朝明けに

聖書のことばから、うれしい一日一日の糧を!

愛が心に満ちるのだそうです。聖である霊と呼ばれる方の愛が。

2016-01-18 23:27:30 | 聖書から
あなたたちの神、主を試してはならない。申命記6:16




イエスの言葉:

あなたがたは、

 わたしを愛しているならば、

  わたしの掟を守る。ヨハネ14:15




      (ローズンゲン日々の聖句1/19;火)




 エジプトを脱出したイスラエルの民は、荒野で水がなかったとき、

「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。

私や、子供たちや、家畜を、渇きで死なせるためですか」とモーセに迫り、

主は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、

主を試みた(出エジプト17:7)のだそうです。







 詩篇78:18~22には、次のように記されています。

「彼らは欲するままに食べ物を求め、

心のうちで神を試みた。

そのとき彼らは神に逆らって、こう言った。

『神は荒野の中で食事を備えることができようか。

確かに、岩を打たれると、水がほとばしり出て、

流れあふれた。

だが、神は、パンをも与えることができようか。

ご自分の民に肉を備えることができようか。』

それゆえ、主は、これを聞いて激しく怒られた。

火はヤコブに向かって燃え上がり、

怒りもまた、イスラエルに向かって立ち上った。

これは、彼らが神を信ぜず、

御救いに信頼しなかったからである」と。



 イスラエルの民は、水がなくて困ったとき、

天の神、主に、「助けてください」とお願いしていく代わりに、

神が答えるかどうか、今度も、つぶやいてみてやれ、逆らってみてやれと、

モーセに逆らったようです。






 愛、人間の愛は、情に絡めて、相手を自分の思いに従わせようとするようです。

本当の愛は、相手の思っているとおりになりたい、

相手の思っていることが成るように、と願うようです。



 だから、イエスを愛しているなら、

イエスが思っておられるとおりになりたいと願うのですね。

何をしなさい、何をしてはならないという前に、

愛しているかどうかが問題のようです。



 「聞け、イスラエルよ。

我らの神、主は唯一の主である。

あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、

あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:4)

と言われるわけですね。

今日も。











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栄光の御座に、共に座らせていただけるのだそうですね。信頼してついていく者は。

2016-01-18 07:35:32 | 聖書から
主は、海の中に道を通し、

 恐るべき水の中に通路を開かれた方である。イザヤ書43:16



恐れることはない。

 ただ信じなさい。マルコ5:36



      (ローズンゲン日々の聖句1/18:月)



 海の水を分け、

エジプトから出て来た民を、乾いた地を行くように渡らせられた方が仰せられるのですね。

「先の事どもを思い出すな。

昔の事どもを考えるな。

見よ。わたしは新しいことをする。

今、もうそれが起ころうとしている。

    ~~~

わたし、このわたしは、わたし自身のために

あなたのそむきの罪をぬぐい去り、

もうあなたの罪を思い出さない」(イザヤ43:18~19、25新改訳)と。



 そのために、父である神と呼ばれる方は、

独り子である神と呼ばれる方を、人間イエスとして人の世に生れさせられたのだそうです。



「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、

輝きもなく、

私たちが慕うような見ばえもない。

彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、

悲しみの人で病を知っていた。

人が顔を背けるほどさげすまれ、

私たちも彼を尊ばなかった。



まことに、彼は私たちの病を負い、

私たちの痛みをになった。

だが、私たちは思った。

彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

しかし、彼は、

私たちのそむきの罪のために刺し通され、

私たちの咎のために砕かれた。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、

彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

私たちはみな、羊のようにさまよい、

おのおの、自分かってな道に向かって行った。

しかし、主は、私たちのすべての咎を

彼に負わせた。



彼は痛めつけられた。

彼は苦しんだが、口を開かない。

ほふり場に引かれて行く羊のように、

毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、

彼は口を開かない。

しいたげと、裁きによって、彼は取り去られた。

彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。

彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、

生ける者の地から断たれたことを。

彼の墓は悪者どもとともに、設けられ、

彼は富む者とともに葬られた。

彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが」(イザヤ53:2~9)。



 イザヤによって預言されたこの預言のとおりに、

700年ほど後に生れたイエスは、

人々からのけ者にされ、さげすまれ、

ローマからのユダや総督ピラトの裁判においても、

ピラトが不思議に思うほどに、ひと言の抗弁もせず、

黙ってこれを受けられ、

十字架刑で処刑され、

死亡確認のためにローマ兵によって槍で突き刺され、

ユダヤ最高議会の議員の一人であり、富む者であった、

アリマタヤのヨセフが自分のために掘っておいた墓に葬られたのですね。



 このイエスに信頼していく者は恥を受けることはないのだそうです。

三日目に墓より復活し、

40日にわたって何度も弟子たちに現れて教えられ、

弟子たちの見ている前で、

オリーブ山から天の御父の右の座に帰られた

イエスは言っておられます。

「勝利を得る者、わたしに信頼してついて来る者を、

わたしとともにわたしの座に着かせよう。

それは、わたしが勝利を得て(御父の御思いに従い通して)、

わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである」(黙示録3:21)と。

今日も。









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