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ある在日中国朝鮮族の物語

2011年11月20日 | 東北アジアの平和

★今日は日曜日、時間に余裕のある方はご一読をお勧めします。リンク先のハンギョレサランパンに、在米中国朝鮮族に続き在日のチェさん一家の物語がつづられています。

保守はもとより進歩言論でもそんなに扱われることの無かった在外同胞についての、本格的取材に基づいた記事、転載します。 N

 

←東京の代表的な庶民の町 上野に位置した朝鮮族食堂‘千里香’にソラン朝鮮族第一中学校を卒業した同窓が集まった。左側からチェ・インウォン、チェ・ヤングク、イム・チョル、キム・オンニョ氏

1980年代末から朝鮮族の若者たちは日本に留学に出た。韓国で日雇い仕事をして金を稼ぐ朝鮮族の両親たちが子供の留学費用を作ってくれた。現在日本には5万3000人余りの朝鮮族が滞留している。 その内33%が留学生だ。 日本で就職した人は27%だが、相当数は留学直後に現地で働き口を得たケースと推定される。最高学歴のエリートが日本滞留朝鮮族の主流をなす。韓国滞留朝鮮族の大多数が日雇い労働に従事していることと比較される。 中国東北地域で農業をした朝鮮族1世代、外国に出て下層労働を担当した2世代に続き、修士学位以上の高学歴に韓国語・中国語・日本語に全て堪能で世界を自分の舞台としようとする朝鮮族3世代が登場したのだ。

19HI0‘スメバ ミヤコ’。チェ・インウォン(33)氏は中国朝鮮族学校でその言葉を習った。 正しい意味は日本に来て悟った。‘自分が住む所が故郷’または‘なじめば故郷’という日本のことわざだ。 今のチェ氏の心情だ。 大地震の恐怖さえ東京を離れる理由にはならなかった。 東京は暮らしながらなじんでしまった彼の2番目の故郷である。


勉強のできる朝鮮族の青年たちは中国の大学を卒業して日本留学に出る。
韓・中・日語が可能だから日本では出世の道が開かれる。


彼は中国、吉林省、ソラン市の農村の村で生まれた。韓国に行った未亡人の母が彼の学費を作ってくれた。北京交通大を卒業した後、日本の横浜国立大で修士課程を終えた。 日本最大の生活用品製造業者に就職し中国輸出業務を受け持っている。 中国国籍の本社職員はチェ氏一人だ。 会社は日本人の入社同期を抜いて彼を一番最初に係長に昇進させた。 民族差別はなかった。 むしろチェ氏を配慮した。 去る3月の大地震直後、会社は被害復旧のために非常事態になった。 それでも日本人の部長はチェ氏の休暇を許した。「分かったよ。 行って来いよ。」 一人息子を心配する母親に会いに韓国に行ってくるというチェ氏の話に躊躇なしに答えてくれた。


日本は彼に全てのものを与えた。 韓国は違った。 母親に会いに正月や秋夕(チュソク)の時に韓国に行けばタクシー運転手からしてチェ氏を無視した。チェ氏の話し方は韓国人と違ったし、そのようなチェ氏をタクシー運転手はためらいなく無視した。「今後も韓国で仕事をするつもりはありません。 私たちの両親が韓国で蔑視されたことを考えれば韓国には行きたくもないし。」 早くに父親と死別したチェ氏にとって‘私たちの両親’とは朝鮮族の壮年層全体を意味する。彼は‘差別’ではなく‘無視’という単語を選んで繰り返し力を込めた。 朝鮮族の歴史的・文化的自尊が韓国人により傷ついたという意だ。


チェ氏は来年には日本永住権を受け取る。 韓国で家政婦として仕事をしている母親も日本に迎えるつもりだ。 100年前、日帝によって満州へ強制移住させられた朝鮮族の子孫は今は日本で心の平和を得ている。


歴史は時に逆説の人生を産む。中国人は中等学校で英語を習う。中国東北地域の朝鮮族学校だけが日本語を第1外国語として教える。日帝侵略と満州国時期を体験した朝鮮族の中には日本語を駆使するエリートが多かった。 中国建国以後にも彼らが民族教育の一つの軸を担当したし、その脈は今も続いている。日本語は韓国語と文章構造が同じだ。 朝鮮族の学生は漢族の学生よりはやく日本語を覚える。


