小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

ブチョロビッチョロ

2018年04月22日 00時49分54秒 | 日記
2013年10月9日(水)(5歳6か月)


 春奈が保育所から絵本を借りてきた。

 『ブチョロビッチョロはどこ?』(作・大島妙子)という絵本で、
ブチョロビッチョロはこの絵本の中に登場する猫の名前である。

 どんな猫かと言うと・・・

 いわゆるブサカワ系の猫だ。

 絵を描くことの得意なりえがこの絵本を見て、

 「・・・独特なタッチや・・・」

と、少し気になった模様。

 春奈もどうやらこの絵本が気になった模様。

 ただし、春奈の場合は絵のタッチよりも「ブチョロビッチョロ」と
いう音の方にではあるけど。
 たしかに、印象に強く残る音ではあるな、と思う。

 僕自身も一発で覚えてしまった名前だ。ブチョロビッチョロ。

 人間というものは印象に残る言葉は自然に刷り込まれてしまうことが
多々ある。

 それで思うのだけども。

 僕のような大人はすでに膨大な数の言葉や名称を記憶していて、その
ような状態の中でこのような「ブチョロビッチョロ」みたいなある名称を
インパクトのある音を特別に認識するわけだけど、赤ん坊の場合だと
どうだろう。

 まだあまり語彙を持たない赤ん坊だと世界はインパクトの強い言葉や
名称で溢れているのじゃないだろうか?

 だからこそ、言葉が大人よりもどんどん入っていくものなのかもしれない。

 逆に考えれば大人もより興味や好奇心を今よりもっと強くすれば、もっと
もっといろんなものがはいってくるのだろうね。

626 物部氏と出雲 その14

2018年04月16日 01時01分24秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生626 ―物部氏と出雲 その14―


 応神天皇と仁徳天皇の恋話には吉備がよく登場しますが、これは、吉備が、というよりは
瀬戸内の神話や伝承が中央に取り込まれたためであろうと思われます。
 これらの説話には海人などが登場することや『播磨国風土記』に記される景行天皇と印南の
別嬢の伝承も瀬戸内の島々を舞台としていることから、元は瀬戸内の海人たちの伝承であった
ものと考えられるのです。そして、吉備もまた瀬戸内海に面しているので、吉備が登場する
のも何ら不思議はないわけです。
 『古事記』にも、日向から大和に向かう神武天皇は瀬戸内海を船で進みますが、途中吉備の
高島宮に八年いた、と記されています。

 さて、ここで考察しておきたいのが吉備と物部氏の関係です。ここまで見てきたとおり、
物部氏は四国へと進出していったわけですが、吉備が属する山陽地方はどうだったのでしょうか。
 『古事記』、『日本書紀』からだけでは吉備の豪族たちと物部氏の関係、とりわけ直接的な
結びつきを読み取ることは難しいと言えます。
 むしろ、記紀からだけでは、吉備と物部氏は敵対関係にあったのではないだろうか、とさえ
思えるのです。なぜなら、物部氏が大和政権の中枢を進出した時期は雄略朝のことと考えられる
のですが、同じ雄略朝時代に吉備は大和政権に反旗を翻すかのような行動を取り没落していく
ことになるからです。

 では、反対に吉備と大和政権の関係が良好だったのはいつの頃だったのでしょうか。

 『日本書紀』によれば、吉備の有力氏族が誕生したのは応神天皇の時です。『応神紀』の、
応神天皇二十二年の項にそのことが記されています。その内容については少し前にも紹介した
ところなのですが、あらためて採り上げますと、吉備の諸氏族の成り立ちについて次のような
ことが書かれています。

 応神天皇の妃の兄媛(えひめ)は吉備臣の祖、御友別(みともわけ)の娘ですが、両親が
年老いたことを理由に故郷に帰りたい、と天皇に申し出ます。
 応神天皇はこれを了承し、淡路島の御原の海人80人を水夫にして兄媛を海路送り出して
やります。
 その年の秋、天皇は淡路島で狩りをおこない、それから吉備を訪問しますが、この時、御友別の
一族に対して応神天皇が行ったこととして、『日本書紀』には、

 「川島縣を長子の稲速別に与える。これは下道臣の始祖なり。次に上道縣を次男の仲彦に与える
。これは上道臣、香屋臣の始祖なり。次に三野縣を三男の弟彦に与える。これは三野臣の始祖なり。
また、波区芸縣を御友別の弟の鴨別に与える。これは笠臣の始祖なり。それから兄の浦凝別に
苑縣を与える、これは苑臣の始祖である。そして、織部を兄媛に与える」

