小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

215 ミチノウシ王と竹野媛

2014年07月15日 00時52分49秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生215 ―ミチノウシ王と竹野媛―


 ただ、日子坐王だけにかぎらず、開化天皇に始まる系譜を見てみた時に、
丹波に関わる人物が多いことに気づきます。
 開化天皇の妃のひとり竹野比売(タカノヒメ)は、『古事記』に、旦波
(丹波)の大縣主、由碁理(ユゴリ)の娘、とあります。

 同様に『日本書紀』にも、

 「天皇、丹波竹野媛(タンバノタカノヒメ)を納(めしい)れて妃とした
まう。彦湯産隅命(ヒコユムスミノミコト)、またの名を彦蒋簀命(ヒコモ
スノミコト)を生む」

と、あるのですが、前回に紹介した、ヒコイマス王(日子坐王)の子、ミチ
ノウシ王(丹波比古多多須美知能宇斯王)について、『日本書紀』は、

 「彦坐王(ヒコイマス王)の子なり。一に云く、彦湯産隅命の子なりという」

と、同じくヒコイマス王の子と記しつつ、ミチノウシ王がヒコユムスミの子で
あるという異伝も記しています。

 どうも、ミチノウシ王については、記紀に混乱があるようです。
 と、言うのも、垂仁天皇の皇后となった、ミチノウシ王の娘ヒバスヒメを
はじめとする娘たちについて、『古事記』は4人の姫がいた、とし、『日本
書紀』は5人の姫がいた、と記すのですが、『古事記』は、一方で、ヒコユ
ムスミには、大筒木垂根王(オオツツキタリネノミコ)と讃岐岐垂根王(サ
ヌキタリネノミコ)のふたりの子があり、このふたりの王には合わせて5人
の姫があった、と記すのです。

 なお、『古事記』が記すミチノウシ王の4人の姫ですが、「垂仁記」のとこ
ろで、

 比婆須比売命(ヒバスヒメノミコト)
 弟比売命(オトヒメノミコト)
 歌凝比売命(ウタゴリヒメノミコト)
 円野比売命(マトノヒメノミコト)
 (註:『古事記』の「開化記」にはウタゴリヒメノミコトの名が抜け落ち
ています)

と、あります。
 これに対し、『日本書紀』の方では、

 日葉酢媛命(ヒバスヒメノミコト)
 渟葉田瓊入媛(ヌハタニイリビメ)
 真砥野媛(マトノヒメ)
 薊瓊入媛(アザミニイリビメ)
 竹野媛(タカノヒメ)

と、5人の名が記されています。

 ここで「おや?」と思うのは、開化天皇の妃に竹野媛がいて、ミチノウシ王
の娘にも竹野媛なる人物がいることです。
 ただし、こちらの竹野媛は『古事記』にはその名が見えないことから、開化
天皇妃の竹野媛と同一人物で、伝承に混乱があるとも考えられます。
 あるいは同名の別人物である可能性も十分に考えられるのですが、その場合
でも、単に同名の人がいても不思議ではない、などと軽く見過ごすわけにはい
きません。
 なぜなら、竹野という名は丹波国(後に分割されて丹後国)竹野郡に通じる
からです。

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