小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

574 大国主と垂仁天皇 その11

2017年02月25日 01時36分17秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生574 ―大国主と垂仁天皇 その11―
 
 
 日置氏は各地に分布しており、丹波にも日置氏が存在していました。
 丹波の日置氏の本拠は丹波国多紀郡(現在の篠山市)だったとされていますが、それは
「丹波国多紀郡司案」に、
 
 「国老 日置公
  検校 日置公 権大領日置公」
 
とあるからです。
 それから、与謝郡にも拠点があったようです。
 与謝郡が位置する辺りは後の丹後国として分国されますが、ここにも日置氏の拠点が
あったとされる理由は、日置の里という地名が存在したからです。
 
 『釈日本紀』に収録された、『丹後国風土記』には浦島太郎の原型と言われる伝承が
載せられていますが、その文中に、
 
 「與謝郡日置の里(よさ郡ひおきの里)。この里に筒川の村あり。この村に日下部首
(くさかべのおびと)らの祖で名を筒川の嶼子(しまこ)なる者がいた。容姿流麗で風流
なる事類を見ない。この者はいわゆる水の江の浦嶼(うらしま)の子という者であった」
 
と、日置の里の地名が登場するのです。
 
 その伝承は簡潔にまとめると次のようになります。
 
 雄略天皇の時代、浦嶼子が五色の亀を得ましたが、この亀の正体は亀比売(かめひめ)
という神女だったのです。
 神女は嶼子に求婚し嶼子を海中の島、蓬莱山につれていきます。
 嶼子は蓬莱山で3年の月日をすごしたが、故郷の両親のことが気がかりで、ついには
村に帰ることにしました。
 この時、神女は、玉手箱を嶼子に渡し、
 「もし私のことを忘れず、また戻ってこようとお思いならばこの玉手箱をお持ち続けて
下さい。でも絶対に開いてはなりません」
と、告げます
 こうして嶼子が筒川の里に戻ってみると、陸ではすでに300年の月日が経っていました。
 嶼子は、十日間自分が知る人たちを探して回りますが、ついにひとりも見つけることが
できず、途方に暮れ、神女のことを思い出して恋しく思っているうちに、つい神女の言い
つけを忘れて玉手箱を開けてしまいます。
 すると、たちまち嶼子は老人へと変わり、また蓬莱山にも戻れなくなってしまったのでした。
 
 「丹後国風土記逸文」はこの主人公を、
 
「日下部首(くさかべのおびと)らの祖で名を筒川の嶼子(しまこ)」
 
と、しますが、与謝郡には日下部連も関係していたようです。
 日下部連は、『古事記』によれば日子坐王(ヒコイマスの王)の子、沙本毘古王(サホビコ王)
を始祖とします。
 サホビコは垂仁天皇の皇后サホビメの同母兄であり、ここにも日子坐王の系譜と垂仁天皇が
絡んできます。
 
 それで、日下部連が与謝郡に関係するというのは、『日本書紀』にそのような記述がある
からです。
 
 市辺之忍歯王が近江の蚊屋野にて大長谷皇子(雄略天皇)に殺害された後、市辺之忍歯王の
ふたりの皇子は難が及ぶのを恐れて逃走しますが、この時に二皇子の逃走を手伝ったのが、
日下部連使主(くさかべのむらじおみ)とその子吾田彦(あたひこ)の親子です。
 そして、日下部連使主が二皇子を連れて行った先が丹波国余社郡(後に丹後国与謝郡)だった
のです。
 しかし、なおも追手が来るのを恐れて与謝郡を脱すると、最終的に二皇子と吾田彦は播磨の
忍海部造細目に仕え、吾田彦は二皇子に離れることなく従った、といいます。
 なお、使主は逃亡の途中で自決してしまいます。
 二皇子が忍海部造細目のもとに身を隠した、というのは、二皇子の叔母が忍海飯豊青尊(オシ
ヌミノイイトヨノアオノミコト)と称したこと、また、日子坐王の異母兄弟、建豊波豆羅和気命の子孫に、
忍海部造、稲羽の忍海部、丹波の竹野別らがいることと無関係ではないのかもしれません。
 
 この水の江の浦嶼の子は雄略天皇の時代のできごとと「丹後国風土記逸文」は記しています。
 『止由来宮儀式帳』によれば、丹波国の比沼の真奈井にいる等由気大神(豊受大神)を伊勢神宮の
外宮に遷したのは雄略天皇の時代のこと。
 そして、市辺之忍歯王の二皇子が丹後に逃れたのも雄略天皇の時代のこと。
 これら3つの説話はすべて雄略天皇の時代の出来事とされているわけです。
 その理由として、おそらく雄略天皇の時代に、丹後に何らかの影響が大和政権によってもたら
された、ということがあったのかもしれません。
 丹後地方では、4世紀から5世紀のはじめにかけて、全長が190メートルの神明山古墳や
全長198メートルの網野銚子塚古墳、全長145メートルの蛭子山古墳といった巨大古墳が造られて
おり、強大な勢力が存在していたと考えられるのですが、しかし、5世紀後半になると巨大古墳は
築造されなくなっているのです。
 5世紀後半と言えばちょうど雄略天皇の時代が丁度その頃だと推測される次期でもあります。
 日下部連使主が追っ手を恐れて自害したとか、二皇子が丹後を出て播磨に逃れたというのも、
大和政権の軍事力が実際に丹後に及んできたのかもしれません。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