と、記載されています。
 この伝承は前半部分が海人や瀬戸内を舞台としたもので後半が吉備氏族の成立というものに
なっています。
 もちろん、これはあくまでも伝承であり史実を語っているか否かはまた別問題となるわけで、
実際『古事記』や『日本書紀』の記事がそのまま史実として受け止めるわけにはいきません。
それでも『日本書紀』が応神朝のこととしてこの伝承を記載した背景にはそれなりの理由があった
ものと考えられます。
 そういったことで、吉備が大和王権と親密な友好関係にあったのは応神・仁徳朝の頃と考えられ
るわけなのです。

 さらに言えば吉備の造山古墳の問題です。造山古墳の造営が当時の国家規模の事業であったこと、
かつ大阪府堺市の石津ヶ丘古墳の「姉妹古墳」であることから、おそらくはこの時代に最盛期を
迎えていた葛城氏との関係も良好なものであったのでしょう。
 石津ヶ丘古墳は、仁徳天皇の子で葛城氏系の履中天皇の陵墓とされていることからもそれを窺う
ことができるかと思います。
 古墳の被葬者についても天皇陵とされている古墳であってもやはりそのまま事実とするわけには
いきません。古墳の被葬者はあくまでも記紀に記されているものを参考に指定されているだけで、
調査の結果古墳の造営時期と被葬者と伝えられている天皇が生きていた推定時期にズレが生じて
いる場合もあるのですが、大事なことは『古事記』と『日本書紀』が石津ヶ丘古墳の被葬者を
履中天皇だとしていることなのです。

 吉備と大和政権の関係がもっとも良好だったのが応神・仁徳朝時代だったとした時に、どうしても
触れなくてはならないのが、応神天皇が崩御して仁徳天皇が即位するまでの間に起きたこととして
『日本書紀』に記される出雲の淤宇宿禰(オウノスクネ)の事件です。
 この事件は、額田大中彦皇子(ヌカタノオオナカツヒコ皇子)が、倭の屯田と屯倉をわがものに
しようとしたものですが、この中で淤宇宿禰は屯田司と記されているのです。
 つまり、『日本書紀』の編纂者たちが、この時代すでに出雲臣が大和政権内で財務運営に参加して
いたと見做していたことになるからです。

 それでは、このことがなぜ重要視されるかというと、物部氏と吉備との共通点に出雲が大いに関係
しているからです。

 『日本書紀』崇神天皇六十年の記事では物部氏の武諸隅が、崇神天皇が出雲振根の持つ武日照命の
神宝を求めた際の使者として出雲に赴いた、とあり、同じ『日本書紀』の垂仁天皇二十六年の記事には、
物部十千根が出雲の神宝を検校するために出雲に赴いた、とあります。
 一方の吉備はというと、武渟川別とともに吉備津彦がその出雲振根を討伐しているのです。さらには
『古事記』のみ見えるヤマトタケルの出雲タケルを討つ話も、ヤマトタケルが吉備の血を受けている
ことから、これも吉備にまつわる伝承と見ることができるのです。

ちょっとブレイク

2018年04月09日 00時42分18秒 | 日記
2018年4月8日

 関西では桜ももう終わりも迎えてしまいましたね。
 それにしても今年、2018年の桜は早かったですね。
 なんせ3月のうちに満開となりましたからね。
 3月に満開を迎えたのは、僕の記憶では2008年以来、10年ぶり
のはずです。
 そして、2008年とはわが家の3女春奈の生まれた年でもあります。
 このブログでは現在、春奈が5歳の時の話を紹介しておりますが、
その春奈も現在の年齢は10歳になっております。
 でもって春奈は3月30日生まれ。生れた日には桜が咲き誇っていました。
 それははっきりと覚えています。

 桜が3月に満開なら、桃の花の時期と重なってきます。
 モモの名産地といえば岡山県が有名ですが、大阪府にもモモが名産の
町があるのです。
 それは岸和田市。
 岸和田市の包近(かねちか)町あたりで作られている桃は「かねちかの
桃」として岸和田市の名産となっているのです。 

