」。そのなかほど。
アバよ カバよ アリゲーター
ここには「意味」はない。
というと、いいすぎになるかもしれないが、「意味」ではないものがある。「アバよ」はたしかに、その前の「ぼくは人間の皮とおさらばだ」と通い合っている。「おさらばだ」から、別れのことば「アバよ」が導き出されている。
「カバよ」は「アバよ」と音だけが通い合っている。そして「アリゲーター」は「カバ」とアフリカの動物という「意味」でつながる。「意味」でつながることで、逆に無意味になる。--その瞬間の音楽。これが好きなのだ。
ことばは「意味」になったり、「無意味」になったりして動いていく。その動きが、とても好きなのである。
あるいは、言い直した方がいいのかもしれない。
ことばが「意味」になろうとするとき、それを拒絶し、無意味に還元してしまう--その瞬間に、つかみどころのないエネルギーを感じ、そこに音楽の自由を感じ、そこ響きにひかれる、と。
1連目から振り返る。
春がきた 終末の春がひらく
破滅するために花が咲きみだれ 草木は
若葉から緑に 暗緑色の炎にかわる
桜の花はとっくに散ってしまったのに
桜の花の記憶がまったくない
これは不思議な夢を見ているようなものだ
昭和20年の6月。戦争の末期に感じている何か。不安。「破滅するために花が咲きみだれ」ということばのなかの「破滅するために」。特に「ために」ということばが、とても痛烈に響いてくる。どうしようもない暗さ。それが「花」といっしょにあること、「春」のいのちといっしょにあることの不思議さ。それは確かに「夢」なのかもしれない。
この1連目を受けて、2連目は、「意味」のなかへ、ぐいと入っていく。
過去も未来もない
「今」という点の連続
時間が「時・間」にならない。「間」が欠落する。それは昭和20年の「意味」であったかもしれない。いや、あったにちがいないと思う。
だが、こういう「意味」のなかに意識が進んで行くと、「人生」が「意味」そのものになっていくようで、とても重苦しい。
「意味」はさらにつづいていく。
過去も未来もない
「今」という点の連続
その点と点をつなぐ糸はからまり ぼくの指では
ほぐせない
糸がもつれ からまっているうちは
ぼくは人間の皮をかぶっていられるのかもしれない
「時間」と「人間」。「今」、ここに存在すること。存在させられること。そこから「意味」は幾つでも出てくるだろうと思う。任意に「意味」が捏造できるだろうと思う。だからこそ、それを田村は一気に破壊する。
アバよ カバよ アリゲーター
この音楽は、私には「アバよ カバよ ありがたや」にも聞こえる。「ありがたや」は「ありがたや」で「意味」になるかもしれないけれど、「アバよ」「カバよ」という音の連続に影響された、「アリゲーター」「ありがたや」という無意味な音の重なりによって「意味」が笑われると思う。
「笑い」というのは、「意味」の拒絶、拒否であると思う。
こういう「笑い」をくぐり抜けて、田村は、2連目で書いた「過去も未来もない/「今」という点の連続」という昭和20年の「意味」から遠ざかる。そして、昭和20年の「肉体」になる。その部分が、また、非常に美しい。
この年の春から初夏にかけて
ぼくは不思議な夢ばかり見ていた
桜の記憶もなければ
梅雨の記憶もない
雨にぬれる
という人間的感覚を失ってしまったのか
この「雨にぬれる/という人間的感覚を失ってしまったのか」で、私は、ふるえる。あ、人間は「肉体」であると同時に「自然」なのだ、ふいに気がつく。「自然」と常に「交感」しているだ。
この感動が、最後の3連で、もう一度強烈によみがえってくる。
夜は
「線の行者」村上華岳の芸術論を読んで
すべてが美しすぎる という
破滅の意味を体験する
夢がない
こんな夢を見たのは生まれてはじめてだ
20世紀詩人の日曜日田村 隆一マガジンハウスこのアイテムの詳細を見る |