小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

広東語の歌

2018年08月28日 01時42分36秒 | 多言語
2013年10月20日(日)


 こどもたちがテレビのバラエティ番組を観ていると、ジャッキー・チェンの
エピソードを紹介するコーナーが登場し、ジャッキー・チェン主演の映画の
ひとつだろうか、広東語の歌がBGMに使われていた。

 広東語の歌は聴くだけでそれが広東語だとわかる。

 だいたいどこの言語も歌にするとそれが何語なのかすぐにわからないことが
多い。

 そもそも何語か判別するのはその言語が持つ独特のリズムである。

 ところが歌になるとそのリズムが変わってしまうので判別が難しいのだ。

 中南米あたりのスペイン語の歌を聴いた時に、「これ英語じゃないな」と
気づくことは比較的に難しいことではないのだけど、ではそれがスペイン語か
ポルトガル語かフランス語か、あるいはイタリア語か、などの判別はなかなかに
難しい。

 そもそも今挙げた言葉は兄弟同士みたいな関係の言語なのだから。


 中国語と広東語も兄弟同士と言える。

 中国には数多くの言語が存在していて、主要なものだけでも8つある。

 これを8大方言と言って、北京語、広東語、上海語、福建語などがある。

 なお、中国語とは、中国では普通話と呼ばれ、北京語を基に造られた権語を指す

 日本語の標準語が東京の山の手で話されていた言葉を基に造られたのと似ている。

 だから、標準語と東京弁が別物であるように、中国語と北京語は別物なのだけど、
標準語が東京弁と同一視されるのと同じように中国と北京語も同一視される傾向に
あるようだ。特に日本では。


 ただ、中国語と広東語は歌にしてもまったく同じには聴こえない。

 ウソのような本当の話だけど、中国語のポップスを聴いた時にこれを英語の歌
だと聞き間違える日本人は少なくないのだ。

 それだけ歌にすると言語の持つリズムは変わってしまい、中国語と英語が似て
しまうというような現象が起きる。

 ところが、広東語だけは歌にしても広東語のリズムを失うことがない。

 いや、むしろ会話の時のリズムよりもより独特のリズムを生みだすくらいだ。
 
 具体的に言うと言葉の抑揚が大きい。


 今、中国では中国語(普通話)が普及して若い世代では地元の言語(上海語や
福建語など)よりも中国語で会話をする人が増えていっているらしい。

 そして、香港でもだいぶ中国語が浸透していると聞く。

 けども僕個人にとって広東語の歌は絶対になくなってほしくない言葉のひとつ
である。

632物部氏と出雲 その20

2018年08月24日 01時04分37秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生632 ―物部氏と出雲 その20―


 この歌の意味そのものは、

 「吉備産の鉄の鍬で耕すように手拍子を打ちなさい。私が舞いましょう」

といった他愛もないものなのですが、「吉備の鉄」という部分に引っかかるものがあるのです。

 ちなみに「たらちし」とは後の「吉備の鉄」にかかる枕詞です。
 吉備にかかる枕詞としては他にも「まがね吹く」があり、『古今和歌集』に、

 まがね吹く 吉備の中山 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ

という歌が選ばれています。

 それでは、古代の吉備は製鉄が盛んだったのか、という疑問が当然出てくるわけですが、これに
ついては岡山県古代吉備文化財センターの『古代吉備を探る2』の、第11回「限りある資源を
大切に」(上栫武著)にある吉備の製鉄遺跡に関する部分を引用させていただこうと思います。

 「吉備で、製鉄遺跡は約30遺跡、製鉄炉は100基以上が発掘されており、他地域とは格段の
差があります。
 特に備中の総社市地域に集中しており、西団地内遺跡群・奥坂遺跡群の11遺跡で82基の
製鉄炉が見つかりました。多数の製鉄遺跡からみても、やはり奈良時代までは「まがね吹く吉備」
という状況だったようです。
 このような吉備の鉄生産を支えた背景には、原料の豊富な存在が不可欠です。奈良時代以前には、
製鉄原料として鉄鉱石と砂鉄を使用していたことが、出土遺物の分析から明らかです。

 備中の総社市の両遺跡群や新見市上神代狐穴(かみこうじろきつねあな)製鉄遺跡、備前の
岡山市白壁奥(しらかべおく)製鉄遺跡・みそのお遺跡、赤磐市猿喰池(さるはみいけ)製鉄遺跡
などは鉄鉱石を原料としていました。
 一方、砂鉄を原料とした鉄生産は、美作の津山市大蔵池南(おおくらいけみなみ)製鉄遺跡、
緑山遺跡など、中国山沿いの遺跡で確認していますが、遺跡数は前者に及びません。
 奈良時代以前の製鉄原料は鉄鉱石が主流で、その豊富な埋蔵量が「まがね吹く吉備」たらしめた
と言えるでしょう」