 ↓ 府道岸和田牛滝山貝塚線沿いの風景



 岸和田市包近町から車で10分ほど走った大阪府和泉市若樫町には若樫の
百滝桜と呼ばれるしだれ桜があります。
 これは旧国道170号沿いの桜なのですが、枝が国道の上にまで伸びいる
から、花が咲けば桜のトンネルをくぐるようになります。
 けっこう桜好きの人の間では有名な桜らしいのですが、残念ながら僕は
まだ百滝桜が満開の時に通ったことがありません。
 国道と言っても旧道で、普段走ることもないのですが。
 それより、まだ満開を見ていない理由は、実はこの百滝桜とは、エドヒガン
ザクラという品種で、ソメイヨシノより少し早くに花が咲くため、ソメイヨシノが
満開の時に訪れても百滝桜の方はすでに満開の時を過ぎてしまっているからです。

 だけど、百滝桜の近くにも立派なソメイヨシノがあるんですよ。
 それがこれ。↓



 ここも旧国道170号。これでも国道です(笑)なんせ旧道ですからね。
 並走する形で新国道170号が走っているため、みんなそっちを走行しております。

 また、この桜の近くにある墓地にもきれいに咲き誇る桜があります。↓





 まあ、もっとも今年は桜の満開時期が早かったおかげでお花見をし損なって
しまいましたけどね。
 皆さんはお花見、されたんでしょうかね???

625 物部氏と出雲 その13

2018年04月02日 00時38分22秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生625 ―物部氏と出雲 その13―


 ここで話を一旦、阿久刀神社(あくと神社)と長幡部神社に話を戻します。
 この両者は服(はた)の他にもつながりがあるかもしれないのです。
 と、言うのは阿久刀神社の本来の祭神については、調連阿久太(つきのむらじあくた)と
する説の他にも第3代の皇后、阿久斗比売(あくとひめ)とする説があるからです。

 もっとも安寧天皇の皇后については『古事記』と『日本書紀』で異なる内容を載せています。
 まず、『古事記』では、安寧天皇の皇后は今しがた紹介したように阿久斗比売で、この人物は
師木県主羽延の娘となっています。
 対する『日本書紀』では、安寧天皇の皇后は、神渟名底仲媛命(ヌナソコナアツヒメノミコト)で、
事代主の孫、鴨王の娘としているのです。

 『日本書紀』が事代主系として、さらに皇后の父の名が鴨王というのも、鴨氏のことを考え
ると非常に興味深いところではあるのですが、今はそのことは横に置いて、問題は阿久斗比売
です。
 『古事記』では安寧天皇と阿久斗比売との間には三人の皇子が生まれたとあります。

 常根津日子伊呂泥命(トコネツヒコイノネノミコト)
 大倭日子鉏友命(オオヤマトヒコスキトモノミコト)、
 師木津日子命(シキツヒコノミコト)

の三人です。
 このうち大倭日子鉏友命が次の第4代懿徳天皇(いとく天皇)として即位するのですが、
弟の師木津日子命について、『古事記』は次のような内容のことを記します。
 師木津日子命には二人の皇子がおられ、ひとりの皇子は、伊賀の須知の稲置、那婆理の稲置、
三野の稲置の始祖、と。
 伊賀はいうまでもなく三重県の伊賀、那婆理とは三重県名張市のことで三野は美濃ですから、
ここでも三重県や岐阜県が関係してくるのです。
 それからもうひとりが和知都美命(ワチツミノミコト)で、この人は淡道(あわじ)の御井宮
(みいのみや)に坐してふたりの皇女をもうけたとあります。
 姉の方が蝿伊呂泥(ハエイロネ)、またの名を意富夜麻登久邇阿礼比売命(オオヤマトクニ
アレヒメノミコト)、妹の方が蝿伊呂杼(ハエイロド)です。

 このふたりの姫はともに第7代孝霊天皇の皇后と妃となり、蝿伊呂泥は吉備上つ道臣の始祖、
大吉備津日子命を生み、蝿伊呂杼は吉備下つ道臣と笠臣の始祖、若建日子吉備津日子命を生み
ます。
 さらには、若建日子吉備津日子命の娘、針間之伊那毘能大郎女(ハリマノイナビノオオイラツメ)は
第12代景行天皇の皇后となり、大碓命(オオウスノミコト)、小碓命(オウスノミコト)すな
わちヤマトタケルを生むことになります。

 では次に長幡部神社です。
 長幡部神社の祭神、多弖命(タテノミコト)が神大根王と同一視されていることは先に紹介
したところなのですが、神大根王のふたりの娘が大碓命(オオウスノミコト)の妻となっている
のです。
 神大根王のふたりの娘については、『古事記』では、

