きぼう屋

生きているから生きている

和解と癒し その4

2010年10月11日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「和解と癒し その4」

世界教会協議会(WCC)の研究
「和解と癒し・21世紀における世界の伝道・宣教論」の述べられているところから、
本日分かち合いたいテーマ。

「グローバリゼーションの結果、
多くの人が家族や地域的基盤を失い、移民とならざるを得ないのに、
入国拒否がいたるところで起っている。
多くの人が帰属できる共同体を必要とし、支援を必要としている。
この状況の中で、
私たち教会は和解と癒しの共同体であるよう神に呼び出されている」。

上述からわかることは、
教会は和解と癒しの共同体であるべきということだ。

そこで私たちは問われる。
当教会をはじめ、教会がそうであるかどうか、を。

まずは単純に記憶を呼び起こしつつ、
教会で起った和解を覚え、また和解されていないことを覚えたい。
教会で起った癒しを覚え、同時に癒されていないことを覚えたい。

さらに、和解と癒しは、
常に新しく教会に飛び込んでくる他者に開かれており、
その他者に全身全霊が向かっており、
その他者のために行為が選ばれており、
その他者を愛するというところで起こされることを覚えたい。

つまり、
教会は他者との出会いを心底主のわざとして喜び受けているか、を確認したい。

さらに、
教会に新たに飛び込む他者は、
帰属する場所、帰ることのできる場所を
意識的、無意識的に求めて教会に来られることを、
すでに教会家族とされている者は知らねばならない。

彼らは、
言葉を聞いてくれる人を必要とし、
共にいてくれる人を必要とし、
助けてくれる人を必要とし、
愛してくれる人を必要としている。

そして同時に彼らは、
言葉を聞くことを必要とし、
共にいることを必要とし、
助けることを必要とし、
愛することを必要としている。

実に彼らは
教会にすでに集う者と同じ事柄を必要とし、
全ての人間に必要なことを必要としている。

ただ、その緊迫感は圧倒的に異なる。
私たち教会は、
人間が本来必要とする事柄を
命からがらに求めている新たに教会に飛び込む他者を通して、
本当に必要なことが何であるか、

常に目覚める。

だから、
教会は国家のように閉じこもってはならないし、閉じこもることはできない。
教会は何が何でもキリストにおいて全ての人に開かれている。
これが主の奇跡。
それもキレイな言葉としてではなく、ぐちゃぐちゃの現実として開かれている。

新たな他者と
「キリスト」という理由のみで
同じ家に住む家族同様の(本来はそれ以上の)近しい関係に
覚悟を決めてなること
を主から受け取ることがゆるされている。

このぐちゃぐちゃこそが、和解であり癒しだ。

京都教会は、和解と癒しの共同体である。