 さて、これらを踏まえた上であらためて出雲と吉備を製鉄でつながりがないかと探してみると、
ひとつの伝承が浮かび上がってきます。
 それはヤマタノオロチ伝承です。

 岡山県赤磐市の石上布都魂神社(いそのかみふつみたま神社)に伝わる話では、当社の本来の
祭神はスサノオがヤマタノオロチを斬った剣、布都御魂(フツノミタマ)だといいます。
 これらは前にもお話したことですが、大和の石上神宮にも吉備の石上布都魂神社の布都御魂が
大和の石上神宮に遷されたとする伝承があり、『日本書紀』の別書にも、

 「オロチを斬った剣は、今は吉備の神部の許にあり」

 あるいは、

 「オロチを斬った剣は、名付けて蛇の麁正(オロチノアラマサ)という。今は石上にある」

と、記されています。

 そして、スサノオがヤマタノオロチを斬った時に、その尾の中から取り出したのが草薙剣で、
この剣は天照大御神から倭姫命に、それがヤマトタケルに渡り、その後は尾張氏に渡されて熱田
神宮にて祀られるようになります。

 さらに言えば尾張氏は大和国葛城の高尾張邑に拠点を持ち、その葛城にはアヂシキタカヒコネを
祭神とする高鴨神社が鎮座します。『出雲国風土記』にもアヂシキタカヒコネは登場するので、
出雲でもアヂシキタカヒコネは信仰されていた、少なくともその存在は知られていたことになり
ます。
 『出雲国風土記』に載るアヂシキタカヒコネの伝承は「もの言わぬ御子」の伝承ですが、すでに
考察したとおり、これは水銀中毒、つまりは製鉄にたずさわる人々の職業病が下敷きとなっている
ようなのです。
 『出雲国風土記』のアヂシキタカヒコネの伝承は三重県四日市市水沢町に鎮座する足見田神社の
伝承と重なりますが、水沢町はヤマトタケル伝承の、三重村の比定地のひとつでもあります。
他にも四日市市には、船木氏ゆかりの太神社や、ホムチワケのお供をつとめて出雲に赴き、その後に
出雲大社の造営を任されたという菟上王を祀る莵上耳利神社が鎮座します。
 菟上王を祀る神社では、同じ三重県のいなべ市に菟上神社があり、菟上王の兄でともに出雲訪問に
大きくかかわった曙立王を祀る佐那神社も同じ三重県の多気郡多気町仁田(にた)に鎮座して
います。しかも『出雲国風土記』のアヂシキタカヒコネの伝承も出雲国仁多郡(にた郡)のもの
です。ともに「にた」という地名であることは偶然で片づけてはいけないように思えます。
 ホムチワケもまた「もの言わぬ御子」であり、その伝承が『出雲国風土記』のアヂシキタカヒコネの
伝承と似通っていることはこれまで何度となく指摘してきたことなのでここでは割愛させていた
だきますが、これらを眺めてれば、出雲と伊勢、葛城、そして吉備が製鉄でつながることがはっきりと
見えてくるのです。

 後は、武渟川別が出雲振根討伐の伝承に登場するのはなぜなのか、という問題です。

631物部氏と出雲 その19

2018年08月12日 02時04分05秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生631 ―物部氏と出雲 その19―


 『出雲国風土記』の伝承は、ヤマトタケルが神門臣古禰を屈服させた後、景行天皇が神門臣の
一族を建部(たけるべ)にした、というようにも解釈できますが、そうではないでしょう。いかに
伝承とは言え、建部は朝廷の私有民である部民のひとつですから地方豪族を私有民の身分に落と
してしまったことになるのです。
 これは、景行天皇が建部を作り、神門臣古禰をその管轄者としたので以降、神門臣は建部臣を
称するようになった。という意味でしょう。