 「三野(美濃)国造の祖、大根王の娘、兄比売と弟比売「
 
 一方の『日本書紀』では、

 「美濃国造、名は神骨(かむほね)の娘、姐の名は兄遠子、妹の名は弟遠子」

となっています。神骨(かむほね)が神大根(かむおおね)のことであることは説明するまでも
ないことだと思います。
 そして、記紀ともに共通して記すところは、当初、オオウスの父、景行天皇が、神大根王の
ふたりの娘が美人だと聞いて妃に迎えようと、オオウスを使者として神大根王のもとに送った
ものが、ふたりの媛を見たオオウスが自分の妻にしてしまった、といういきさつです。

 ところで、天皇が妃に迎えようとした媛を皇子が自分の妻にしてしまうというエピソードは、
これの他にも見ることができます。『日本書紀』の「応神紀」です、

 『日本書紀』応神天皇十一年の記事には、

 「人ありて(天皇に)奏して曰く、『日向国に嬢女(おとめ)あり。名は髪長媛。諸縣君
牛諸井(もろがたのきみうしもろい)の娘なり。美人なり』。天皇は悦(よろこ)んで、宮中に
召そうと思われた」

とあり、応神天皇十三年に髪長媛は日向より召されて桑津邑に遷りますが、媛を見たオオサザキ命
(後の仁徳天皇)はぜひ自分の妻にと望み、父の応神天皇より媛を賜ります。

 桑津邑は大阪市東住吉区桑津に比定されていますが、東住吉区桑津の地名の由来は
かつてこの地では養蚕が盛んで、蚕のエサとなる桑がたくさん植えられていたことから来て
いるといいます。

 ここにも服(はた)のつながりが見られるわけですが、この伝承で、もうひとつ見過ごしては
いけないことが、オオウスの伝承と共通している点です。いや、このふたつの伝承は同源のもの
である可能性もあるのです。ともあれ、記紀に見られる応神・仁徳天皇の恋話とオオウスの伝承、
これらには吉備が関係しているという共通点が存在するのです。

家族と一緒に

2018年04月01日 02時21分37秒 | ヒッポファミリークラブ
10月8日2013年10月8日(火)(5歳6か月)


 少しだけ、うちの家族がやっているヒッポのことを話して
みたい。

 ヒッポファミリークラブという活動は、「ファミリークラブ」と
いうだけあって家族のみんなで一緒にできる。

 (もちろん、ひとりだけで入会することも可能である。かく言う
僕も独身時代にひとりでヒッポに入会している。)

 家族と一緒に活動する。
 これは、他の英会話教室などと大きく違う部分でもある。

 ふつう、英会話教室は子供だけで参加して、親は参加できない。
すると、家族と体験を共有できない。些細なことだと思う人も
いるかもしれない。でも、体験を共有するということは言葉の
習得には大きな比重を占めることでもあるのだ。

 ただ子供は・・・まあその子にもよるのだろうけど、思春期に
なると親と一緒に活動することを嫌がるようにもなる。

 うちの場合、上のふたご、ゆうきとりえのふたりが思春期&
反抗期の入口にいる。

 家族で参加する、ファミリーと呼ばれる活動の場よりも、毎月1回、
関西本部で行われる中高大生だけで活動する場の方がより楽しいと
思えるそうだ。

 「けど、あらためて考えてみたら何でやろな?(ファミリー
クラブと言っても)ひとりでヒッポに入会することかもできるやん?
ヒッポはファミリーで言葉を育てるわけやから、ひとりでファミリーに
参加しても言葉は育つわけやし。家族みんなで参加する本当の意味って
何やろね」

と、今日のファミリーでりえが言った。

 なかなか鋭い指摘だ、と思いつつ、

 「たしかにファミリーで言葉を育てるわけやけど」

と、僕が言う。

 「家族を越えてファミリーはないよ」

 すると、横で聞いていたゆうきが、

 「なに名言っぽく言うてんねん」

と、ツッコミを入れてきた。

 しかし、そんなわが家の子供たちも、反抗期に入りつつあるとは
言えこうやって家族と一緒にヒッポの活動に参加している。

 これは、別に僕が強制したわけでも、まして「洗脳」したわけでも
ない。

 子供たちが自分自身で発見したことだ

 やっぱり教わるより自分で見つける事って大事やな。