葬儀屋日記 byノブアキ

つれづれなる葬儀屋さんの日記です

壊すなら作ることも忘れないでほしい

2010年02月07日 | 日記
直葬ブームや、葬式批判が世の中に溢れて来ているようです。
ただね、なんとなくですよ・・・

人それぞれの価値観だから、葬式をしないのも良いと思います
批判しても、それでも良いと思います

ただね、お母さんが亡くなって別れの場を精一杯やってあげたいのに
そんなの無駄じゃないって言わないでほしいんです

お坊さんが、みんなみんな金の亡者みたいに言うのは
ウチの近所の正専寺さんに会っても、そういえるのですか?
と問いかけたいのです

いままで、人間の世の中でずっとずっと同じ形で続いてきた
葬るという文化を合理的な理由だけで、否定して欲しくないのです

もし、ウチのお袋が死んだなら僕が知らない人も会葬にくるでしょう
でも、あんなやつ知らないとは言いたくないのです
お袋のために来てくれてありがとう、上の部屋に通夜ぶるまいがあるから
どうぞ供養ですから召し上がってくださいってそう言うと思うんです

お袋のために来てくれた、そう思ったら大事にしないわけには行かないのです
なんだかんだとケンカはしても、60過ぎのお袋は愛しいもんです
送るのだったら、精一杯お袋が好きだった食べることを
皆さんに、一緒に供にしていただきたいって思います。

手塚治虫先生のブラックジャックには、こんなセリフがありました

「私なら、母親の値段は100億つけても安いものだがね」


親の弔いに幾ら出すかなんて、一人一人の気持ちじゃないかと
思います。安くたって高くたっていい

でも、後悔だけはしてほしくない。本当の本当に一回しか出来ないものだもの

そういったモノを壊して行く

無駄無駄無駄無駄と唱えるのであれば
代わりの意見を出すべきじゃないかとそんな風に思います

壊すのだったら作って欲しい

文化や道徳を壊すのは、作ることよりも全然簡単なのでしょう
でも、僕らは作らなくてはなりません。

それは、無駄かもしれませんが
人によっては、幼稚でたどたどしくて
ひどく不完全なものかもしれませんが

意味のない、形骸化したものかもしれませんが

僕は作るか守るかしていきたいと思います
100年残る生き方を、バカバカしく見えるかもしれませんが
していかなければなりません。

僕の通う、腕の確かな接骨院の先生が

仕事で壊れた僕の腰を直しながら
「社長さ、、物事の本質ってのは昔かっら、あんまり変わらねぇんだよ。
だから、どの仕事でもぶっ壊すんだったら、本質をつかむまで否定しないでよーくみてごらん
壊すのも否定するのも、いつでもできるんだからさ」

そう言ってくれました。

僕らはきっと、言葉と論理だけじゃ済まない世界に生きています。
カラダをつかって、通して体験しないとわからないことばかりじゃないでしょうか

弔い事は最たるものです。

そう思うんですけどね・・・・・どうなんでしょ?

複利の世界

2010年01月21日 | 日記
仕事中心の生活をしていると、特別書くこともなくなってきます(笑)

というわけで、日々考えていることを書いていこうと思います


この世の中は複利という仕組みで動いています
手元に100万円あってそれを年利3%で運用していくと
100年後にはものすごい金額になるという、アレですね。

金銭だけに関わらず、自分の人生への接し方、つまりこれは
心の世界でも同じことが起きているということをどれだけの人が
知っているのでしょう。

心にとって良いことを年間5%したとします
つぎの年には、全体で105%の良い心になって行きます
その次の年は、105*1.05で110%になります
その次の年は、115%
その次は121、その次は127・・・・