中国東北の朝鮮族農村の村に閉じ込められていた日本語使用者は1980年代に新たな転機をむかえた。 80年代初期に執権した中曽根康弘日本総理は‘留学生10万人誘致政策’を推進した。 日本の知的・文化的影響力拡大を念頭に置き、アジア各国の学生に留学の門戸を開放した。 日帝統治から始まった朝鮮族の日本語の実力は日本保守政治家の政策によって花開いた。 朝鮮族重点学校(成績上位学生たちだけが入学する名門学校)卒業生の半分が日本に進出する事態まで起きた。 日本留学は勉強のできる朝鮮族学生たちの夢になった。

小平はそのような朝鮮族エリートらにエンジンを付けた。文化革命以後、事実上廃止された中国の大学入試が1978年の改革・開放政策と共に復活した。出身成分などにより決定されていた大学入学機会をすべての中国人に開放したのだ。 ただ少数の学生だけが延辺(ヨンビョン)大など民族大学に進学できた朝鮮族は北京・上海など内陸の中国名門大に視線を転じた。


すでに彼らの教育熱は中国56ヶ民族の中で最も高かった。延辺(ヨンビョン)朝鮮族自治州の場合、1952年に小学校,1958年に中学校を義務教育化した。 1950年代に民族大学3ヶ所の設立を終えた。 今でも民族別人口比で見る時、朝鮮族の大学生が漢族の3倍、他の少数民族の5倍を越えている。 子供を民族大学または、中国内陸大学に進学させた後、日本に留学させるのは80年代中盤以後すべての朝鮮族両親の夢になった。


チェ氏とともに吉林省ソラン朝鮮族第一中学校を卒業した80余人の中で15人が日本へ留学したり就職した。(表参照)その中の1人のチェ・ヤングク(33)氏はソラン朝中理科班を卒業した。超中(中学校)・高中(高等学校)の間、ずっと日本語を習った。それは日本企業に就職する上で決定的に役立った。 吉林省で大学を卒業して3ケ月後に日本の情報通信企業に就職した。 中国、大連にある支社で2年間仕事を学び東京の本社に移ってきた。


日本企業にとって朝鮮族は‘高級人材’だ。 1990年代から中国投資を始めた日本企業は日本語と中国語に堪能な人材を求めた。 朝鮮族エリートがそれに応えた。 「高中(高等学校)を終えた朝鮮族の上昇欲求が制度的障壁で詰まっていたが、中国に投資した外国系企業がその道を開けた」とパク・グァンソン中国北京中央民族大教授は分析する。


日本朝鮮族5万3千人の内33%が留学生で大多数が日本での就職に成功している。
「蔑んで無視する韓国では仕事をするつもりはありません。」


日本企業の賃金は中国はもちろん韓国企業よりはるかに高い。チェ・ヨングク氏は現在、約500万円(約7300万ウォン)の年俸を得ている。 中国、天津の韓国大企業中国法人で課長として仕事をする2才上の兄より年俸が高い。日本滞留9年目の今年の初め、チェ・ヨングク氏は3500万円の‘マンション’(高級アパート)を購入した。東京西郊の相模原のマンションは妻と3才の娘が一緒に暮らすに充分だった。一生、農作業をしていた両親とともに暮らした吉林省ソランの古い田舎の家とは比較にもならない。


吉林省の農村の村の田舎の家から東京郊外のマンションへ向かう中間に韓国がある。中国と日本で同時多発的に開かれた身分上昇の機会を握るためにはお金が必要だった。朝鮮族が農業で稼げる所得は今でも年間3000~4000中国元(約54万~72万ウォン≒5万円)程度に過ぎない。 80年代中盤から始まった朝鮮族の‘韓国ブーム’は日本または中国内陸大都市に子供を留学させようとする苦闘でもある。 日本で会った朝鮮族留学生の大多数の両親は相変らず韓国で仕事をしている。


