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真の民族解放に向けて

2016年08月19日 | 三千里コラム

朝鮮半島の平和と自主統一を求める8・15民族大会(2016.8.15,ソウル・大学路)



久しぶりに、8月15日を祖国で迎えることになった。ソウルの旧西大門刑務所歴史館で開催される「2016西大門独立民主祝祭」に参加するためだ。大日本帝国の植民地統治が終了したこの日を、北では「解放節」、南では「光復節」と呼んで記念している。

今年で6回目になる今年の祝祭では、一つの特別展示が催された。第11獄舎の3号監房をブースにした「在日同胞良心囚-苦難と希望の道」という資料展示だ。ご存知のように1970年代~80年代にかけて、母国留学生をはじめとする数多くの在日韓国人がスパイ罪を捏造され、ここ西大門拘置所に収監された。再審裁判を通じて無罪判決の確定が相次いでいるが、今回の特別展示は、ようやく韓国内でもこの問題に対する関心が高まってきたことを反映しているようだ。

酷暑の折だったが、8月14日の前夜祭にはたくさんの入場者が訪れた。もちろん、他の展示室や文化公演などが中心で、特別展示が世論の注目を集めたわけではない。特別展示の実現には、管轄部署である西大門区庁の役割も無視できない。民選区長が野党(共に民主党)出身の進歩的な人士であったことも、一つの要因といえよう。

韓国民主化運動の成果の一つとして、過去事件の再検討事業を上げたい。盧武鉉政権期に設立され、李明博政権期に解散された「真実・和解のための過去事件整理委員会」がその典型である。だが、この委員会が担った使命は未完の状態だ。真相の究明と被害者の救済がなされていない公安事件が、決して少なくないのだ。そして、民族分断と軍事独裁に基因する民衆の苦痛を、事件数を示す統計データが語り尽くすことはできない。

何よりも祝祭の名称が、私たちの課題が未達成であることを示している。「独立民主」という用語は、植民地統治と独裁政権に抵抗した歴史を象徴している。しかし、「光復」が真の「民族解放」となるためには、分断に終止符を打つ「統一」の二文字が必要だ。遠からぬ未来に、西大門の行事が「独立民主統一祝祭」として開催されることを願ってやまない。

当日(8月14日)の夜、ソウルの市庁広場では「8・15自主統一大会」の前夜祭が開催された。諸団体と全国各地からの参加者で広場は埋まり、「サードの韓国配置撤回、朝鮮戦争平和協定の締結、南北当局対話の再開」などを掲げ熱のこもったスピーチと文化公演が行われた。中でも、全国を巡回して平和統一の気運を高めてきた「統一先鋒隊」の青年学生たちが舞台に登場すると、ボルテージは頂点に達した。

相次いで、プロの芸術家たちにも劣らない公演がくり広げられた。何よりも、日本では想像できない平和統一への熱気に触れることができ、感慨もひとしおだった。統一運動の市民的な拡大という課題が、少しづつ現実化されているようで頼もしかった。

さて、リオ・オリンピックも残り少なくなった。フィナーレはやはり男子マラソンのようだ。思い起こせば、80年前の1936年8月9日、ベルリン・オリンピックの金・銅メダリストは植民地朝鮮の青年だった。ソン・ギジョン(孫基禎)とナム・スンリョン(南昇竜)。「消えた国旗」という事件を記憶される読者も少なくないだろう。表彰台中央のソン・ギジョンから、ユニホームの日の丸を消したとして、民族紙が停刊処分を受けたのだ。

表彰式で日の丸を見上げることを拒否した二人の青年、ユニホームの日の丸を消した民族新聞。植民地の時代を生きたアスリートとジャーナリストの、ささやかな、しかしとても勇敢な抵抗だった。

最後に、朝鮮民族の誇りだった二人のメダリストに関する逸話を紹介しよう。マラソン競技の終了後、大日本帝国の代表チームがレセプションを開催したが、二人は参加せず、朝鮮人だけの祝賀会に現れた。豆腐工場の壁に太極旗を掲げた祝賀会は、在独同胞のアン・ボングンが主催した。アン・ジュングン(安重根)義士の従弟である。

朝鮮国内は二人の快挙に沸き返った。「ソン・ギジョン万歳(マンセー)」の叫びは、1919年の3・1独立運動を彷彿させるほどだったという。8月13日、『朝鮮中央日報』と『東亜日報(地方版)』に日章旗を消したソン選手の写真が掲載された。朝鮮総督府は当時、印刷機の不都合で起きたことだろうと不問にしたそうだ。ところが8月25日の『東亜日報』に再度、日章旗のない写真が登場するや大騒ぎになった。『東亜日報』は無期停刊、独立運動家ヨ・ウニョン(呂運亭)が社長の『朝鮮中央日報』は廃刊に追い込まれた。

青年ソン・ギジョンの気概も大したものだった。ベルリンで外国人にサインを求められると、必ずKOREAと書いた。一連の行動から大日本帝国の特別高等警察は、彼を要視察人物としてマークした。ヨ・ウニョンとも親しく、私席では「思想犯として睨まれても構わない」と発言していた彼に対し、大日本帝国の報復は残忍で執拗だった。

「不逞鮮人が独立の気運を高めかねない」との理由で、彼はその後、内外の主要な大会に参加できなかった。マラソン・ランナーとして全盛期だったソン・ギジョンの心情は如何ばかりであったろうか。翌年、彼は明治大学の予科に入学するが、陸上部には入らなかった。彼が再びトラックに勇姿を見せるのは1988年、ソウル・オリンピックの最終聖火ランナーとしてだ。ベルリンの英雄はすでに、76歳だった。(JHK)

 

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