と80年つづけると、なんと4956%の良い心になります
一生涯続けると、なんとその人の心は約50倍も良い心を持つことになります

お金の世界が、複利というものが存在していることは
知っている人も多いですが
お金と言う象徴論は、頭の中の世界を映しだしたものなのだそうです

なんか宗教じみてきましたが・・現実の世界もどうもそのようにできているようで
一例をあげると

思考→行動→結果→反省→思考→行動→結果

実際の自分の人生も、考えたことが行動を起こし、それが結果になってその結果が
新しい考えの原因になるって思うのです

つまり
原因→結果=原因→結果=原因・・・

という、複利のサイクルで動いているようなのです。
だから、小さな行動の積み重ねが大きな結果の違いになってしまうというのが
ルールなのだと思います。

なにか主義、主張があるわけではないですが
世の中の仕組みがわかるというのは中々面白いものです。

阪神淡路大震災から十五年

2010年01月17日 | 日記
15年

阪神淡路から十五年経ちました
ブログやHPをやっていても、この話題に触れることは
無かったと思います


あまりに沢山の犠牲者がでて、当時現地に駆けつけた人からも
現実の状況を聞いてこの話しに触れる資格が無いような気がしたからです

葬儀屋さんっていう、比較的この世の中で「人の死」という
ものに近いところで仕事をしていると、他の人よりも冷静に
「死」って言うものが理解できていて、そしてその分だけ
軽んじてはいけないという「重み」があるということだけは
肌で感じることができるからだろう。

沢山の団体が、この災害があったことに意味をつけたがる
沢山の知識人と言う人たちが、この災害から学べという話をする。

確かにそうなのだろう
そのことは、別に間違っちゃ居ないと思う

21歳の時に、一緒に飲んでいた女の子が友達が沢山この地震で
死んでしまったと言っていた、そっかと言ったまま

とりあえず、自分のグラスの中身を胃袋に放り込んだ

同業の人に、棺に納めても納めても棺が無くなるまで
納め続けた話を聞いた、言葉が見つからなかったので
「そうだったんですね」と言って黙ってみた

何の前触れもなく、何の物語もなく

唐突にその命は失われました

沢山のこれから紡がれる思い出も失われました

弔う仕事のかたわらに居て、いつも思うことがあります

「弔うことしか出来なくてごめんなさい」
「生きてる内に、なにかしてあげられなくてごめんなさい」

この仕事を本格的にはじめた時から、思っている事で
僕らのこの仕事、葬儀屋さんっていう仕事は
弔う人の為のお手伝いで、そんなに大した事をするわけでは
ありません

只、皆さんが一生に一度あるかないかということで
不慣れなことをしますから、その段取りを心配にならないように
お手伝いしましょうっていう仕事です。

だからこそ、何かの支えになれたらいいなぁと思うのですが
1995.1.17のこの日に僕はテレビを見るだけでした

15年前の18だか19歳の僕は、その後本格的に弔う仕事をするように
なりました

弔うこと、供養することがその人を心の中に生かしていく
方法なんだと思えば、竹筒の炎も、皇太子様夫妻の気持ちも
亡くなった方にとっては、そういった弔いが最上級のご馳走なんじゃ
ないかと思います


ある、お坊さんの言葉です・・

亡くなった方は、味わう口も、匂いを嗅ぐ鼻も、声を聞く耳も
触れる肌も、見るための目もありません

ただ、すべてが亡くなった訳ではありません

皆さん一人一人の中に、心として生きていらっしゃる

そのままではありませんが、心で感じるならば
その方の存在は、失われているわけではありません

皆さんと共に生きていらっしゃる
だからこそ、食べて、感じて、見て、聞いて、匂いを感じ
そうして皆さんが良く生きることが、何よりも良い供養なのです

手を合わせることも、お焼香することも、思うことも
すべてご供養になるわけです

共に生きるのならば、亡くなった方が悲しむような生き方はしないでください
共に生きるのならば、亡くなった方が誇らしく思うようなそんな人生を生きてください

それが、本当のご供養だと

そのお坊さんは言っていました。


さららさ未熟な限りでございますので、この言葉をお借りして
今日の日記とさせていただきます