小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

岡山御坊跡(後編)

2017年11月04日 00時41分07秒 | パワースポット
 岡山御坊は、しかし、それ以前にも一度戦火で焼失しているのです。
 だから、寺田又衛門に焼かれたのは再建された岡山御坊だったわけですね。
 1度目の戦火は永禄5年(1562年)に起きた久米田の戦いです。
 
 ここでちょっと当時の時代背景を説明しておきますと、室町時代、摂津国の守護大名は細川氏でした。
 久米田の戦いが起きたのはちょうど戦国時代とも呼ばれる時代で、この時の細川家の当主は細川晴元と
いう人だったのですが、室町幕府の管領職にあり、主に京都にいました。その代理として摂津国の経営を
任されていたのが守護代、つまり守護に次ぐナンバー2である三好長慶で、大層力をつけていきました。
そして、力をつけた結果、諸語の細川晴元を幽閉してしまいました。下剋上というやつです。
 ところが、この一件に対して、細川晴元の妹を妻にしていた六角義賢が晴元を復権させるべく三好長慶と
対立、さらには河内国守護の畠山高政らを味方に引き寄せます。
 
 ちょうどその時、三好長慶の弟で、岸和田城主だった十河一存(そごうかずなが)が死去します。
 これを好機と見た畠山高政は同じ反三好派の勢力と連合して岸和田城を攻めたのです。
 対して三好長慶はもうひとりの弟、三好実休(みよしじっきゅう)を総大将とした援軍を送りますが、畠山軍の
囲みは厚く、三好実休は久米田池の近くにある貝吹山古墳に本陣(貝吹山城)を置いて畠山軍と対峙します。
 
 ↓ 貝吹山古墳の頂上より泉大津、忠岡方面を望む。当時はかなり遠方まで望めたの
   でしょう。
 
 
 
 岸和田城と貝吹山城に挟まれる形となった畠山軍は貝吹山城を攻め、三好実休らの軍と戦いになりました。
これを久米田の戦いといいます。
 貝吹山城は久米田池の西側にあり、つまり岡山御坊とは反対側に位置していたのですが、久米田の戦いで
岡山御坊も焼失してしまったのです。
 この戦いで三好実休は戦死してしまいました。
 ちなみにですが、三好実休の息子の十川存保(そごうまさやす。ながやす、とも)は、豊臣秀吉に帰順し、
島津氏に攻められていた大友氏を救援するために仙石秀久、長宗我部元親・信親父子らとともに豊後に赴き
ますが、島津家久との戸次川の戦いで戦死しています。父子ともに戦死という運命をたどったことになります。
 
 ↓ 久米田にある「三好実休戦没地」の碑
 
 
 なお、この久米田の戦いで、久米田池と貝吹山古墳に挟まれた形で位置する久米田寺も焼失してしまいました。
久米田の戦いの後、久米田寺も岡山御坊も再建されました。岡山御坊が天正8年の焼き討ちの後消え去って
しまったのに対して久米田寺は今も存在します。
 
 ↓ 久米田寺の山門
 
 
 
  ↓ 多宝塔
 
 
 
 
  ↓ 行基堂(開山堂)
 
 
 
 ↓ 多門院
 
 
 
 
 それから、貝吹山古墳ですが、一帯は久米田古墳群と呼ばれる大小の古墳があり、その中で最大が貝吹山
古墳なのです。被葬者は橘諸兄ではないか、とも言われています。
 
 
 ↓ 久米田古墳群の中で2番目に大きな風吹山古墳
 
 
 
 ↓ 円筒埴輪(復元)に囲まれた無名塚古墳
 
 
 
 最後に本願寺のその後をお話ししたいと思います。
 11代門主であった顕如は石山本願寺を退去後、鷺森御坊、貝塚御坊、天満本願寺、京都の本願寺へと遷り、
文禄元年(1592年)死去しました。
 それに伴い、顕如の長男、教如が12代門主に就きますが、この時本願寺では派閥の対立が起こっていたの
です。
 それは、顕如の石山本願寺退去に端を発します。信長と講和し石山本願寺を退去することを決めた顕如に対し、
教如は徹底抗戦を主張しました。それで顕如の考えを支持する穏健派と、教如に賛同する強硬派が対立する
ことになったわけです。
 そんな中事件が起こります。
 顕如の三男准如の生母が、「准如を12代門主とする」とした顕如の遺言状がある、と豊臣秀吉に訴え出たの
です。
 この訴えに秀吉は、教如の12代門主就任を一旦認めた上で、ただし10年の後には准如に門主の座を譲る
ように命じ、教如もこれを受諾したのですが、強硬派がこれに反発、秀吉に撤回を求めたことで秀吉激怒、結果、
教如は直ちに退隠、准如を12代門主とする、という裁定に替えてしまったのでした。
 この処置に対しても、教如はおとなしく退隠したといわれますが、強硬派の不満は収まらず、なおも教如を門主と
する立場を取り続けたため、本願寺は事実上の内部分裂を起こしていたのでした。
 やがて関ヶ原の戦いが起こり、その3年後の慶長8年(1603年)、徳川家康により京都烏丸七条に寺領が寄進
されたことを機に、この地に教如を門主とする東本願寺が誕生したのです。
 一方の准如を門主とする元々の本願寺が現在の西本願寺です。
 
 
 石山合戦から本願寺の分裂まで、浄土真宗の歴史の中でも稀に見る激動期の中で消え去ってしまった岡山御坊。
 現在その跡地には、かつてこの場所に岡山御坊が存在していたことを記す説明文が掲げられています。
 
 
 
 さて、前編・後編にわたって紹介しました今回の岡山御坊。前編のはじめに書いたように、パワースポットと
は少し違うような気がしますが、それでも、かつてここが信仰の地であったことには違いないと思います。
 こういう所って広く知られていないだけで実はたくさんあるのでしょうね。