朝鮮族の未来を担った‘日本留学派’がまだ解決できていない問題がある。日本が彼らに提供した機会は多いが、しっかりと定着するにはまだ足りないことがある。 東アジア3国が朝鮮族に上書きした‘ガラスの天井’がある。ソラン朝中卒業生のイム・チョル(34)氏は中国最高の名門 北京大で政治学を専攻した。 学科の漢族同窓は大部分が公務員になった。 イム氏は日本留学を選んだ。 中国は‘関係・人脈'が支配する社会なので朝鮮族公務員の限界が明らかだと考えた。 イム氏は日本の早稲田大学で政治学修・博士学位を受けた。


朝鮮族エリートが中国最高権力側に接近できない歴史の根は深い。1930年代‘民生団’事件の時、中国共産党は朝鮮族民族主義指導者らを日帝のスパイに追い立て粛清した。 1960年代‘文化革命’時期には抗日運動家出身の朝鮮族指導者が改良主義者にされて大挙粛清された。 以後、数十年間、賢い朝鮮族の若者は文科の代わりに理科を選んだ。 チョン・シンチョル中国社会科学院教授は「中国の他の少数民族とは違い朝鮮族には‘領袖人物’がいなくて、民族のエリート集団が形成されえなかった」と分析した。 民族の運命を切り開く政治的指導者グループがなかったという意だ。


しかし企業分野を別にすれば日本の高位層もやはり異民族には排他的だ。イム氏は先日、一緒に北京大を卒業した朝鮮族の友人に会った。 彼は日本で弁護士試験に合格し日本最大規模の法律会社で仕事をしている。 成功街道を走っているとばかり思っていた友人は苦々しい顔で話した。「いくら熱心に仕事をしても(法律会社の役員級弁護士には)絶対に上がれないのだ。」彼の年俸は同じ経歴の日本人弁護士の半分にも達しなかった。


そして韓国. 彼らの先祖の本来の故郷である韓国は日雇い労働に疲れた彼らの両親をむやみに蔑む国であることを朝鮮族最高エリートは骨の髄まで深く知っている。

世界を舞台とする朝鮮族3世の面倒見は
韓国で金を稼ぐ両親たちの役割だ。
彼らの夢は‘子供の成功’だ。


東京のある研究所で仕事をするイム氏はこの頃、大学教授の席を探している。日本の大学に固執するわけではない。 彼は韓国語・中国語・日本語・英語に堪能だ。 どこの国に行っても関係ないと考える。 どうせ帰る故郷はない。 日本に進出した15人のソラン中同期の中で8人が中国に帰ったが、故郷の吉林省ソランに定着した友人は一人もいない。 彼らの両親もやはりソランの農村の村を離れて久しい。


その村には思い出が宿っている。 子供たちはこちんこちんに凍りついた川でソリに乗って石を独楽にして疲れるまでふざけた。しかしもう青年になった彼らは思い出だけでは生きられない。 故郷の村には働き口がない。


東京/文・写真ユ・シンジェ記者 ohora@hani.co.kr


原文: http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/506172.html 訳J.S


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3 コメント

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中国朝鮮族女性 (ゆり)
2012-02-19 14:52:28
偏見を持ってる韓国人が書いたニュースですね。
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中国朝鮮族女性 (ゆり)
2012-02-19 15:03:10
私も朝鮮族なので分かります。上の記事を見ると共通点が多いのもあります。

ですが、彼らの場合には民族意識が高いのです。

彼らと私の共通点は、日本が我々に希望とチャンスをくれたことです。だが、彼らはまだまだ民族意識が強いところが残念であり、視野が狭いと思います。

戦争までではないですが、日系アメリカ人のように切り捨てるべきものは切り捨てたほうが良いです。

日本で全てのチャンスと、希望を得るならば、日本人として、誇りを持って、これからも頑張ってほしいです。
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Unknown (若麻績)
2012-05-24 13:36:04
みんな 日本へ いらっしゃっい

心 傷きながらも 決して 心を 汚さずに 生きてきた 善き心の 皆さま方こそ 日本へ いらっしゃって ください。
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