 と、なるとフルネは大和政権から追討されるべき存在ではなかったということにもあるわけです。
 そこであらためて『日本書紀』と『古事記』を対比してみます。

 『日本書紀』は、出雲振根が、飯入根(イイイリネ)の刀を木刀にすり替えた後に、飯入根を
斬殺し、

 八雲たつ 出雲タケルが佩ける太刀 黒葛(つづら)わさまき さ身なしにあわれ

と、歌う。
 しかし振根は大和政権が派遣した武渟川別と吉備津彦の軍に討たれた、という内容です。

 『古事記』は、倭建命(ヤマトタケルノミコト)が、出雲建(イズモタケル)を木刀にすり替えた
後に、斬殺し、

 やつめさす 出雲タケルが佩ける刀(たち) 黒葛(つづら)さわまき さ身無しにあわれ

と、歌う、というものです。

 たしかに、登場人物を除けば、伝承そのものは同じものと考えるべきでしょう。
 ただ、これまで、ヤマトタケル=武渟川別と吉備津彦、出雲建=出雲振根、という図式で解釈
されてきたきらいがあります。これは大和政権側の人間が出雲の首長を討った、という図式で見た
からではないでしょうか。
 ふたつの伝承を重ね合わせてみたなら、この話は一方が策略を用いてもう一方を斬殺して
「出雲タケルが佩ける太刀」と詠んだという内容のものであることがわかるでしょう。
 この内容に従えば、ヤマトタケル=出雲振根、出雲建=飯入根、という図式になるわけです。
『出雲国風土記』もフルネが大和政権に討たれた、とは記していないのです。

 しかし、それならなぜ吉備氏の始祖(吉備津彦)と阿倍氏の始祖(武渟川別)がフルネを討つ
話が加えられたのか、という疑問が生じます。
 この答えを求めると、一見すれば少し意外に思えるところにヒントが隠されているのです。

 それは『播磨国風土記』です。
 『播磨国風土記』の美嚢郡の項に、市辺之忍歯王(イチノベノオシハ王)の御子、オケ王と
ヲケ王の話が登場します。
 市辺之忍歯王は、石津ヶ丘古墳の被葬者と伝えられる履中天皇の皇子で、履中天皇は仁徳
天皇と葛城氏の女性との間に生まれた天皇です。履中天皇も葛城氏の女性を妃に迎えて市辺之
忍歯王を生み、さらに市辺之忍歯王も葛城氏の女性を妻にしてオケ王とヲケ王を生んでいます。
つまり仁徳天皇から市辺之忍歯王までの三代が葛城氏から妻を迎えているわけで、葛城氏に
とってオケ王とヲケ王はプリンスの中のプリンスであったことになります。
 しかし、葛城氏の本宗が滅亡した後、市辺之忍歯王は雄略天皇に謀殺され、危険が身に及ぶ
ことを恐れたオケ王とヲケ王は逃亡します。
 その後、『日本書紀』では清寧天皇の在位中、『古事記』では清寧天皇の薨去後にこの
ふたりの皇子が播磨で発見されるのですが、『古事記』、『日本書紀』、『播磨国風土記』が
ともにほぼ同じ内容のことを記しているのです。

 『古事記』には、播磨に宰(後の国司にあたる役職)として赴任してきた山部連小楯(やまべの
むらじおだて)が志自牟(しじむ)の家で開かれた新築祝いの宴に招かれた時に、ヲケ王が舞い、
その歌の中に、
 「吾は履中天皇の御子市辺之押歯王の子なり」
という一節を入れたので、小楯はこの兄弟が行方不明となっていた二皇子であると知る、という
いきさつが記されています。

 次に、『日本書紀』では、新嘗の供物を求めに播磨にやって来た、播磨国司山部連の祖、伊予
来目部小楯(いよのくめべのおだて)が縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)の忍海部造細目の
家で開かれた新築祝いの宴に招かれた際にヲケ王が舞い、その歌の中に、
 「吾は履中天皇の御子市辺之押歯王の子なり」
という一節を入れたので、小楯はこの兄弟が行方不明となっていた二皇子であると知る、という
いきさつが記されています。

 最後に『播磨国風土記』では、播磨に来ていた山辺連小楯が志深村首(しじみのむらのおびと)
伊等尾(いとみ)の家で開かれた新築祝いの宴に参加した際、宴の席でヲケ王が舞い、その歌の中に、
 「吾は履中天皇の御子市辺之押歯王の子なり」
という一節を入れたので、小楯はこの兄弟が行方不明となっていた二皇子であると知る、という
いきさつが記されています。

 記紀と播磨国風土記のすべてが同じ内容のことを伝えているわけですが、それぞれの違いについて
言うと、二皇子が匿われていた家の主の名が異なる点と、あとヲケ王の歌った歌の詞が異なるのです。
それは、歌い始めから自分の正体を明かす箇所に至る部分の歌詞なのですが、『古事記』、『日本書紀』、
『播磨国風土記』でそれが異なっているのです。
 そして、『播磨国風土記』が伝えるこの時の歌詞とは、

