小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

どっちも下着だよ?

2013年02月28日 01時51分05秒 | 日記
2010年5月21日(金)(2歳1か月)


 僕が洗濯物をたたんでいると、春奈が、洗濯物の
中からブラジャーを手にとって、

 「これ誰の?」

と、訊いてきたから、

 「ママの」

と、答えてやると、今度は自分のおむつカバーを
手に取って、

 「春奈のぺたんこ」

と、言って、ひとりでケラケラ笑っていた。

 上と下に着けるちがいはあれど、下着である、と
いう認識はあるのか?

 ところで、おむつカバーとは何だ?と思う人もい
るかもしれないね。

 実は僕も子どもが生まれるまでは知らんかった。

 おむつをした後にそのサポートとして着ける代物
である。

 そう、つまりは、春奈はまだおむつである。

 僕の母親なんかは、早くおむつを卒業させろ、と
言うけど、僕もみんたも、そのうちに、と思ってい
る。

 言葉の成長もそうだけど、なんでも成長は人それ
ぞれなのである。

 ヒッポをやっていてサブの部分でお得なのは、
他の赤ちゃんと比べる必要はない、早さは違って
も自然にみな同じように成長する、ということを
実感できることだと思っている。

 とりわけ、ヒッポでしている多言語の自然習得
なんて、人それぞれ話せていく早さはちがう。

 でも、みな同じように話せるようになるもの
なのである。

106 オオタタネコの謎

2013年02月28日 01時47分13秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生106 ―オオタタネコの謎―


 このオオモノヌシを祭祀する者として、オオモノヌシ自身がオオタタネコ
を指名したことは、『古事記』、『日本書紀』ともに一致して記しています。
 オオタタネコは、『古事記』では意富多多泥古、『日本書紀』では大田田
根子と表記されますが、そのルーツについては、両者は異なったことを記し
ます。
 『古事記』の中では、
 「私は、大物主が、陶津耳命の娘活玉依毘売を娶られて生まれた櫛御方命
の子の飯肩巣見命の子の建甕槌命の子オオタタネコにございます」
と、記しているのに対し、『日本書紀』では、
 「父は大物主。母を活玉依媛と申します。陶津耳の娘でございます」
と、記しており、オオモノヌシとイクタマヨリビメの直接の子となっていま
す。
 研究者の間では、『日本書紀』の方が古い伝承であり、『古事記』の方が
系譜を複雑にした新しいものであろう、とされているようです。

 ところで、オオタタネコはどこまでが苗字でどこからが名なのでしょうか。
 オオモノヌシや、その子孫である鴨氏が関わる場所や神社に、大田の地名
や大田神社(太田と表記される場合もありますが)と名がつくものが全国に
みられることから、オオタが苗字のような気がしますが、だとすると、タネ
コが名になってしまいます。
 ですが、7代孝霊天皇がオオヤマトネコヒコフトニノミコト(大倭根子日
子賦斗邇命)で、8代孝元天皇がオオヤマトネコヒコクニクルノミコト(大
倭根子日子国玖琉命)、9代 開化天皇がワカヤマトネコヒコオオビビノミ
コト(若倭根子日子大毘毘命)の名を持ち、オオヤマト根子やワカヤマト根
子とあることから、オオタ・タ根子である、ということになってしまうので
す。つまりは、実質上の名はタのみになってしまうということです。
 それでは、オオ・タタネコなのでしょうか。

 『古事記』を編纂した太安万侶の太氏は、『古事記』の中では意富と表記さ
れていますから、意富多多泥古は意富が苗字だと考えられなくもないのです。
 しかも、太氏はオオモノヌシの娘イスケヨリビメと神武天皇の間に生まれた
カムヤイミミを祖としており、オオタタネコ同様オオモノヌシの子孫なのです。

 それでは、タタ根子であったとするなら、タタは何を意味するのでしょうか。
『古事記』のイスケヨリヒメは元の名をホトタタライススキヒメノミコトとい
い、タタラという言葉がその名に含まれています。
また、『日本書紀』では、この神武天皇の皇后の名を、イスケヨリヒメではな
く、媛蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)であるとしているの
ですが、こちらの名にもタタラが含まれています。(なお、父については、オ
オモノヌシとする記述とコトシロヌシとする記述の両方を載せています)
と、なれば、オオタタネコのタタも踏鞴(たたら)の意味と解釈できるのです
が、兵庫県川西市にはオオタタネコを祀っていたという神社があります。
それは川西市平野の多太神社で、現在この神社の祭神は、イザナキ、イザナミ、
ヤマトタケル、仁徳天皇の4柱ですが、言い伝えによると、元は、神直(みわ
のあたい)氏がオオタタネコを祀るために創建したものだといいます。
ちなみに、多太神社は「ただ神社」といいますが、「たぶと神社」と呼ばれる
こともあり、これは同じ川西市内に多田神社があって、こちらと区別するため
に「たぶと」と呼ぶのだそうです。

