東京電力集金人 (12)4丁目の居酒屋
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/44/0d0943acd02c12db4cea299283cebde0.jpg)
膝の下まであるベンチコート姿の俺は、夕闇が濃くなってきた街中を、
ひとりだけ目立ちながら歩いた。
完全武装のベンチコート姿に、夕方から急に冷え込んできていたものの、
『まだそれを着るのは、いかにも早過ぎるだろう』という冷ややかな他人の視線を、
いやというほど背中に何度も感じた。
4丁目の居酒屋はすぐにわかったが、肝心のるみが見つからない。
それほど広いわけではないが、俺の知っているみの顔が店内には見当たらない。
女は化けると言うが、今回の事態がまさにそれに該当した。
るみにやつすべてを承知の上で他人のように、俺が気が付くまで涼しい顔でこちらを見ていた。
あ、いや失言だ。まだ何事も発生していないから、俺たちはまだ全く他人ままだ。
うふふと笑ったるみの顔が、すこぶるチャーミングだ。
気がつかなかったがるみという女は、化粧をほどこすと、充分なほどの美人になる。
驚いたことに、ぺったんこだった胸のふくらみが、いつのまにか見事なまでに復活している。
(あれ。ついこの間は、ぺったんこだったのに)と思わず胸元を覗き込んでしまった。
だがいきなり額を、げんこつでごつんと殴られた。
「いくらなんでも失礼過ぎるでしょ。
体型さえ元に戻れば、胸のふくらみだって、ちゃんと元に戻るのよ。
うふふ。あの手この手で寄せて揚げて、少しばかり、ふくらみを強調していますけどね」
「体型が元に戻った?。たったひと月でもとに戻るものなのか、女の体重ってやつは?」
「いろいろあるの、悩みの多い女には。
今日はおごります。給料をもらったばかりだし。先日分のお礼も含めてね。
日本酒は飲める?
又兵衛という、いわきのお酒が此処のおすすめです」
「マタベェ、豪放な名前だな。いきなり、ガツンと酔っぱらったりしないかな?」
「又兵衛さんという人が、自分で楽しむために酒造りを始めたものです。
いまから100年以上も昔の事です。
『まことのさけのみのさけ』と自ら称したという逸品です。
まろやかな香りと、丸くふくよかな味わいは、舌に絶品の感触で転がります」
「詳しいねぇ。まるで君は、杜氏みたいだな」
なにげなく言い放った俺のひとことに、目の前のるみが、予想外の反応を見せる。
(その杜氏になりたかったのよ・・・私は)と、るみが目で笑う。
さらに、(原発の事故が発生しなければ、杜氏になれたのに、という意味ですけどね、)
と3.11のあの日の出来事でも思い出したのか、唇の端を噛みながら笑いを見せる。
あれ・・・・気のせいじゃなさそうだ。仕草までなんだか、おかしくなってきた。
手にした猪口の動きが、いつのまにか止まっている。
うつろな目で遠くを見つめているるみの唇から、短い吐息が漏れてきた。
そのうちにるみの目尻に、ぷっくりとした透明な涙のかたまりまでが浮かんできた。
「やばい!」と直感した瞬間、るみの目からはらりとひとすじ涙がこぼれて落ちた。
俺は慌てて周囲を見まわした。
それほど混んでいるわけではないが、すぐ近くには客がいる。
女を泣かせていると周囲から誤解されたら困るなと、ぐるりと客席を見回したが、
どうやらそんな心配はなさそうだった。
さらに『目にゴミが入っちゃった』と、るみがその場を救ってくれた。
仕方がないので、『何か、気に障ることでも言ったか俺?』と耳元へささやいてみる。
『訳もなく泣くんだよ。女と言う生き物は』とるみが、寂しい笑いを浮かべる。
だが乗りかかった船だ。そんな曖昧なひとことで引き下がるわけにはいかない。
『何か有るんだろう。胸につっかえているような辛い事が』とさらに追い打ちをかけた。
