詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

『田村隆一全詩集』を読む(113 )

2009-06-12 00:50:54 | 田村隆一
 詩は論理ではない。だから、厳密に「意味」を追いかけても仕方のないところがある。詩人自身、ことばが引き寄せるものを「意味」を特定せずに「肉体」で引き受けている。そこには「意味」のようなものはあっても、厳密な「意味」はない。「意味」を超えるイメージの特権がある。
 「黒」。その後半。

速めろ! テンポを
屋上で風に吹かれながら男が叫んでゐる 全世界にむかつて
男の指令が階上を駈けまはる 部屋から部屋へ ドアからドアへ そして
あわただしく街から街へと……
おまへの指が僕の背中のドアをひらく!
どうか本当のことを言つてくれ 僕の階段は何処へ果てようとしてゐるのだ
重なつてくる おまへの唇が僕の唇に ああ この不眠都市!

 「重なる」。「唇」が「重なる」。それは、「ことば」が重なるということだ。「ことば」が重なれば、そのときから「僕」と「おまへ」(男)は区別がなくなるが、「重なった」から区別がなくなったというよりも、最初から区別などない。屋上で叫んでいる男は最初から「僕」だったのだ。「僕」からでていった「男」が、「唇」が「重なる」ことで「僕」に帰ってきたのだ。
 「僕」を出入りする「男」(おまへ)というイメージが鮮烈にある。そして、それは「意味」ではない。「意味」にならない何かであり、そこでは、ことばがただ動き回っているだけなのである。何か、「意味」を超えるもの、つまり「意味以前」、これから新しい「意味」になろうとするものをつかみ取ろうとしている。その運動である。そのエネルギーこそが、ここに「ある」と言えるものなのだ。
 詩のつづき。

……だが眼はひらかれて だが耳をそばだてて 男の息は絶えてしまつてゐた
手も足もこの男の言ふことをきくときは もうあるまい
ひらかれた男の眼底に いまとなつてどのやうな面影がたづねてくるか
そばだてた男の耳に誰が囁くか 高価な言葉を
ふたたび夜がきた
僕らは一層不機嫌になつてしまふ
無言でドアから出て行かうよ 僕たちは……
しかし どうにも言葉が僕らからはみだして困るのだ
もとのところへ還らうとしない出発してしまつた言葉!

 「男」が死んでしまっても「僕」は「僕ら」(僕たち)のままである。
 そして、前の連で重なった唇--ことばは、最後に「主語」になっていく。ことばは自律運動をする。
 「どうにも言葉が僕らからはみだして困るのだ/もとのところへ還らうとしない出発してしまつた言葉!」は田村自身なのだ。もう、田村は田村へもどれない。「男」は死んだ。その死んだ男がかつての田村である。いま、田村は、その死を見届けて、田村からはみだしてゆく。自分自身を「殺し」ながら、はみだしていく。出発点の「僕」は死んでしまっているのだから、もちろん「もと」へは「還る」ことはできない。
 そんな運動をするのが「詩人」だ。




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田村 隆一
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1 コメント

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田村隆一全集を読む「113」 (大井川賢治)
2024-03-01 13:23:49
いいですねえ~このハードボイルド。寂寞燗。しかし、この世から離れられない、この世への未練。やっぱ、田村隆一はいいなあ^^^
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