 見過ごせないのは、この地からも銅鐸が出土していること、それに、川西市
と、隣接する猪名川町にまたがって多田銀山が存在していたことです。
 多田銀山は多田鉱山とも呼ばれ、銀の他にも銅なども採れ、奈良東大寺の大
仏建立のための銅もここで採れたものが使用されたといいます。

 それから、オオタタネコのルーツについて、『日本書紀』には異伝も記され
ています。
 それによると、オオタタネコの母は、奇日方天日方武茅渟祇(クシヒカタア
マツヒカタタケチヌツミ)の娘であったとあります。

 『先代旧辞本紀』には、ヒメタタライスズヒメをやはりコトシロヌシの子と
していますが、母の名を活玉依姫とし、その間に、天日方奇日方命(アマツヒ
カタクスヒカタノミコト)とヒメタタライスズヒメが生れたとあります。
 奇日方天日方武茅渟祇と天日方奇日方命。それにイクタマヨリビメ。『日本
書紀』の異伝と『先代旧辞本紀』では、父と子の違いがありますが、イスケヨ
リヒメのルーツとオオタタネコのルーツが結合したかのようなものになってい
るのです。
 『古事記』には、オオモノヌシとイクタマヨリビメとの間に生まれたのがク
シミカタノミコトとなっていますが、クシシカタとクシミカタと非常に似通っ
た名前であることは、決して見過ごしてよいものではないでしょう。

 もう1つ、オオタタネコと製鉄に関係する神社があります。
 それは陶邑にある陶荒田神社です。
 陶邑にあるから陶という言葉が入っているのはわかります。では荒田とは何
をさすのでしょうか。
 思い浮かぶのが、『播磨国風土記』にある、ミチヌシヒメがアメノマヒトツ
の子を生む荒田の神話です。
 今も荒田神社がこの地にありますが、この地域を流れる杉原川の流域には製
鉄に関わる神社などが存在します。
 もしもこれに関係があるとするならば、陶荒田とは、陶邑の荒田という意味
になるでしょう。


・・・つづく

○○と思う

2013年02月27日 01時03分57秒 | 日記
2010年5月20日(木)(2歳1か月)


 和泉中央のファミリーから帰ってきて僕が晩
ごはんをたべていると、みんたが、

 「これ、春奈にあげて」

と、言ってお茶の入ったカップをカウンター置い
た。

 「ちょっと熱いかも。確かめたって」

と、言うので、少しすすってみる。

 うーん、ちょっと熱めかなあ。

 でも、春奈は少々熱いくらいなら平気で飲むか
らな。

 「まあ大丈夫ちゃう?」

と、みんたに答えながら春奈にカップを渡すと、
さわりもせずに、

 「あついと思う」

と、春奈が言った。

 おや?

 「○○と思う」なんて言い方は初めて聞いたな。

 けど、そういうセリフは飲んでみてから言えよ。

105 大物主と出石

2013年02月27日 00時57分20秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生105 ―大物主と出石―


 オオタタネコは『古事記』に河内の美努村(みぬ村、みの村)の
人、『日本書紀』には茅渟の陶邑の人とありますが、これは大阪府
の泉北エリアに広がる陶邑窯跡群に比定されています。
 ただ、この陶邑から銅鐸が発見されていることから、陶邑が単な
る陶器の製造地帯ではないことがうかがわれます。
 アメノヒボコの本拠は兵庫県豊岡市の出石町とされていますが、
ここには、アメノヒボコを祀る出石神社とともに伊福部神社があり
ます。伊福部氏は製鉄に関わる氏族とされていますので、伊福部神
社も伊福部氏と関係があるのかもしれません。しかもここには鍛冶
屋という地名もあるのです。
 この地域の西には円山川が流れますが(ちなみに、出石神社と伊
福部神社の間を流れる出石川は円山川の支流です)、円山川の川口
近くの気比からは4個の銅鐸が出土しています。
 しかも、そのうちの1個は陶邑から出土した銅鐸と同笵であり、
1個は東奈良遺跡で見つかった銅鐸の鋳型から作られたものなので
す。

 さて、『古事記』に記されたオオモノヌシの2つの神婚譚とはま
た別に、『日本書紀』には、モモソヒメとの神婚譚が記されていま
す。
 『古事記』のイクタマヨリビメとの神婚譚では、オオモノヌシが
正体を明かさないまま訪れるので、両親は娘のもとを訪れる貴人の
正体を知ろうと、
「今度その男性が来たなら、赤土(はに)を床の前にまき、閇蘇紡
麻(へそお=紡いだ麻糸を環状に幾重にも巻いたもの)を針に通し、
相手の服の裾に刺しておきなさい」
と、言います。
 そこで姫は男性が来た時に、親に言われた通りに、相手の服に針
を刺し、次の朝早く見てみると、針に通してあった麻糸は戸の鍵穴
を通って出て行っており、部屋に残っていた閇蘇紡麻はたった三勾
(三輪)だけだった、とあります。そして、糸の先を追いかけてみ
ると、三輪山の神の社へと続いていたので、貴人の正体がオオモノ
ヌシだとわかった、というものです。

