葬儀屋日記 byノブアキ

つれづれなる葬儀屋さんの日記です

タモリさんの弔辞の構造(赤塚先生の葬儀にて)

2016年08月01日 | 葬式豆知識

何回か前の動画で弔辞の構造をやりました

そこでカッコいい弔辞を読むために有名なタモリさんの弔辞を

題材に弔辞の研究をしてみようかと思います

 

ではタモリさんの弔辞を分割して解説しながら

見てきます

 

弔辞

 8月2日にあなたの訃報に接しました。6年間の長きにわたる闘病生活の中で、

ほんのわずかではありますが回復に向かっていたのに、本当に残念です。

 

はい

これが哀悼の意を表しているところですね。訃報を聞いて本当に残念だという気持ちを伝えています

 



われわれの世代は赤塚先生の作品に影響された第1世代といっていいでしょう。

あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクター、

私たち世代に強烈に受け入れられました。

10代の終わりからわれわれの青春は赤塚不二夫一色でした。

 


ココから故人への思い出、エピソードに入っていきます。

 



 何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、

歌舞伎町の裏の小さなバーでライブみたいなことをやっていた時に、

あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは今でもはっきり覚えています。

赤塚不二夫が来た。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている。

 

この突然の出来事で、重大なことに、私はあがることすらできませんでした。

 

ここは構造の話とちょっと違うんですけど。タモリさんにとって赤塚先生が希代の大スターだった、

いわば神様みたいな存在だったということを、言葉づかいを通して暗に示しています。

眼前に現れた・・・・・あがることすらできない・・・・

 

さすがにこんな言葉づかいで表現するのは、なかなかできないですね。

 

タモリさんだからこその名表現だと思います

 

では続きを言ってみましょう。

 

 

終わって私のところにやってきたあなたは、

「君は面白い。お笑いの世界に入れ。8月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。

それまでは住むところがないから、私のマンションにいろ」と、

 

こう言いました。自分の人生にも他人の人生にも影響を及ぼすような大きな決断を、

この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。

 

思い出の場面描写はこうして淡々と行う事で、人に伝わるっていうところがあります。

美辞麗句や他人の言葉ではなく、思い出の中を切り取っていくという作業がとても大切なのですね。

 

では続きを見て行きましょうエピソード2に入ります



 それから長い付き合いが始まりました。

しばらくは毎日新宿の「ひとみ寿司」というところで夕方に集まっては深夜までどんちゃん騒ぎをし

、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。

お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと。他のこともいろいろとあなたに学びました。

あなたが私に言ってくれたことは、いまだに私にとって金言として心の中に残っています。そして仕事に生かしております。



思い出話を受けての、自分の思いなどをこうして話していきます

あくまで淡々と声を震わせることなく、さすが一流。森田一義だなぁと感じさせてくれます。

そしてエピソード3ですね、ではどうぞ。



 赤塚先生は本当に優しい方です。シャイな方です。

麻雀をする時も、相手の振り込みであがると相手が機嫌を悪くするのを恐れて、

ツモでしかあがりませんでした。

 

あなたが麻雀で勝ったところを見たことがありません。

その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。

そのためにだまされたことも数々あります

金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。

 

しかし、あなたから後悔の言葉や相手を恨む言葉を聞いたことはありません。

 

麻雀の話もイイ話ですねぇ。

エピソード4つ目に続きます。

 あなたは私の父のようであり、兄のようであり、

そして時折見せるあの底抜けに無邪気な笑顔は、

はるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。


たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀の時に、

大きく笑いながらも目からはぼろぼろと涙がこぼれ落ち、

出棺の時、


たこちゃんの額をぴしゃりと叩いては、「この野郎、逝きやがった」と、


また高笑いしながら大きな涙を流していました。


あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。

 

これね、タコ八郎さんとのお別れシーンを僕はテレビで見てたんです。

 

ホントに愛してるんだなぁと泣きながら、ぴしゃりとしていました。

 

葬儀の仕事に関わってると、たまに見るんですが、

笑いながら泣く人の悲しみって、ほんと深いんじゃないかなぁと思います。

 

ではでは弔辞も佳境に入ってまいります。



 あなたの考えはすべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、

受け入れることです。それによって人間は、重苦しい陰の世界から解放され、

軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、

その時、その場が異様に明るく感じられます。


この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。


すなわち、「これでいいのだ」と。

 

ここで、冒頭の「眼前に現れた」「上がる事さえできなかった」が

意味の肉付けをされるわけです。居るだけで空気が変わるなんて、まるで神通力じゃないですか。すなわちここで「あなたは神様でした」「あなたの言葉は神通力のある言葉です」と語っているわけです。

 

 

そしてまたエピソードを語って弔辞は進みます。


 今、2人で過ごしたいろんな出来事が、場面が、思い浮かんでいます。

軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外への、あの珍道中

。どれもが本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりのすばらしい時間でした。

最後になったのが京都五山の送り火です。

 

あの時のあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、

一生忘れることができません。

 

忘れる事ができませんっていうのは弔辞を弔辞らしくする定型句の一つですね

 

そして次

 あなたは今この会場のどこか片隅で、

ちょっと高い所から、あぐらをかいて、ひじを付き、ニコニコと眺めていることでしょう。

そして私に「おまえもお笑いやってるなら弔辞で笑わしてみろ」と言ってるに違いありません。

あなたにとって死も1つのギャグなのかもしれません。

 

 

まるで、生きているかのように語りかけることで、先生の存在をしっかりと

表現しています。聞いている人にとっては、赤塚先生の姿がありありと想像できている事でしょう。

 



 私は人生で初めて読む弔辞が、あなたへのものとは夢想だにしませんでした。

私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。

それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、

お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。


あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました

。しかし、今、お礼を言わさせていただきます。赤

塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。



私もあなたの数多くの作品の1つです。合掌。

 

 

この部分は、全部「あっりがとうございました」を言うための段落です。

そして最後に、「私もあなたの数多くの作品の1つです。合掌。」と言う事で

ありがとございますに、命を吹き込みました。

 

そして〆の言葉はこんな風に

 平成20年8月7日、森田一義

 

 

これでバシッと弔辞が決まる訳です。

カッコいいですね。

 

タモリさんは非常に文才があり、聡明な方なので

すこしづつ弔辞の基本構造に変形がありますが

やはり何度聞いても素晴らしい弔辞です

 

ここまで見てもらうと分かりますが

基本構造の

 

哀悼の意

 エピソード

しめの言葉

 

という三つの基本は決して外してないのです。

 

すてきな弔辞でしたね^^。


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