詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎「記憶と記録」

2013-02-05 09:45:45 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「記憶と記録」(朝日新聞2013年02月04日夕刊)

 谷川俊太郎「記憶と記録」は記憶と記録の違いについて書いている。俗に言う。長嶋茂雄(巨人の選手)は記録には残らないが記憶に残る。記憶とは感情の別称かもしれないね。谷川の書いているのも、それと似たことなのかな?

こっちでは
水に流してしまった過去を
あっちでは
ごつい石に刻んでいる
記憶は浮気者
記録は律儀者

だがいずれ過去は負ける
現在に負ける
未来に負ける
忘れまいとしても
身内から遠ざかり
他人行儀に
後ろ姿しか見せてくれない

 ふーん、そうか……。こんなふうに書くのか。うーん、あまりおもしろくないなあ。
 「浮気者」に対して「律儀者」が正直すぎるのかなあ。
 記憶が「浮気者」なら記録は「嫉妬深い(焼き餅焼き)」くらいの方がおもしろいかも。でも、「嫉妬深い」だと、「負ける」ということばにはつながらないか。
 「浮気者」は最初から勝負をしていないようだし、「律儀者」は、まあ、負けてしまうね。なんとなく、それが想像できてしまう。
 
 わかるけれど、なんとなく肩すかしを喰ったような気持ちになった。だいたい「わかる」ということがおもしろくないのかもしれない。わからないけれど、--つまり自分のことばで言いなおすことはできないけれど、それをそのまま「そうなんだ」と思えるのが「おもしろい」ということなんだと思う。この詩に対しては、そういう気持ちになれない。
 「記憶と記録」があまりにも簡単に(?)「過去/現在/未来」という「時間」のなかで語られていて、それがおもしろくなかった。
 谷川の詩を批判するというような機会はめったにないので、批判を書きたいなあ。
 そう思って書いている。

 長嶋は記録には残らないが記憶には残る--そういう「俗言」のなかには「真実」があると思う。「記録」は次々に更新されていく(あるいは追加されていく)。そのために「残らない」ということがある。
 ところが「記憶」というのは更新されない。いつでも「いま」でしかない。「記憶」には「過去」がない--と書くと、「過去のことだから記憶というのだ」と言われそうだが。
 たしかに「記憶」は「過去に起きたこと」についての「記憶」なのだが。
 これを「記憶する」ではなく、「思い出す」という「動詞」でとらえ直す必要があると思う。私たちは「記憶する」というが、この「記憶する」ということばは「未来」へ向けての動詞である。「覚える」というのは、いつでも「未来」だけを相手にしている。(「覚えておけよ」という乱暴ないい方もある。)「覚える」は「過去」を相手にしていない。「覚えて」、その「覚えたこと」を「つかう」ために「覚える」。
 「思い出す」も「過去」を「過去」として「思い出す」のではなく、「いま/ここ」でつかうために「思い出す」。「いま」を動かすために「思い出す」。思い出さないと「いま」が動かない。そういうときがある。
 「記憶」は時間を「過去-現在-未来」と線上に配置するとき「過去」に属するようにみえるけれど、それを「思い出す」瞬間は「いま」でしかない。10年前も20年前も「いま」思い出すとき、時間を失ってしまう。あるときに「起きたこと」を「思い出す」のである。
 長嶋が展覧試合でホームランを打ったこととか大事な試合でトンネルをしたこととか(ねじめ正一に聞いてみないとわからないが……)、それを「思い出す」(記憶を呼び戻す)とき、それはいつでも「いま/ここ」の興奮である。長嶋と観客が一体になる。その「こと」が「いま/ここ」で起きるのである。それが「思い出す」、「記憶」ということ。

 たぶん。

 たぶん、「記憶」というとき、私たちは「肉体」だけをつかう。それは「客観化」できない何かなのだ。
 「記録」ならたとえば谷川が書いているように「石に刻んで」記録するということができる。いまならハードディスクに、あるいはCDに焼いて云々。つまり「記録」は「肉体」ではなく、「肉体」の「外」にある。(肌に入れ墨をして「記録」するということもあるかもしれないけれど。)「肉体の外」におくことができる。「記録」は「外部媒体」である。
 ところが「記憶」というのは、あくまで「自分の肉体のなか」にあるもの。「肉体」といっしょに動いているものなのだ。それは「客観的」にみえてもぜんぜん客観的ではない。「主観的」でしかない。個人を離れて「記憶」は存在しない。
 「記録」はだれにでも共有できるが、「記憶」はそのひとにしか存在しない。たまたま「同時代」を生きると「記憶」が共有されるように感じるけれど、それは個人が「共有」するのではなく、「時代」が共有するのである。
 だから、私たちの世代が「長嶋があのときホームランを打って、感激したなあ」といくら真剣に話しても、そのとき生まれていなかった世代は、「だれ、それ? やっぱり興奮したのはイチローがホームランを打ったときだよなあ」というふうになってしまう。
 「時代(いま)」という「時間」があるために、私たちは「記憶」も「共有」されると思ってしまうが、それは「個人」によって共有されているのではないのだ。

 あ、だんだん、詩の感想ではなくなっていくなあ。
 まあ、しようがない。
 私は「詩の感想」を書いているのではないのだろう。それはいまにはじまったことではなく、ずーっとそうだったのだと思う。一度も詩の感想を書いたことがないのかもしれない。

 でも、詩に戻ると。
 私は「記憶と記録」には谷川の「肉体」を感じないのだ。あるいは、そこには私の知らない「肉体」があるのかもしれない。
 「他人行儀」ということばが出てくるが、この詩は「他人行儀」である。
 すっきりしている。
 「意味」は全部、わかる。
 たしかにどんなに「忘れまい」としても「忘れてしまう」ことがある。「忘れてしまう(忘れてしまった)」ということさえ「忘れる」ということだってある。そのとき「思い出」の「後ろ姿」を私たちは見るしかないのかもしれない。
 けれどねえ。
 何か違うと思う。
 思い出そうとして思い出せない「いらいら」。そういうものが「忘れる」と一体になっている。その感じが、谷川のことばから消えている。
 何か「他人行儀」である。「いま/ここ」が他人行儀である。好きになれない。引き込まれない。そして、とても淋しい気持ちになる。

 詩のことばには、いつでも「身内」であってほしいなあ。「肉体」であってほしい。
 「こっち-あっち」「水-石」「浮気者-律儀者」「過去-未来」「身内-他人(行儀)」という「対」の構造だけが整然としているのも、窮屈すぎるなあと思う。
 「身内-他人」ではなく、他人に「行儀」がついているように、この詩は「行儀」が余分なのかもしれない。「行儀」が悪くても、そこに「肉体」があれば、それは魅力的なのではと思うのである。








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