「前川抹殺事件」その3
自民党憲法改正草案を読む/番外80(情報の読み方)
読売新聞2017年06月02日朝刊(西部版・14版)の4面に小さな記事が載っている。
この記事には驚くべきことが書かれている。
読売新聞が安倍の発言を知ったのはいつか。「1日、ニッポン放送のラジオ番組収録で」「批判した」とある。放送はいつか。まだ放送されていない内容が、読売新聞に書かれている。「1日のニッポン放送によると」ではない。
これは、とてもおかしい。ニッポン放送が放送前の情報を読売新聞に提供したということだ。報道機関がこういうことをするのは異常ではないだろうか。突発事故が何か起きて、収録したけれど放送されない番組もある。放送に先立ち、新聞が内容を伝えるのでは、放送の意味がないだろう。ニッポン放送は「詳しくは読売新聞の報道を読んでください」とでもいうのだろうか。
「なぜ反対しなかったのか」ではなく、「なんで反対しなかったのか」と口語そのままを再現しているところをみると、ニッポン放送は「収録音源」を読売新聞に提供している。「収録音源」を読売新聞に提供するという「了解」をとって取材したのだろうか。
報道機関というのは、それぞれ独立しているはずである。同じ事件でも報道機関によってとらえ方が違うということがある。だからこそ複数の報道機関が存在する意味もある。同じ「意味」、同じ「解説」では、複数存在する存在理由がない。ニッポン放送は、自らの首を絞めている。
安倍の批判内容はすでに世間に流布しているものと同じである。「(現役時代に)なんで反対しなかったのか」。まっとうな批判のようだが、現役時代に反対できないことはいくらでもある。反対できない事情はいくらでもある。「降格されるといやだなあ、首になると困るなあ」という個人的な事情も入ってくる。「正義のため」という理由だけですべての人が行動できるわけではない。
現役時代は反対できなかった、反対しなかったが、現役を離れたので、かつての行為を反省し、明らかにする、ということは別におかしいことではない。反省する、反省した過去の過失を明らかにするというのは、批判されるべきことではない。間違いに気づいて、その間違いが過去のことだから言わないという方がおかしくないか。ひとが正しいことをするのに「遅い」ということはない。
読売新聞の記事はさらに書いている。
これも、「組織」としては不可能だろうなあ。
「反対」と言おうとしても、「一緒に」行くはずの大臣が押しとどめるだろう。「きみが直接首相にいうようなことではない」とか。「直属の上司である私に言え。その意見に納得すれば、私が首相に言う」と大臣は言うだろう。
安倍だって、「その話は直属の上司と十分に話し合え。十分に話し合った結果なのか」と叱り飛ばすだろう。
だいたい次官が安倍に直接反対を言えるような開かれたシステムになっているのか。
問われているのは、システムそのものなのだ。個人の意見が反映しなくなっている安倍独裁が問われているのに、「直接言え」というのは問題のすりかえである。
今回の「前川事件」で問題なのは、菅が情報提供し、読売新聞が書いた前川についての記事が「誤報」ではないということだ。前川が出会い系バーに出入りしていたということは「事実」。前川も認めている。ただ、その「事実」は真相の一部しか伝えていない。前川がそこで何をしたのか。それを読者の「想像力(妄想)」に任せてしまっている。その想像力が間違っていたとしたら、「訂正」すべきは記事ではなく、読者自身の想像力であるという「論理」(屁理屈)が成り立つ。そういうところで、前川批判が動いている。
自民党憲法改正草案を読む/番外80(情報の読み方)
読売新聞2017年06月02日朝刊(西部版・14版)の4面に小さな記事が載っている。
加計学園問題で首相、前川前時間を批判/現役時「反対なかった」
安倍首相は1日、ニッポン放送のラジオ番組収録で、学校法人「加計学園」(岡山市)の獣医学部新設計画を巡り、早期開学を「総理の意向」とした文書が存在していたと明言した前川喜平・前文部科学次官について、「(現役時代に)なんで反対しなかったのか不思議でしょうがない」と批判した。
この記事には驚くべきことが書かれている。
読売新聞が安倍の発言を知ったのはいつか。「1日、ニッポン放送のラジオ番組収録で」「批判した」とある。放送はいつか。まだ放送されていない内容が、読売新聞に書かれている。「1日のニッポン放送によると」ではない。
これは、とてもおかしい。ニッポン放送が放送前の情報を読売新聞に提供したということだ。報道機関がこういうことをするのは異常ではないだろうか。突発事故が何か起きて、収録したけれど放送されない番組もある。放送に先立ち、新聞が内容を伝えるのでは、放送の意味がないだろう。ニッポン放送は「詳しくは読売新聞の報道を読んでください」とでもいうのだろうか。
「なぜ反対しなかったのか」ではなく、「なんで反対しなかったのか」と口語そのままを再現しているところをみると、ニッポン放送は「収録音源」を読売新聞に提供している。「収録音源」を読売新聞に提供するという「了解」をとって取材したのだろうか。
報道機関というのは、それぞれ独立しているはずである。同じ事件でも報道機関によってとらえ方が違うということがある。だからこそ複数の報道機関が存在する意味もある。同じ「意味」、同じ「解説」では、複数存在する存在理由がない。ニッポン放送は、自らの首を絞めている。
安倍の批判内容はすでに世間に流布しているものと同じである。「(現役時代に)なんで反対しなかったのか」。まっとうな批判のようだが、現役時代に反対できないことはいくらでもある。反対できない事情はいくらでもある。「降格されるといやだなあ、首になると困るなあ」という個人的な事情も入ってくる。「正義のため」という理由だけですべての人が行動できるわけではない。
現役時代は反対できなかった、反対しなかったが、現役を離れたので、かつての行為を反省し、明らかにする、ということは別におかしいことではない。反省する、反省した過去の過失を明らかにするというのは、批判されるべきことではない。間違いに気づいて、その間違いが過去のことだから言わないという方がおかしくないか。ひとが正しいことをするのに「遅い」ということはない。
読売新聞の記事はさらに書いている。
首相は、「前川氏は私の意向かどうか確かめようと思えば確かめられる。大臣と一緒に私のところに来ればいいじゃないですか」とも語った。
これも、「組織」としては不可能だろうなあ。
「反対」と言おうとしても、「一緒に」行くはずの大臣が押しとどめるだろう。「きみが直接首相にいうようなことではない」とか。「直属の上司である私に言え。その意見に納得すれば、私が首相に言う」と大臣は言うだろう。
安倍だって、「その話は直属の上司と十分に話し合え。十分に話し合った結果なのか」と叱り飛ばすだろう。
だいたい次官が安倍に直接反対を言えるような開かれたシステムになっているのか。
問われているのは、システムそのものなのだ。個人の意見が反映しなくなっている安倍独裁が問われているのに、「直接言え」というのは問題のすりかえである。
今回の「前川事件」で問題なのは、菅が情報提供し、読売新聞が書いた前川についての記事が「誤報」ではないということだ。前川が出会い系バーに出入りしていたということは「事実」。前川も認めている。ただ、その「事実」は真相の一部しか伝えていない。前川がそこで何をしたのか。それを読者の「想像力(妄想)」に任せてしまっている。その想像力が間違っていたとしたら、「訂正」すべきは記事ではなく、読者自身の想像力であるという「論理」(屁理屈)が成り立つ。そういうところで、前川批判が動いている。
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