 「たらちし 吉備の鉄の 狭鍬持ち 田打つ如す 吾は舞ひせ」

というものなのです。

日本人でも知らん言葉

2018年08月09日 02時02分14秒 | 日記
2013年10月19日(土)


 今日明日と1泊でインドネシア人のゲストがわが家にステイ。

 日本がインドネシアから介護士を募集しているので、日本で
介護士になろうと来日したそうだ。

 日本という国は外国籍の人が労働することに関して許可が厳しい
のだけど、高齢者の増加とそれに反比例する労働人口の減少に
対応するため外国籍の介護士を導入する気になったらしい。

 もっとも、応募した人たちも日本で介護士の資格取得試験を
受けてそれに合格しなければいけない。
 まずは日本語の習得である。

 うちのゲストもただ今日本語の研修中で、今回のホームステイ
もその一環であるとも言える。

 でも、なかなかに大変そうだ。

 日本語で会話ができるならOK、というわけにもいかないようだ。
 専門用語を理解していなければいけないのだ。 

 たとえば、「縟瘡(じょくそう)」という言葉をはたしてどれ
だけの日本人が知っているだろう?

 これは「床ずれ」とも言う。

 床ずれ、って言ったらみんなも知ってる、と言うだろうけど縟瘡と
言われたら初耳な人も多いと思う。


 ところで、海外の言葉を習得する際には、「完璧に話せるように
なろう」なんて思う必要はない。

 とにかく相手とコミュニケーションが取れたらならそれでいいのだ。

 そこから始まり、相手との関係性が深まれば、自然に言葉は育っていく。

 だけど悲しいかな、日本人は完璧に近い状態まで話せるようになって
からその国の人と会話をしよう、と考える傾向にある。

 まずカタコトで会話をする、ということをしないと言葉も成長しない
のにその過程を飛ばして言葉が育つわけがないと思うのだけどねえ。

 なんで今こんな話を始めたかと言うと、日本人でも縟瘡という言葉を
知らない人は多い、と言いたいからだ。

 つまり、母国語でさえ知らない言葉があるのに海外の言葉を「完璧に」
なんてムリだよ、カタコトでいいんだよ、と言いたかったわけだ。


 それでうちのゲストは釣りが趣味だそうで、ゆうき、りえと3人で
近所の釣り堀に出掛けて行った。

 まあ、いい息抜きになれば良いんだけどね。

630 物部氏と出雲 その18

2018年08月03日 02時03分57秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生630 ―物部氏と出雲 その18―


 造山古墳の造営が吉備の単独では不可能ならば、それは大和政権の主導、もしくは全面的な協力に
よって行われたとしか考えられないのです。
 そして、吉備を優遇したのはおそらく葛城氏であろうということは前にもお話ししました。
 その理由については、石津ヶ丘古墳と造山古墳の関連を挙げました。
 前出の高橋護はその著作「吉備と古代王権」(小林三郎編『古墳と地方王権』に収録)の中で、
造山古墳と大阪府堺市の石津ヶ丘古墳(伝・履中天皇稜)は、平面形も側面形もまったく同じで、
両者を重ねるとほぼピッタリと一致する、双子のような古墳であり、同じ設計図をもとに造られた
古墳としか思えないと、していますが、畿内には数多くの巨大古墳がある中で、造山古墳と
「同じ古墳」が石津ヶ丘古墳であることに意味があるように思えるのです。

 まず、石津ヶ丘古墳が葛城氏ともっとも血縁の強い履中天皇の陵墓とされていることです。
ただし、これも少し前に造山古墳と石津ヶ丘古墳の関連を紹介した時にお話したことなのですが、
古墳の被葬者については記紀にある天皇陵の記載を参考に指定されているだけで、調査の結果古墳の
造営時期と被葬者と伝えられている天皇が生きていた推定時期にズレが生じている場合も多々あり
ます。大事なことは『古事記』と『日本書紀』が石津ヶ丘古墳の被葬者を履中天皇だとしていること
なのです。
 石津ヶ丘古墳は現在の堺市西区にあります。古墳時代における堺市の海岸線は今よりずっと東で、
それこそ石津ヶ丘古墳の近くあたりであったといわれています。瀬戸内を通り紀伊半島に至る海上の
道において、難波津から南に下ったところで石津ヶ丘古墳を見ることができたわけです。
 葛城氏が台頭してきたのは応神朝から仁徳朝にかけての頃と推測されますが、この両天皇は難波に
拠点を置き、しかも瀬戸内の海人の伝承も絡んでくる、さらには多くの渡来人がやって来た、と
瀬戸内海の海上の道が重視された時代でもあるのです。
 ここから考えられる、吉備が大和政権から特別視されたその理由のひとつが挙げられます。
 玄関口となる宗像から難波に至る海上の道の中継点のひとつが吉備だったのです。このことは
『古事記』の神武東征の中にも、九州を発った神武天皇一行が、瀬戸内を海上ルートで進み、途中に
安芸の多祁理宮(たけりのみや)、吉備の高島宮に滞在した、と記されていることからもその可能性を
探ることができます。
 ただし、この考察の弱点は、他にもあったはずの瀬戸内の中継点の中で、なぜ吉備だけが特別扱い
されたのかという疑問には応えていないところです。

