小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

良薬口に苦し

2016年01月31日 00時49分26秒 | 日記
2013年1月8日(火)(4歳9か月)
 
 
 風呂に入れてやっている時に、春奈が僕に話しかけてきた。
 
 「鼻水出て困るわ。神様困ります、ってお願いしたけど。
すぐにはムリやな」
 
 そんなことくらいで神頼みすんなよ。
 
 神様かて逆に困るわっ!
 
 それよりも薬を飲めよ。
 
 すると、みんたが言うには春奈は薬を嫌がって飲まない
そうだ。
 
 まあ、薬が好きな子供の方が珍しいわな。
 
 そう言えば僕が小さい頃、薬を飲まされる時によく母親から、
 
 「良薬口に苦し、って言うんやで」
 
と、言われたっけな。
 
 そんなもん関係ないやろ、と子供心に思ったものだけど、
いつしか飲みにくい味の薬に出会うと、まずからこそ逆に
効きそうに思えるようになった。
 
 一種の自己暗示というか「鰯の頭も信心から」ってやつ
なんだろうけど、そんな効果も含めて昔の人はいいこと
言うものだ。
 
 ネガティブな気分になるところも言葉ひとつでポジティブに
変換してしまうのだから。
 
 

475 難波と大和と神婚譚④

2016年01月28日 01時01分39秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生475 ―難波と大和と神婚譚④―
 
 
 中臣氏や小子部氏(ちいさこべ氏)、それに鴨氏(鴨県主)が雷と結びつく理由。
 このうち、小子部氏と鴨氏については、養蚕と結びついている、という志田諄一
(『古代氏族の性格と伝承』)の指摘があります。
 
 養蚕と雷が結びつくことは、古くから、雷が鳴った時に「くわばら」と唱えると雷が
落ちない、という民間信仰があります。
 これは、桑原には雷が落ちないという言い伝えから来たものです。
 桑原はその名のとおり、桑の木を多数植えたところをいいます。桑の葉は蚕の
エサになります。
 
 それでは、小子部氏、鴨氏と養蚕の関係ですが、『日本書紀』によれば、小子部ス
ガルは雄略天皇から「蚕を集めよ」と命令されますが、「子を集めよ」と聞き間違えて
たくさんの嬰児を集めてきたので、雄略天皇からこの嬰児たちの養育を命じられ、
同時に小子部の名を賜った、とあります。
 この記事を、志田諄一は、雄略天皇はスガルに、養蚕に従事する秦氏の一族を
集めさせたのはないか、と考察するのです。
 秦氏が養蚕に従事する氏族であったのは、『日本書紀』に、秦氏が天皇に絹を
献上した記事や、桑の木を植えたり、秦氏の民を各所に散らばせて絹の生産を
させたとする記事(雄略天皇十六年)があることから想像できます。
 志田諄一がこのように考えた理由のひとつに、『新撰姓氏録』の秦忌寸の注釈に、
 
「天皇遣使小子部雷。率大隅阿多隼人等。捜括鳩集。得秦民九十二部一万八千
六百七十人。遂賜於酒。爰率秦民。養蚕織絹。盛

月は単純だからかな?

2016年01月26日 01時16分27秒 | 日記
2013年1月7日(月)(4歳9か月)
 
 
 家に帰ると、春奈が泣きべそをかきながらスナックパンを
貪っていた。
 
 「どうした?」
 
と、訊くと、
 
 「りえにしかられた」
 
 叱られるようなことって、何をやらかしたんや?と、思ったら、
みんたが代わりに説明してくれた。
 
 「保育園のお友達が手紙くれたから返事を書こうと、りえに
教えてもらいながら書いとってんけど、『ひらがな間違ってる』って、
しょっちゅう怒られて泣いててん」
 
 「スパルタかよ」
 
 「りえにも、厳しすぎるで、言うたら、『そうかなあ』って、ちょっと
反省してたけど」
 
 すると、そこに春奈が、
 
 「パパも見る?」
 
と、その手紙を差し出してきたので読ませてもらうことにした。
 
 「はるなちゃんへ いつもあそんでくれてありがとう またいっしょに
あそんでね げんきにしてた?」
 
と、書いてあった。
 
 みんたが、
 
 「全部ひらがなやけど、もう字が書けるんやなあ。はる、この子
何月生まれ?」
 
と、訊くと、
 
 「3月。2か5」
 
と、春奈が答えた。
 
 「3月か、2月か、5月?」
 
 「ちがう。3月。2か5」
 
 「あ、3月2日か3月5日が誕生日ってこと?」
 
 春奈が頷く。
 
 そうか、春奈はまだ〇〇日という言い方ができないのか。
 
 ゆうきとりえの時はどうだったかな?ちょっと思い出せない。
 でも、覚えているかぎりでは、小学校に入った当時は「1日」を
「ついたち」ではなく「いちにち」、2日を「ふつか」じゃなくて
「ににち」って言ってたような気がするな。
 
