NPO法人 三千里鐵道 

NPO法人 三千里鐵道のブログです。記事下のコメントをクリックしていただくとコメント記入欄が出ます。

国家情報院の罪を問う

2015年07月27日 | 三千里コラム

国家情報院の庁舎



国家情報院(以下、国情院)は周知のように、韓国情報機関の中枢です。軍や警察の公安部門にも情報機関がありますが、その規模と能力において、国情院に匹敵するものではありません。その前身は、朴正熙の軍事クーデター(1961.5.16)翌月に設立された中央情報部です。米国CIAに倣ってKCIAと呼ばれました。民主化運動や平和統一運動を苛酷に弾圧することで朴正熙政権は18年もの長期間に及びましたが、それを可能にした要因の一つはKCIAの存在です。

国情院はまた、朴槿恵政権を誕生させた第一功臣でもありました。2012年の大統領選挙における世論操作です。最近、国情院が民間人の携帯電話やパソコンをハッキングしているとの疑惑が浮上しています。国情院は2012年2月、イタリアのソフトウェア会社から強力なハッキング・プログラムを購入し、対象者のコンピュータやスマートフォンによるインターネット活動を監視してきました。言うまでもなく、明白な違法行為です。

国情院は否定していますが、国民の多数はその釈明を信用していません。というのも7月6日、肝心のソフトウェア会社がハッキングされて顧客情報が流出し、国情院との詳細な契約内容が暴露されてしまったからです。領収証の宛先住所が国情院の私書箱だったいう、笑えないエピソードまでありました。国情院はこのハッキング・プログラムが“北朝鮮の情報収集が目的だった”と、苦しい弁明に終始しています。国会でも論議されていますが、当事者の一人が自殺したこともあって、ウヤムヤに終わらせるようです。

国情院は大統領直属の機関で、予算の規模や用途すら明確ではありません。南北分断の現状がもたらした、最大の既得権勢力とも言えるでしょう。「国家」を標榜していますが、「国民」ではなく「権力」に仕える情報機関として、国情院は昔も今も忠実に機能しているのです。その国情院の実態を指摘した記事がありましたので、翻訳して紹介します(JHK)。
参照記事=http://www.ohmynews.com/NWS_Web/View/at_pg.aspx?CNTN_CD=A0002123333


恥を知らぬ国家情報院-捏造事件の自画自賛


とんでもない事実を初めて知ったのは去る2月のことだった。私は当時、仕事の関係でソウル市瑞草区内谷洞に位置する国家情報院を訪問した。その時、担当職員の案内を受けて入った国情院の広報館で、思いがけない記録を見ることになったのだ。目にしたのは、国情院の母体であるKCIAから今日に至るまでの「主要沿革資料」だった。

1961年6月、中央情報部(以下、KCIAと略す)が創設される。初代部長は、国会議員9選後に政界引退したキム・ジョンピル。沿革資料では、多くの人々を恐怖に陥れた「我らは日陰で活動し陽地を目指す」という中情の部訓が制定されたのが、同年9月だと広報パネルに記されていた。そして年表を読み進むうちに、とんでもない記録を見ることになった。それは、悪名高いKCIA時代の「対共功績」を記録した内容だった。

国情院が自ら認めた捏造-「東ベルリン・スパイ団事件」 

悪名高かったKCIAが、朴正熙独裁権力下で摘発した公安事件は枚挙にいとまがない。代表的な事件の一つが「人民革命党事件」だ。1964年に一次人民革命党事件があり、10年後の1974年には、二次人民革命党再建委事件が大々的に発表された。二度の事件で多くの人が拘束されたし、特に二次の人民革命党再建委事件では、8名が死刑を執行されている。だが、この事件は後日、全員に無罪が宣告された。再審の結果、KCIAが拷問捜査によって捏造した事件だと明らかになったのだ。

「人民革命党事件」の他にも、KCIAによる代表的な捏造事件として、以下の三件を挙げることができる。先ず、1967年7月に発表された「東ベルリン・スパイ団事件」だ。

KCIAは当時、“ドイツとフランスに留学した学生と海外同胞など194人が、東ベルリンの北朝鮮大使館で、更にはそこを経由しピョンヤンに行ってスパイ教育を受けた”と発表した。世界的な作曲家であるユン・イサン先生やイ・ウンノ画伯などが、この事件で「スパイ」に仕立てられた。また、チョン・サンビョン詩人も捜査過程で受けた拷問の後遺症に、死ぬまで苦しんだという。 

