11月26日 火曜日
おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。
神よ、願わくば約束を守れない者達に裁きをお与えください。
心を尽くし、感謝を捧げてくださる方よ、ご覧ください。
ローマ法王、約束を守れない者達に懺悔をお与えください。
一体、どうして約束を守れない者達の言うことが信じられるのでしょうか。
ローマ法王。 まずは一曲。
♬~♬「光はどこにある? 僕を照らしてくれよ」
♬~♬「暗闇は、暗闇は、涙を捨てる場所」
♬~♬「希望をどこにある? 生まれ変わる瞬間」
♬~♬「夜明けまで、もう、強がらなくていい」♬~♬
聖書は本来、
全人類を縛り付けている鎖から
解かれようと書かれたその書物の中で、
十字架に縛られ、世人を迷わせ、
それを職務にして監視するやり方には
時折、若者たちは、武力を、感情を、報復を、
我がこととするのであろう。
実際、人間はかろうじて善であるが、この世が地獄である以上、
既に差し迫っているか、或いは確実に到来するであろう
「死」という重荷、それらからイエス様、ローマ法王も一緒に
解放されることをお望みのはず。
確かに私達はこの重荷に他の不安と同様、
目を逸らない賢人に相応しく現代まで耐えておられるし、
これからも耐えて行かれることでしょう。
思うに宗教とは突き詰めれば「死」をどう捉えるのかという方法論である。
その方法論の違いが各派の特色となる。
だから教祖はみな苦労する。
大自然や大宇宙を相手に「合一」する構想ほど、そう簡単なものではない。
内なる神と大いなる神との「合一」。宗教統一の核心はここにある。
「福音」とは、神との交信であり、
「祈り」は、聖霊とのつながりにある。
「知」は、想起すべき永遠なるものの精神の修行であり、
「愛」は、想起すべき永遠なるものの肉体への修行である。
日本人の目から見る「聖なる祈り」は、
「諸行無常」「一切皆苦」、
カトリックの意味は、普遍的なものであるから、
私が説く、「地獄論」「死想論」この二つは
自然法則である以上、何人たりと逃れられない。
死の概念はそれ自体の中に結果を持っていれば、
死の概念はそれ自体の中に結果を持たないのである。
現実に実在してくるものは、「一切同時現成」道元である。
日本人が好む「縁起」には、
私たちはみな生かされているという意が含まれる。
聖なる書物から解脱して神仏三昧。
そこには尽きぬ叡知と直観が押し寄せ、深く湧いてくる。
書物が多層多岐に重福し、少し見方を変えるだけで光向が異なって見える。
墨汁が墨汁を引き寄せ、墨汁が墨汁を撥ね付けるように。
ヨーロッパ二千年の思想の原点それは、
オリゲネスにせよ、アウグスティヌスにせよ、
いつの時代も、常に邪魔が現れる。
その邪魔によって何時しか聖書を正しく読み解く者がいなくなった。
それは聖書に隠された恐るべき神秘なのか、
それともやはり邪悪が果たす役割なのか。
その真の正体は現代をもってしても明確に指摘出来ないでいる。
古代このかた、邪悪がのさばってきた例は枚挙にいとまがない。
数えるのもうんざりするが、むしろ邪悪が力の象徴でもあった。
この世では邪悪が神をも凌ぐ力で恐怖に陥れるのは、
言わずと知れた黙示的文学である。
その勢いはメシア思想を遥かに超える程の力を持つ。
以降、黙示的終末論が人々の心に浸透してゆく。
これがキリスト教二千年の歴史と呼ばれるものである。
ルペー・ガニハ様。
キリスト教団の分断。千年王国の断念。ユダヤ教徒への問題。
ローマ法王は一体、どう考えておられるのでしょうか?