 その点、月はふつうに数字を言って「がつ」を付ければいいだけ
だから小さい子でも言えるのだろうな。

474 難波と大和と神婚譚③

2016年01月25日 00時10分54秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生474 ―難波と大和と神婚譚③―
 
 
 そのひとつが、チイサコベノスガルの伝承です。チイサコベノスガルは『日本書紀』では少子部
蜾蠃、『日本霊異記』では小子部栖軽と記されています。なお、チイサコベ氏は『古事記』では
小子辺連と記されています。
 連(むらじ)の姓(かばね)を持つこの氏族も、『日本書紀』や『日本霊異記』では雄略朝で活躍
したことになっていることから、物部連、大伴連、中臣連らとともに允恭系の天皇が続いた時代に
台頭してきたものと思われます。
 
 さて、『日本書紀』の「雄略紀」では、スガルは雄略天皇がから御諸岳の神を捕らえるよう命じ
られます。しかしスガルが捕らえてきた御諸岳の神は大蛇の姿をしていて目は輝き、体から
雷光を放っていたのでした。
 一方の『日本霊異記』では、雄略天皇から、「雷の丘(奈良県高市郡明日香村にある雷岡に比定)の
雷を捕らえろ」と命じられて雷を捕らえるという話になっています。
 
 三輪山の別名が御諸山ということから、また『日本書紀』の「崇神紀」では、大物主が小さな蛇の
姿をモモソヒメに見せていることから、大物主は蛇神であり、スガルの捕らえた御諸岳の大蛇は
大物主であると解釈されることが多々あります。
 ですが、『日本書紀』はスガルの捕らえた大蛇のことを、
 「或はいわく、この山の神を大物主神というと云う」
と記しており、あくまでも大物主とは別の神と考えていたようです。
 それに、モモソヒメの伝承が『古事記』に載せられていないことから、本来は、大物主以前に
三輪山で祭祀されていた神で、大物主とは別神であるともいわれています。
 
 御諸山、三輪山という名称についても、三輪氏がこの山で大物主の祭祀をおこなうようになって
三輪山と呼ばれるようになったもので、それ以前の名称が御諸山であったともいわれています。
 
 さらに言えば、小子部氏は、『古事記』に、
 
神八井耳命(カムヤイミミノミコト)は、意富臣、小子辺連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、
筑紫の三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余国造、科野国造、道奥の石城国造、
常道の仲国造、長狭国造、伊勢の船木直、尾張の丹羽臣、島田臣等の始祖。
 
と、記されており、この神八井耳命は大物主の孫にあたりますから、つまり小子辺氏は大物主の
子孫であるわけで、スガルが大物主を捕らえるというのは矛盾していることになるのです。
 
 ところで、『新撰姓氏録』には中臣氏の始祖である天児屋命(アメノコヤネノミコト)十一世の孫
として中臣雷大臣(なかとみのいかつおみ)なる名を載せています。河内中臣氏や中臣藍連、
中臣志斐連、中臣栗原連などはこの中臣雷大臣を祖にしているのです。
 中臣雷大臣は中臣烏賊津臣(なかとみのいかつおみ)と同一人物であるともいわれていますが、
ともかく中臣氏に雷の名を持つ人物がいたことになります。
 中臣氏は同時にタケミカヅチを祭祀する氏族でもあります。
 タケミカヅチは『古事記』では建御雷命と記され、やはり雷の名を持つのです。
 
 しかし、雷と蛇が結びつくとしても、中臣氏や小子部氏が雷と結びついているのには何らかの
理由がなくてはなりません。
 ここでもうひとつ関連づけたいのは、『常陸国風土記』の晡時臥山伝承と「山城国風土記逸文」の
鴨県主の始祖伝承です。
 晡時臥山伝承ではヌカビメの生んだ蛇は雷神の子であったわけですが、この伝承は鴨県主の
始祖伝承と大筋で合致します。こちらの方も、玉依日売が生んだ子は蛇ではありませんがやはり
雷神の子でした。
 これらの氏族はどういう理由で雷と結びついたのでしょうか。

達観している4歳児

2016年01月23日 01時34分45秒 | 日記
2013年1月6日(日)(4歳9か月)
 
 
 お茶を飲みたくなった時、そんな少量のお湯なら
ガスコンロで沸かさずに電気ポットで沸かせ、という
のがわが家のルールになっている。
 
 そんなわけで、お茶を飲みたくなった僕は、
 
 「これ置いて」
 
と、電気ポットをゆうきに手渡して、ゆうきがそれを
電気台の上においてくれた。
 
それからしばらく待って、いざお茶を入れようと
思ったら水だった。
 
 「あ?スイッチ入れてなかった?」
 
 僕の問いかけに、
 
 「だって、置いてって言われただけやもん。スイッチ
入れて、とまでは言われてない」
 
と、ゆうきが返した時、春奈が言った。
 
 「これがリアルだから」
 
 いや、は間違ってはないよ。
 
 たしかに、これがわが家の現実だよ。
 
 でも、4歳児がそんな冷めたこと言うんじゃないよ。