きぼう屋

生きているから生きている

バプテストなのです

2010年10月25日 | 教会のこと
今週の週報巻頭言です。

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「バプテストなのです!」

先週の礼拝は、
私(牧師)が他教会での説教奉仕のため、牧師不在の礼拝となりましたが、
しかし、たくさんの方々から礼拝が祝された喜びを伺い、
私は主と教会の交わりに心から感謝いたします。

F姉の証、I姉の子どもメッセージ、青年有志による讃美の証のいずれもが、
教会家族という交わりの中で育まれた信仰(=神の働きへの委ね)から生まれたものであると私は確信します。

実はバプテスト教会は、
丁寧な交わりの中で丁寧に共に歩むところから育まれる丁寧な信仰を大切にしている教会です。

それは、
国家そのもの、あるいは国家の従属機関だった教会がお上として発令する信仰ではなく、
また、権力と権威を有する牧師の命令する信仰ではなく、
それに抗する歴史から生まれたところの、
共に祈り、礼拝し、証をする中で、
その中心におられる主イエスによって育まれる信仰です。

それが私の赴任後に最も豊かに現われたのが先週の礼拝だったのだろうと思います。

そしてぜひとも今後もみんなで互いに証をする教会とされ続けたいと思います。

そしてそのためのポイントは、
聖書が語るところの教会の交わりとして、
つまりキリストの体として、生きることであり、
それこそが救いであり解放であり幸福であることを
繰り返し経験することです。

そしてその経験がおのずと証を産み出します。

さて、私は赴任後、
私たち京都教会がキリスト教会とされることを目指してきました。
そして今それは実を結んでいる認識します。
つまり礼拝に参加する訓練からはじまり、
教会学校や委員会など、教会の交わりのかたちをつくるなかで、
具体的な交わりがあちこちで起こされ、
共に祈り、礼拝し、証をすることが起っています。

そして私は、
今後5年で私たち京都教会がバプテスト教会とされることを目指したいと思います。
それは、ますます交わりの中からすべてが生まれることを目指すことです。

まずは、献金の恵みを頂く訓練がはじまりつつあります。
献金は具体的な交わり抜きには成り立ちません。
共に生きる交わりを知るときに、
その中心の主のために、
そして共に生きる他者のために、
その交わりのために、
献金をささげることが起こされます。

そしてさらに、
牧師主導ではなく、交わり主導(=その中心の主イエス主導ということ)による
礼拝、祈祷会、教会学校、執事会、委員会を目指したいと思います。

つまり、それぞれの理念決定、作業選択、奉仕、反省にいたるまで、
またできれば活動のための会計も、
そのチームで担うようになるということです。

そしてそのためには、
自分のイメージではなく、
交わりの中で生きる中から生まれるものを大切にすることが大事です。
そこに主イエスが生まれるわけですから。

そして牧師は
その活動の中で行き詰ったときなどに
カウンセリングをなし、聖書を解き明かし、祈る者として存在できればなによりです。

これからは「バプテスト」を意識し、またそれについて学んでいきたいと思います。