だが、国情院がKCIA時期に達成した「対共功績」と自慢するこの事件は後日、KCIAによる捏造だったと明らかになる。注目すべきは、捏造を糾明した機関が他でもない国情院自身だったという事実だ。2006年1月26日、「国情院・過去事件の真実糾明による発展委員会」は記者会見を開き、“内部調査の結果、KCIAが発表した「東ベルリン・スパイ団事件」は、それ自体が捏造だった”と告白した。 

真相は次のとおりである。1967年に実施された国会議員総選挙で、執権与党・共和党は大規模な不正選挙を行う。連日、大学生の激しい抗議デモが続くので、それを鎮めるために事実を歪曲・誇張してでっち上げたのが「東ベルリン・スパイ団事件」だった。真相が明らかになったとして「国情院発展委員会」は、政府が被害者に謝罪することを勧告した。

ところが、このように自ら告白した「東ベルリン・スパイ団事件」に関して国情院広報室は、訪問客を相手にKCIA当時の「対共功績」として宣伝しているわけだ。‘呆れて物が言えない’とは、こんな場合に使うのだろう。だが、これはまだ‘手始め’に過ぎなかった。国情院は1974年2月当時、KCIAが発表した「鬱陵島(ウルルンド)スパイ団事件」も、「対共功績」と宣伝していたからだ。第二の捏造事件だが、果たしてこの事件の真相はどうだったのか? 

再審で無罪判決の「鬱陵島スパイ団事件」

1974年3月15日、KCIAは緊急記者会見で「鬱陵島スパイ団事件」を大々的に発表する。鬱陵島を拠点とするスパイ組織が、一網打尽されたとのことだった。夫と妻、息子など家族と親戚まで網羅したスパイ組織として、47人が検挙された事件だ。

国民は当然ながら驚愕した。“一家族が鬱陵島・ソウル・釜山・大邱・全北の地域で暗躍しながら北朝鮮を往来するスパイ活動をしていた”というのだから、社会的にどれくらい大きな衝撃を与えたことだろうか。この事件で3人には死刑判決が確定し、死刑が執行された。また、拘束者のうち相当数が、懲役10年以上の厳重な処罰を受けた。起訴内容が事実であったなら、“スパイを捕らえる公安機関としては自慢すべき成果”と言えるだろう。 

だが、驚くべきことにこの事件も、KCIAによる代表的な捏造公安事件だったことが明らかになった。事件後に拘束者と家族たちは、死んでも死に切れない悔しさを抱きながら生き延びた。自分たちがしてもいないのにKCIAが捏造し、スパイの汚名を着せられたからだ。

転機が訪れたのは2006年7月26日だった。この事件の1審で死刑、2審で無期懲役を宣告された全北大学獣医学科のイ・ソンヒ元教授が、「真実・和解のための過去事件整理委員会(以下、真実和解委)」に自身の無実を訴えたのだ。それから4年が過ぎ去た2010年6月30日、「真実和解委」は元教授の陳情に対する調査結果を発表した。この事件を“KCIAによる捏造事件”と判断した「真実和解委」は、“不法拘禁および苛酷な拷問により捏造した事件の被害者に対し、国家が謝罪し再審の措置を取るよう”に勧告した。

2010年12月に再審を請求したイ・ソンヒ元教授に、大韓民国の裁判所は2013年6月、再審開始の決定を下す。そしてついに2014年12月11日、大法院(最高裁)はイ・ソンヒ元教授に無罪を宣告した。何と、40年ぶりに真実が糾明されたのだ。大法院はこれ以後、再審を請求した「鬱陵島スパイ団事件」の関連者に相次いで無罪判決を出している。以上が、朴正熙政権が鳴り物入りで宣伝した「鬱陵島スパイ団事件」の実体である。 

国情院が自慢する「功績」は全て捏造事件

国家情報院がKCIAの時期に達成した“3大対共功績”の最後は、1975年11月に発表した「学園浸透スパイ団事件」である。最後の事件もやはり、恥ずべき内容だった。事件を簡単に整理すると次の通りだ。1975年11月22日、KCIAはキム・ドンフィ氏をはじめ在日同胞留学生12人と国内大学生9人など、21人をスパイ容疑で逮捕する。後日、「在日同胞学園浸透スパイ団事件」と呼ばれることになった事件の開始だった。