 そもそも吉備が特別視されていたというのは、何も造山古墳に限られたことではないのです。
 『古事記』には、第7代孝霊天皇の皇子、大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命の両名が吉備氏の
始祖と記されています。中央によって編纂された『古事記』が吉備氏を皇族の子孫だと記している
わけです。
 また、『古事記』には大吉備津日子命と若日子建吉備津日子命がともに西国を平定した、とあり、
『日本書紀』には吉備津彦が四道将軍のひとりと記されており、大和政権の地方平定に貢献した
ことになっているのです。
 ところが、ここに注意が必要で、志田諄一が『古代氏族の性格と伝承』の中で指摘していること
でもあるのですが、『日本書紀』では四道将軍のひとりに加えられている吉備津彦が『古事記』では
四道将軍に加えられていません。
 その一方で、『古事記』では大吉備津日子(吉備津彦)を吉備上つ道臣の始祖と記しているのに
『日本書紀』にはそのような記述がありません。

 『日本書紀』にある四道将軍としての吉備津彦の功績については、西国を平定したこと、タケハニ
ヤス王の反乱の鎮圧、出雲振根(イズモフルネ)の討伐が挙げられますが、このうち西国平定は
『古事記』にも載せられているものの、タケハニヤス王の反乱には吉備津彦の名は見えず、出雲振根の
事件もまた『古事記』には見られず、代わりにヤマトタケルが出雲建(イズモタケル)を討った
説話が登場します。
 出雲振根の説話と出雲建の説話は元来同じものであった、と多くの研究者は捉えています。
 しかし、出雲の首長を討った人物が『古事記』ではヤマトタケル、『日本書紀』では武渟川別
(タケヌナカワワケ)と吉備津彦、と異なるのはどうしてなのでしょうか?ふたつの説話が同源で
あると言われながら、この疑問点についてはあまり論じられることがなかったような気がします。
 その理由については、ヤマトタケルと吉備氏の関係がひとつの原因となっているのかもしれません。
すなわち、ヤマトタケルの母が吉備氏の女性であるという関係です。だから、吉備氏の功績がヤマト
タケルにすり替えられてしまった、というものです。
 しかしながら、これはヤマトタケルが実在の人物であり、かつ母が吉備氏の女性であることが史実と
いう場合にのみ成り立つものです。それに、阿倍氏らの始祖である武渟川別がここに登場する理由とは
成り立たないのです。

 ところで『古事記』も『日本書紀』もともに中央側の手によって作られたものです。反対に出雲側
から見たものが『出雲国風土記』に残された出雲郡建部郷の伝承です。

 「先に宇夜(うや)の里となづけられた由来は、宇夜都弁命(ウヤツベノミコト)がここの山の峰に
天降ったからで、その神の社は今もなおここに鎮座する。それゆえに宇夜の里という。
 しかるに後に建部(たけるべ)と名を改めたのは、景行天皇が、
 『わが皇子ヤマトタケルの名を忘れまい』
と、おっしゃられ建部を設置されたからである。
 その時、神門臣古禰(かむど臣フルネ)を建部に定められた。すなわち、建部臣(たけるべのおみ)らは、
古来より現在に至るまでこの地にいる』

 出雲側の伝承でもヤマトタケルの功績となっているのです。こうなると、むしろヤマトタケルの
伝承を吉備氏の伝承にすり替えた、と解釈したくなってきます。
 ただし、『出雲国風土記』の記事は、ヤマトタケルが出雲フルネを討った、とは明記していないのです。
 そこであらためて出雲フルネの伝承を掘り下げてみる必要があります。