こういうところが俺の悪い癖だ。こうしていつも、余計なことに首を突っ込む。
果たして『私の事なんか、なんにも知らないくせに!』と強い目でるみからいきなり睨まれた。
だが俺はこうなると、ますます後に退けなくなる。
『何かあるなら言え。訳もなく女を泣かせたとあっては男がすたる』
涙のわけを聞かせてみろと、男気を見せてるみに迫る。
『後悔するから絶対に。そんな優しいことをあたしに言うと』と、
るみが下から俺の顔を見上げる。
『望むところだ!』と応じれば、『付き合ってもいないくせに』と軽く鼻でふふんとるみが笑う。
『じゃあ、どうすればいいんだ』と、俺の語気もなぜか荒くなる。
『付き合ってくださいと、先に白状したらどうなの。あたしに興味が有るんでしょ?』
といきなり鋭い視線が、ぐさりと俺の胸を突いてくる。
一瞬たじろいだが、ここで引き下がっていたのでは、俺の男がさらにすたる。
『つ、付き合ってください』と、精一杯の勇気を奮い起こし、ついに告白をしてしまった。
だが『お断りだね、あんたなんんか。嫌だね』とるみが軽く一蹴する。
「男なんかコリゴリだもん。
やっと痛手が癒えたばかりだ。簡単に、2度目の火傷なんかするもんか。
でもさぁ。ラーメンをおごってくれたら考えてもいいわ。
このあいだあんたが話してくれた醤油ラーメン。
あれから、毎晩わたしの夢の中に出てくるんだ。
悩ましくて眠れないんだもの。おごってくれたら付き合ってあげてもいいな」
「言っただろう。繁華街の裏手だから空気は悪いし、すこぶる危ない場所だって」
「スリルが有るから楽しいのよ。嫌ならいいのよ、ひとりで帰るから。
私を守れない男なんかに、興味はないわ。
居酒屋の分は、おごってあげるつもりだったけど、綺麗に半分の割り勘にしましょう。
はい。これはわたしの分。今夜は本当にありがとう。じゃ、これでさよなら。
もう2度と会うことはありません。薄情なあんたとなんか」
ふんと立ち上がったるみが、いきなりスタスタと出口に向かって歩き出す。
(13)へつづく
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膝の下まであるベンチコート姿の俺は、夕闇が濃くなってきた街中を、
ひとりだけ目立ちながら歩いた。
完全武装のベンチコート姿に、夕方から急に冷え込んできていたものの、
『まだそれを着るのは、いかにも早過ぎるだろう』という冷ややかな他人の視線を、
いやというほど背中に何度も感じた。
4丁目の居酒屋はすぐにわかったが、肝心のるみが見つからない。
それほど広いわけではないが、俺の知っているみの顔が店内には見当たらない。
女は化けると言うが、今回の事態がまさにそれに該当した。
るみにやつすべてを承知の上で他人のように、俺が気が付くまで涼しい顔でこちらを見ていた。
あ、いや失言だ。まだ何事も発生していないから、俺たちはまだ全く他人ままだ。
うふふと笑ったるみの顔が、すこぶるチャーミングだ。
気がつかなかったがるみという女は、化粧をほどこすと、充分なほどの美人になる。
驚いたことに、ぺったんこだった胸のふくらみが、いつのまにか見事なまでに復活している。
(あれ。ついこの間は、ぺったんこだったのに)と思わず胸元を覗き込んでしまった。
だがいきなり額を、げんこつでごつんと殴られた。
「いくらなんでも失礼過ぎるでしょ。
体型さえ元に戻れば、胸のふくらみだって、ちゃんと元に戻るのよ。
うふふ。あの手この手で寄せて揚げて、少しばかり、ふくらみを強調していますけどね」
「体型が元に戻った?。たったひと月でもとに戻るものなのか、女の体重ってやつは?」
「いろいろあるの、悩みの多い女には。
今日はおごります。給料をもらったばかりだし。先日分のお礼も含めてね。
日本酒は飲める?