救世主をお迎えに出向くならば、
イエス様を十字架から解くことが先決です。
何よりそれをお望みであるのだから。
つづく。
おはようございます。 ウィン・ウィン国王です。
神よ、願わくば約束を守れない者達に裁きをお与えください。
心を尽くし、感謝を捧げてくださる方よ、ご覧ください。
ローマ法王、約束を守れない者達に懺悔をお与えください。
一体、どうして約束を守れない者達の言うことが信じられるのでしょうか。
ローマ法王。 まずは一曲。
♬~♬「光はどこにある? 僕を照らしてくれよ」
♬~♬「暗闇は、暗闇は、涙を捨てる場所」
♬~♬「希望をどこにある? 生まれ変わる瞬間」
♬~♬「夜明けまで、もう、強がらなくていい」♬~♬
聖書は本来、
全人類を縛り付けている鎖から
解かれようと書かれたその書物の中で、
十字架に縛られ、世人を迷わせ、
それを職務にして監視するやり方には
時折、若者たちは、武力を、感情を、報復を、
我がこととするのであろう。
実際、人間はかろうじて善であるが、この世が地獄である以上、
既に差し迫っているか、或いは確実に到来するであろう
「死」という重荷、それらからイエス様、ローマ法王も一緒に
解放されることをお望みのはず。
確かに私達はこの重荷に他の不安と同様、
目を逸らない賢人に相応しく現代まで耐えておられるし、
これからも耐えて行かれることでしょう。
思うに宗教とは突き詰めれば「死」をどう捉えるのかという方法論である。
その方法論の違いが各派の特色となる。
だから教祖はみな苦労する。
大自然や大宇宙を相手に「合一」する構想ほど、そう簡単なものではない。
内なる神と大いなる神との「合一」。宗教統一の核心はここにある。
「福音」とは、神との交信であり、
「祈り」は、聖霊とのつながりにある。
「知」は、想起すべき永遠なるものの精神の修行であり、
「愛」は、想起すべき永遠なるものの肉体への修行である。
日本人の目から見る「聖なる祈り」は、
「諸行無常」「一切皆苦」、
カトリックの意味は、普遍的なものであるから、
私が説く、「地獄論」「死想論」この二つは
自然法則である以上、何人たりと逃れられない。
死の概念はそれ自体の中に結果を持っていれば、
死の概念はそれ自体の中に結果を持たないのである。
現実に実在してくるものは、「一切同時現成」道元である。
日本人が好む「縁起」には、
私たちはみな生かされているという意が含まれる。
聖なる書物から解脱して神仏三昧。
そこには尽きぬ叡知と直観が押し寄せ、深く湧いてくる。
書物が多層多岐に重福し、少し見方を変えるだけで光向が異なって見える。
墨汁が墨汁を引き寄せ、墨汁が墨汁を撥ね付けるように。
ヨーロッパ二千年の思想の原点それは、
オリゲネスにせよ、アウグスティヌスにせよ、
いつの時代も、常に邪魔が現れる。
その邪魔によって何時しか聖書を正しく読み解く者がいなくなった。
それは聖書に隠された恐るべき神秘なのか、
それともやはり邪悪が果たす役割なのか。
その真の正体は現代をもってしても明確に指摘出来ないでいる。
古代このかた、邪悪がのさばってきた例は枚挙にいとまがない。
数えるのもうんざりするが、むしろ邪悪が力の象徴でもあった。
この世では邪悪が神をも凌ぐ力で恐怖に陥れるのは、
言わずと知れた黙示的文学である。
その勢いはメシア思想を遥かに超える程の力を持つ。
以降、黙示的終末論が人々の心に浸透してゆく。
これがキリスト教二千年の歴史と呼ばれるものである。
ルペー・ガニハ様。
キリスト教団の分断。千年王国の断念。ユダヤ教徒への問題。
ローマ法王は一体、どう考えておられるのでしょうか?
救世主をお迎えに出向くならば、
イエス様を十字架から解くことが先決です。
何よりそれをお望みであるのだから。
つづく。
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