夫の遺影を見つめるイ・ヨンギョさん(2015.4.7、大邱市の病院で)
40年前の1975年4月9日未明、ソウル拘置所で「人民革命党再建委事件」のト・イェジョン氏ら8人に対し、死刑が執行されました。前日に大法院(最高裁)で上告が棄却され死刑判決が確定してから、わずか18時間後のことです。
当時の朴正煕政権は大統領緊急措置令を乱発して、長期独裁に抗議する学生や民主人士を弾圧していました。それだけでなく、進歩勢力を“北朝鮮の指令で動く反国家分子”に仕立てて、反共法・国家保安法で重刑を科していたことは周知の事実です。
「人民革命党再建委員会」の実体はなく、1974年4月3日に発生した「全国民主青年学生総連盟(民青学連)」事件の背後勢力として捏造されたものでした。中央情報部による凄惨な拷問によって事件が捏造され、独裁政権の忠犬でしかなかった検察と司法部は、シナリオ通りに起訴と判決、そして死刑を執行したのです。
盧武鉉政権末期の2007年1月23日、人民革命党事件の再審で無罪が宣告されました。“司法による殺人”から32年後のことです。しかし、遅まきの「無罪」で8名の尊い犠牲を償うことはできません。また、拷問と虐殺に関わった捜査官・検事・判事の誰一人として、その責任を問われることもありませんでした。
それどころか、独裁者の娘が大統領職を担当して2年が経過した今、韓国社会の民主主義は目を覆わんばかりに後退しました。何よりも司法の堕落ぶりは、維新時代(朴正煕政権)に回帰したのではと錯覚するほどです。
「朴正煕政権期の大統領緊急措置令は憲法違反である」との司法判断が、朴槿恵政権の下で徐々に修正されようとしています。3月26日、緊急措置令で不当拘束された被害者の民事訴訟上告審で、大法院は高裁審の判決を覆し原告への国家賠償支給を認めませんでした。大統領緊急措置の発令は“高度の政治性を帯びた国家行為であり、こうした権力行使は、国民に対する民事上の不法行為を構成するとは見なせない”と言うのです。
父親の名誉回復を願う孝行娘のひたむきな心情が成せる技でしょうか、独裁政権に免罪符を与える判決が相次いでいます。4月8日、ソウル高裁民事33部で、緊急措置第1号違反者として投獄されたペク・キワン(83)氏が提訴した損害賠償請求の判決がありました。法廷は国家の賠償責任(2億1600万ウォン)を認めた1審を覆し、原告の敗訴を判決したのです。
裁判所は“大統領緊急措置第1号の発令行為が、それ自体として国家賠償法第2条第1項に掲げる公務員の故意、または過失による不法行為には該当しない”と判示しています。さらに、“捜査する過程で中央情報部要員の暴行、苛酷な行為があった事実は認められるが、このような不法行為に対する損害賠償請求権は時効が過ぎて消滅した”と説明しました。
4月7日、国会では新任の大法院裁判官候補者に対する人事聴聞会が開かれました。候補者の名はパク・サンオク。1987年1月に起きたソウル大生(パク・ジョンチョル君)拷問致死事件の担当検事でした。この事件は同年6月、全国に拡大した民主抗争の発端となりました。そしてパク・サンオク候補者は、事件捜査の隠蔽と縮小に関わったとの疑惑を受けています。
聴聞会は難航しました。法務部が野党の要求する事件記録の全面公開に応じなかったからです。候補者は“捜査の隠蔽に関わった事実はない。記憶にない”と否認を続け、聴聞会で真相は究明されませんでした。このような人物が大法院の裁判官に任命されることは、民主化運動を冒涜することに他なりません。大法院の保守化傾向は更に進むことでしょう。
話を人民革命党事件に戻しましょう。犠牲となった8名の一人、ハ・ジェワン氏(当時、44才)の妻であるイ・ヨンギョさんを取材した4月9日付『ハンギョレ新聞』の記事を紹介します。遺族にとっての、40年という歳月の重みを感じざるを得ません。(JHK)
“朴正煕も晩年には、人民革命党事件を後悔したそうだね。でも、最近は維新時代が再びやってきたような気がするよ。時局は不安で怪しげな事件が続くし...。政治の話をするのがどうも怖い。”
イ・ヨンギョさん(78才)にとって、1975年4月9日以降の40年、1万4600日は、一日として苦痛と怨恨から抜け出すことのできない日々だった。
“酷い時代だったよ。夫が死刑になって40年が過ぎたけど、まだ昨日のような気がする。1審で死刑が宣告されると、夫は後に座った私の方を振り向いて、首を横に振ってうっすらと笑いましたよ。”
法廷で夫がひと目で自分に気づくようにと、いつも同じ服を着たというイ・ヨンギョさんは、大法院の判決当時を思い出すと今でもあきれるしかないと語った。
“夫の顔でも見ようと法廷に行ったけど、被告人も出席させずに‘上告棄却、死刑’と判決したんですよ。家族が泣き叫んで抗議すると、判事たちは逃げるように法廷を出て行きました。”
再審請求の話し合いで一睡もせずに夜を明かした後、家族たちは夫の面会にソウル拘置所へと向かった。
“‘面会謝絶’と書いてあったので問い詰めたところ、刑務官が‘アカの死刑囚のくせにガタガタ言うな’と怒鳴ります。後で分かったんだけど、その時にはもう死刑が執行されていたのです。”
夫の死後、イさんと5人の子供たちの人生には‘真っ赤な烙印’が押された。近所の人達の蔑視と冷遇は、形を変えた‘刑罰’だった。
“近所の子供たちが末の息子を樹に縛りつけて‘アカの子どもは銃殺だ!’と囃すのです。息子の首に紐を結んで引きずり廻すんです。学校が終わって家に帰る三女の後を追いかけてきて‘お前の父ちゃんスパイだろ!’ってからかうんだよ。そんな子供たちに、アイスキャンディーを買ったげて‘この子の父ちゃんはそんな人じゃないよ’となだめるんだけど、あの時は本当に死んでしまいたかったよ。”
2007年、再審で夫に‘無罪’が宣告されたが、かえって虚しかったという。“もともと無罪な夫を、なぜ殺したのか?”という思いが頭から離れなかったそうだ。どういうわけか足が宙に浮くような感じがして、しょっちゅう倒れるというイさんは、最近になって腕と脚を骨折した。それで、夫の40周期追慕の集いにも参加できない。
権力は、悲劇を楽しむ機関なのか。
本当にやるせない。