又兵衛という、いわきのお酒が此処のおすすめです」
「マタベェ、豪放な名前だな。いきなり、ガツンと酔っぱらったりしないかな?」
「又兵衛さんという人が、自分で楽しむために酒造りを始めたものです。
いまから100年以上も昔の事です。
『まことのさけのみのさけ』と自ら称したという逸品です。
まろやかな香りと、丸くふくよかな味わいは、舌に絶品の感触で転がります」
「詳しいねぇ。まるで君は、杜氏みたいだな」
なにげなく言い放った俺のひとことに、目の前のるみが、予想外の反応を見せる。
(その杜氏になりたかったのよ・・・私は)と、るみが目で笑う。
さらに、(原発の事故が発生しなければ、杜氏になれたのに、という意味ですけどね、)
と3.11のあの日の出来事でも思い出したのか、唇の端を噛みながら笑いを見せる。
あれ・・・・気のせいじゃなさそうだ。仕草までなんだか、おかしくなってきた。
手にした猪口の動きが、いつのまにか止まっている。
うつろな目で遠くを見つめているるみの唇から、短い吐息が漏れてきた。
そのうちにるみの目尻に、ぷっくりとした透明な涙のかたまりまでが浮かんできた。
「やばい!」と直感した瞬間、るみの目からはらりとひとすじ涙がこぼれて落ちた。
俺は慌てて周囲を見まわした。
それほど混んでいるわけではないが、すぐ近くには客がいる。
女を泣かせていると周囲から誤解されたら困るなと、ぐるりと客席を見回したが、
どうやらそんな心配はなさそうだった。
さらに『目にゴミが入っちゃった』と、るみがその場を救ってくれた。
仕方がないので、『何か、気に障ることでも言ったか俺?』と耳元へささやいてみる。
『訳もなく泣くんだよ。女と言う生き物は』とるみが、寂しい笑いを浮かべる。
だが乗りかかった船だ。そんな曖昧なひとことで引き下がるわけにはいかない。
『何か有るんだろう。胸につっかえているような辛い事が』とさらに追い打ちをかけた。
こういうところが俺の悪い癖だ。こうしていつも、余計なことに首を突っ込む。
果たして『私の事なんか、なんにも知らないくせに!』と強い目でるみからいきなり睨まれた。
だが俺はこうなると、ますます後に退けなくなる。
『何かあるなら言え。訳もなく女を泣かせたとあっては男がすたる』
涙のわけを聞かせてみろと、男気を見せてるみに迫る。
『後悔するから絶対に。そんな優しいことをあたしに言うと』と、
るみが下から俺の顔を見上げる。
『望むところだ!』と応じれば、『付き合ってもいないくせに』と軽く鼻でふふんとるみが笑う。
『じゃあ、どうすればいいんだ』と、俺の語気もなぜか荒くなる。
『付き合ってくださいと、先に白状したらどうなの。あたしに興味が有るんでしょ?』
といきなり鋭い視線が、ぐさりと俺の胸を突いてくる。
一瞬たじろいだが、ここで引き下がっていたのでは、俺の男がさらにすたる。
『つ、付き合ってください』と、精一杯の勇気を奮い起こし、ついに告白をしてしまった。
だが『お断りだね、あんたなんんか。嫌だね』とるみが軽く一蹴する。
「男なんかコリゴリだもん。
やっと痛手が癒えたばかりだ。簡単に、2度目の火傷なんかするもんか。
でもさぁ。ラーメンをおごってくれたら考えてもいいわ。
このあいだあんたが話してくれた醤油ラーメン。
あれから、毎晩わたしの夢の中に出てくるんだ。
悩ましくて眠れないんだもの。おごってくれたら付き合ってあげてもいいな」
「言っただろう。繁華街の裏手だから空気は悪いし、すこぶる危ない場所だって」
「スリルが有るから楽しいのよ。嫌ならいいのよ、ひとりで帰るから。
私を守れない男なんかに、興味はないわ。
居酒屋の分は、おごってあげるつもりだったけど、綺麗に半分の割り勘にしましょう。
はい。これはわたしの分。今夜は本当にありがとう。じゃ、これでさよなら。
もう2度と会うことはありません。薄情なあんたとなんか」
ふんと立ち上がったるみが、いきなりスタスタと出口に向かって歩き出す。
(13)へつづく
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