酒好き文化風俗研究者

みんなで美味しいお酒を飲む方法を模索中!
酒好きの最大の敵であるアルコール依存症に勝つ事を支援しています。

死想論(ヨーロピアン・スタイル)

2020-04-15 | ウィン・ウィン王国
 4月 15日  水曜日

 おはようございます。 ロスト・ロスト大王です。


宗教家によると、

世界中の人々は死によって一つになる。

死は世界の秩序を組み立てる究極の真理であるそうだ。

ヘーゲルは、

動物から人間への移行の決定的な要素が死であることを主張し、

カントもまた、

死、とくに死への恐れが将来という時間に対する想像力を掻き立てることを指摘している。

人間的なもののその死が直接的かつ常に存在する限り、

人間の全体性は恒常的にあらゆる人間に現生する。

人類の真理に関する予測が万人へと向けて出現されるのである。

私たちは一つの運命を持ち、歴史は一つの真実を語る。

いずれにしろ、死を通じて人類の目を開かせる何かが必要なのだ。

何らかの死を超えて明るみに出そうとする試みである。

だが一方、

死の観点から見れば、死ぬまで知らない方がよいこともある。

死ぬことは私の主体的な出来事なのだが、私はそれを認識することが出来ず、

それ故、私にとってそれが真実を持たないからである。

人は自分が認識出来るものによって成されていると言うサルトルの実在である。

また、ハイデガーは、

不安という感情は人間が自己の死の可能性に直面し、

実在の不可能性に脅かされ続けることだと言う。

現存在が不安という感情のうちにあるのは、

己の実在が無に、すなわち死に直面している時なのである。

そしてその死に直面した人間は、日常的に黙認しつつ、

死の不気味さに困惑させられていることを認識するのである。

フロイトの話によると、

死が日常の出来事となり、

誰もが死に直面せざるを得ない状況から、

西洋文明における死に対する偽善的な姿勢が崩壊したことを指摘する。

死がもはや目を背けることの出来ないものとなったのである。

死というものは実は人間の深いところを規定していたのである。

私たちの社会が死と深い関係にあることには疑う余地はない。

我々の社会は常に死の恐怖に動かされているのが現状だ。

フロイトはこう話している。

死に対してこれまで固辞してきた姿勢に混乱が生じている。

私達は死に対して率直な姿勢をとってきたとは言い難い。

死はすべての生けるものにとって避けがたい出口であること、

人間は誰も自然に対して死という「ツケ」を払う

準備をしておくべきであることを認めるのである。

ところが実際には

私達はまるでそうではないかのように振る舞っている。

私達には死を見えないところに隠してしまい、

生から死を排除しようとする傾向があることは疑問の余地のないところである。

まるで死を黙殺しようとするかのようであり、

「それを死のごとくないものと思え」という諺に表れている。

その死とはもちろん自分の死のことである。

自分の死を思い描くことが難しく、

死を思い描こうと努力すればするほど、

観察者のように自分の死を見守ることが出来ないことが分かる。

この為、精神分析の世界では、

誰も自分が死ぬとは信じていないことと同じことが無意識の内では

誰もが自分が不死だと確信していると考えられているのである。

他人の死については、

文明人は死を迎えようとしている者の近くでは、

死について口にしないよう慎重に振る舞う。

成人した文明人は他人の死を思い出すことも好まず、

思い出した場合には自分のことを悪い人だと思い込むのである。

他人が死ねば自由が得られるとか、財産を受け継げるとか、

地位が与えられるという場合にも、

文明人であれば他人の死に後ろめたさを感じるのである。

勿論この様な思いやりを示したからといって、

死ぬ恐怖が和らぐ訳ではない。

死が訪れると、その度毎に私達は深く動揺し、

期待を裏切られた気持ちになるのである。

そして死は事故とか疫病とか感染とか、

偶発的な出来事をきっかけとして起こるものだと強調しがちだが、

その背後には死を必然性ではなく、

偶然性なものと考えるという願いが見え隠れしているのである。

そして他者の死が続くと、

何か恐ろしいことが起きたかのように感じるのである。

私達は死者に対しては、

極めて困難なことを成し遂げた人に対する

崇敬の念を感じるかの様な、ある特別な姿勢を取る。

そして死者を批判しないようにする。

死者が何か悪しきことをしていたとしてもそれを見逃し、

死者について善きことのみを語れと命令するのである。

葬儀や墓前ではできるだけ褒め称えることが相応しいとされている。

死んでしまった者はもはや他人の誉め言葉を必要しないのに、

死者に敬意を払うことが現実的で一番大切なこととされている。

私達の多くは生者に対するよりも大きな尊敬の念を死者に払うのである。


私たちの感情の絆と悲しみの耐え難いほどの強度のために、

自らは危険を避け、親しい者にも危険を冒さないようにする。

それは考えるだけでマヒしてしまう。

死を生の考慮の内から排除しようとするこの傾向のために、

他にも様々な営みが断念され排除されてきた。

だから私達は死によって

失われてきたものの代償を生のうちで探し求めるには、

文学を通じて様々な体験に頼るしかない。

私達が死と和解することが出来る条件が満たされるのはこの文学だけである。

ここでのみ、死の様々な浮き沈みにも悲しみにも関わらず、

不可侵の生というものを維持することが守られるのである。

フロイトはこう言い残しています。

「生に耐えようとすれば、死に備えよ」と。



    つづく。






コメントを投稿