葬儀屋日記 byノブアキ

つれづれなる葬儀屋さんの日記です

無縁死と言う言葉

2011年05月28日 | つれづれ日記
一人で誰と一緒に住む事も無く亡くなる事を無縁死と言います。

無縁社会、無縁死、無縁、無縁とそんな言葉を流行らせたいのでしょう。
孤独、無縁、貧困・・こういう言葉を使えば人は心を揺さぶられます。

心を揺さぶれば、そこに自分の都合のいいメッセージを送りこむ事が出来ます。


そんな手法でコントロールされれるのは、

まっぴらゴメンじゃああああ

と取りあえず叫んでみます。

ウチの近所にも一人で済んでいる年寄りは一杯います。
その殆どは、子供も孫も居て、友達も居てという年寄りです
自分の意思で一人で住んでいるという人もいっぱいいます。


それでも亡くなる時に一人であれば、扱いは「無縁死」です

は毎日電話をもらっていても、週に三回様子を見に来る子供が居ても
亡くなる時に家で一人でいれば「無縁死」と呼ばれます。

それは本当に「無縁」で「孤独」なのでしょうか?




中には貧困で、家族も無く、友達も居ない高齢者もいるでしょう

でも、好きで一人で暮らしてるお年寄りだって少なくはありません。


弱者を守るという大義名分の為に
人に対して失礼な言葉を使っていないのでしょうか?


僕はね、無縁死って言葉は
好きで一人で暮らしている年寄りの最後に対して
ひどく無礼なものな気がします。


他人の事をあげつらって、みんなで
かわいそうね、かわいそうねって言うのはそろそろ止めましょう。

一人で生きてる方にも、考えがあります、誇りもあります、感情もあります
そんな当たり前のことをつらつらと書いてみました。










お坊さんの生活

2009年08月25日 | つれづれ日記
巷ではよく「坊主丸儲け」だとか「宗教法人は非課税なんだから課税しろ」とか
散々な言われ方をしている、お坊さんという人たち

でもね、僕が見る限り一部の悪い坊さんってのはいるけれど
やっぱり大半のお坊さんは、人が良くて、それで仏の世界を伝えたいと思って
僧侶って言うのを勤めているんだと思います。

ボクもそうだったけれど、人の死に関わる仕事だと
ちっちゃいころに必ず「お前の家は死人がでて、喜ぶんだよなぁ」と
心無い事を言われ育ちます。

好きで葬儀屋に生まれたわけでは無いのに、好きでお寺に生まれたわけでは
ないのに・・そういう扱いを受ける訳です、子供って残酷ですから

そんな中で、イヤでも嫌いでも
結局その責任、血の責任とでもいいましょうか
檀家さんたちが跡取りがいるねぇ、安心だねということで
見えない期待をかけて来るわけです。

そんな中で、結局大半のお坊さんの息子は
お寺の跡取りとして、自分の人生をお寺を運営する、仏教を守っていくことに
捧げていくわけです

いい暮らしができるから、坊主は辞められないなんていう人は
皆無に等しいのではないかと思います

朝起きて、お経を読んで、頭を丸め
お弔いがあればできる限り都合をつけて
枕経を読んで欲しいといわれれば、夜でも駆けつける
葬儀は寝坊だって、遅刻だって許されない
不安そうに、ウチのじいちゃんは成仏してるんでしょうか
と聞かれれば仏の道を説いて安心させてあげる
本山に行って修行もしなくては、いけない
お寺はきれいに掃除してなきゃいけないし
葬式にはどうしても住職じゃなきゃヤダといわれることもあるし

奥さんは、私働きに行きたいから
っていうのじゃ勤まらない、お寺に入ってお寺の奥さんとして

人生の伴侶もお寺の奥さんができるかどうかで
考えなきゃいけない

お坊さんにはみんな当たり前の事です
そうやって、お寺を守るっていうのは
自分の人生をお寺に捧げるようなもので

宗教者っていうのは、多かれ少なかれ
そういう人生を歩んでいるのだと思います

日本人の信仰は、自分で選択したものではなくて
親の代から引き継いで行くものだから
どうしても「お布施が高い」とか「寄付が多い」とかで
不満を持つこともあると思います

自分で選択したことで無いことで
責任や義務を持つことは、誰でも嫌がることだと思います

ただね、僕は思うんです

一人でこの世に生まれてきたわけじゃないし
ご先祖さんたちっていうのがいて
それを弔ってくれるお坊さんって言う存在のがいて

そのお坊さんは、自分の人生を払って
僕らのご先祖さまのお弔いをず~~~~と代々してくれているのです

お坊さんが支えてくれる信者さん、檀家さんと
もっとコミュニケーションをとらなくてはなりません
それはもっとも正論ですが

一般の檀家さんたちも、とられたとられたって言うだけじゃなくて
もう少しお坊さんのいじめないで欲しいのです

正確にいうなら、よく頑張っているお坊さんを
どこかの欲の皮の張ったお坊さんと一緒に

坊主はダメだ、仏教はダメだと

レッテルを貼って、いじめないで上げて欲しいのです

葬式無用、戒名無用というポリシーは個人の自由なので言いのですが
そういう人は、クリスチャンネーム無用、葬儀の祈りなど無用
と同じようにいえるのだろうか?と思います

神様や仏様は、どこの世界でも尊い存在です
そういうものを守ってくれている、本当の僧侶という人たちもいるので
あんまり宗教をいじめるのはどうか・・と思うのです

こうやって話している話も
世の中の一部の人の話しで
ほとんどの世の中の一般の人はそれなりに、それなりに
神様や仏様、ご先祖様を大事に生きているのはわかっています

でもね。。。。そうでない人も最近チラホラ出てきてしまいました。

昔の人は、「タタリがある」って簡単にそう一言で説明していましたが
そういう目に見えないものの、存在を頭から否定して生きることは
よくない結果を起こしやすい生き方だって言ってるのでしょう。
別にこう、悪霊がでるとか霊障があるとかって話じゃなくて
そういうものは無いかもしれないけれど、大事にして生きる
というの一般の人として、こういう時代には

とても大切なんじゃないかと、そんな気がするのです
長くなりましたが、こんな与太話に付き合っていただいて感謝(=人=)合掌