 モモソヒメの場合では、
「あなたは昼間にはいらっしゃらないので、そのお顔をみることが
できません。どうか今夜はここにお泊まりくださいませ。そうして
朝が来て明るくなった時に、そのうるわしいお姿をお見せください」
と、訴えるモモソヒメに対し、オオモノヌシは、
 「そなたの言うことももっともだ。それならば吾は明日の朝、そ
なたの櫛笥(くしげ=櫛を入れておく箱のこと)の中に入っていよ
う。ただし、私の姿を見ても決して驚いてはいけないよ」
と、答えます。
 ところが、翌朝モモソヒメが櫛笥を開けてみると、1匹のきれいな
蛇がいたので驚いて悲鳴を上げると、蛇は人の姿に変わり、 
「約束にたがえて驚いてしまったね。そなたは吾に恥をかかせた。
だから吾もそなたに恥を与えよう」
と、言うと、空に翔けあがり、御諸山(三輪山)に帰っていってしま
います。
 そして、モモソヒメは神が去っていくのを仰ぎ見ながら、過ちを
悔い、その場にへたり込んだが、その時に箸で下腹部を突いてしま
い亡くなってしまうのです。

 これらと似た話が「常陸国風土記逸文」に記されています。

 昔、兄と妹が同じ日に田植えをした。「遅い時間に植えた者は伊福
部(いぶきべ)の神の崇りにあって殺されるぞ」と、言われていたの
に、妹は遅い時間から田植えを行った。 
 その時、雷が落ちて妹を殺してしまった。
 兄は嘆き、かつ恨んで仇を討とうと思ったが雷神の居場所を知らな
い。
 その時一羽の雌雉がやって来て兄の肩にとまった。績麻(へそ=紡
いだ麻糸を環状に幾重にも巻いたもの)を雉の尾羽根にかけると、雉
は伊福部の岳に飛んで行った。
 兄が績麻の糸をたどっていくと、とある岩屋にたどり着き、中をの
ぞくと雷神が寝ていたから、刀を抜き、雷神を斬ろうとしたところ、
雷神は、あわてて起き上がって命乞いをした。
 「そなたに従い、100年の後もそなたの子孫には雷を落とすこと
はしません」
 兄は雷神を許し、また雉に対しては、
 「生涯この恩を忘れはしない」
と、誓ったので、以来、この地に住む者は雉を食べない。

 績麻を用いて神の住む場所を知る点はイクタマヨリビメのケースと
同じです。
 それに、タブーを破ったために神に殺されるところはモモソヒメの
ケースと同じです。

 しかし、ここで注意すべきは「伊福部の神」と呼ばれていることで
す。

 『播磨国風土記』の揖保郡の項には、出石の出石君(いずしのきみ)
が登場しますが、この話にもタブーが含まれています。

 麻打山(あさうち山)。昔、但馬の国の人、伊頭志君麻良比(いず
しのきみまらひ)、この山に居を構えた。
 ふたりの女が夜に麻を打つと、やがて麻を胸に置いて死んでいた。
ゆえに麻打山という。
 今、この辺りの住む者は夜に麻を打たない。

 すると、オオモノヌシの神婚譚には、出石や伊福部の伝承が入って
いることになるのです。


・・・つづく

いっぱしにお姉ちゃんなのだ

2013年02月26日 00時25分21秒 | 日記
2010年5月19日(水)(2歳1か月)


 風呂上りに、春奈がテーブルでお茶を飲んでいる。

 その近くでは、ゆうきがマンガを読んでいる。

 それで、みんたが、

 「何マンガ読んでるの!早く寝なさい!」

と、叱る。

 すると例によって春奈が強い者につく。

 「うーき(ゆうき)、あかんで」

と、えらそうに言っていたけど、いい加減ねむいのと、
みんたからきつく叱られてゆうきがべそをかきはじめ
ると、

 「春奈よしよしする」

と、言って、椅子から降りてゆうきをなぐさめに行った。

 さらに、

 「一緒にねんねする」

と、ゆうきを連れていこうとする。

 どっちがお姉ちゃんだか・・・。
 
 その春奈、僕に、

 「パパねるからバイバイ」

 さらに僕の背中に、

 「あしたまたあそぼーねー」

と声をかけてくれた・・・。

 僕は遊び相手なのか?