この事件で拘束された人たちのうち、4人は死刑宣告を受けた。他の拘束者にも重い懲役刑が宣告された。死刑判決を受けた4人はその後、赦免で減刑され「人民革命党再建委事件」のように死刑場で最後を迎える悲劇だけは免れた。事件発表初期からこの事件には、捏造だとの指摘が繰り返されていた。

その後、歳月が流れた。事件当時、懲役4年を受けて服役したキム・ドンフィ氏が無罪を主張して「真実和解委」に陳情したのは。2006年のことだった。そして2010年5月18日、「真実和解委」は4年ぶりにその結果を発表する。結論は‘やはり’だった。「真実和解委」は事件当時、“KCIAが逮捕令状もなしにキム・ドンフィ氏らを不法連行し、20日間もの不法拘禁状態で、殴打などの苛酷行為と拷問により虚偽の自白をさせた”ことを明らかにした。 

その後、キム・ドンフィ氏は「真実和解委」の決定を根拠として裁判所に再審を請求する。そして2012年5月24日、大法院はついに無罪判決を確定した。結局、国情院が自慢してきたKCIA時代の誇らしい「3大功績」は全て、“拷問と強圧捜査がもたらした典型的な公安捏造事件”だったわけだ。 

国情院がKCIA時期の「対共功績」として誤った広報を続けている事実を確認した私は、日程の最後に国情院の高位責任者に問題を提起した。“広報館に設置された「国家情報院の主要沿革」にあるKCIA時期の功績は、その事件が全て再審で無罪になったことをご存じか?”と尋ねたのだ。 

特に、2006年に国情院自ら捏造を認めた「東ベルリン・スパイ団事件」を、9年が過ぎた今でも「功績」として広報するのはいかがなものかと問い詰めた。すると関係者は“広報館にそのような内容があるのか?”と聞き返した。“確認して事実なら修正する”と答えた。

関係者の明確な答弁に安心した私は、それ以上の問題提起をしなかった。すぐにでも修正されるだろうと思ったからだ。しかし、そうではなかった。驚くべきことに、事実を確認したはずの国情院には、何の変化もなかったのだ。

国情院のホームページには、捏造無罪事件が相変らず記載

今年2月にこの問題を提起した後、私はすっかり忘れていた。明確に指摘したので、国情院が速やかに修正するだろうと信じたのだ。そうこうするうちに最近、‘ひょっとして’と疑念が浮かび始めた。それで国情院のホームページに入って「国家情報院歴史」のメニューから「主要沿革」をクリックした。結果は‘失望’だった。 

国情院の公式インターネット・ホームページのうち、関連内容は去る2月当時と全く変化がなかった。相変らず「1967年東ベルリン事件」と「1974年鬱陵島スパイ団事件」、そして「1975年学園浸透スパイ団事件」は、国情院がKCIA時期に達成した「偉大な対共功績」として堂々と記載されていた。

こんなことが許されていいのだろうか。大韓民国の法律により再審で無罪が宣告された事件に対して、しかも国情院が自ら捏造を認めた「東ベルリン事件」が、相変らず彼らの重要な「対共功績」の成果として堂々と記載されているとは、驚愕を禁じ得ない。国情院はいつまでこの問題を放置するのか訊ねたい。

怠惰のせいなのか、でなければ‘自分たちの捏造を認定できない’小心な抵抗なのか、正確な理由は分からない。前者なら反省しなければならないし、後者ならば、国家機関として有り得ないことだ。 

公安捏造事件の被害者たちが凄惨な法廷闘争を経て勝ち取った無罪が、国情院の広報館とインターネット・ホームページでは相変らず「有罪」として残っている現実は、悲しい。国情院の反省を促すとともに、早急な是正措置を強く要求する。それが、捏造された公安事件によって犠牲となった方たちに対し、国家情報院ができる最小限の道理であることを自覚すべきであろう。

*追記

紹介した上記の記事は7月1日付で『オーマイ・ニュース』に掲載されました。反響を恐れたのか、国情院は数日後にホームページ上で関連事件を削除しています。しかし、国情院が削除した経緯や自らの立場を明らかにしていないので、正確な削除の日付は確認できていません。無罪が確定した捏造事件に関して誤報を続けたにも拘らず、国情院が一言の謝罪もしていないことは責任の回避と言わざるを得ないでしょう。国情院は被害当事者に対し、真摯な謝罪を行うべきです。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