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小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

チャパリータとペケーニャ

2018年11月27日 00時28分36秒 | 多言語
2013年10月27日(日)(5歳6か月)


 ヒッポファミリークラブのメンバーたちで集まる機会があったので、その中のひとりで
スペイン語を得意とするメンバーに、以前にヒッポのファミリーで起こった出来事を話して
みた。

 それは、ヒッポのファミリーでそれぞれが自己紹介をする時に、ひとりのメンバーが、

 「スペイン語で『小さな家』と言う時って、『カーサ・デ・チャパリータ』でいいん
かな?」

と、言ったので、僕が、

 「この場合は『チャパリータ』やなくて『ペケーニャ』の方とちがうかな?」

と、とっさに言ってしまったことだ。

 その時は、本当にそう思ったからこのように答えたわけなのだけど、後で考えてみると、
自分でそう思ったにすぎず、はたして正解かどうかは保証できん・・・。

 ただ、僕の中では、「チャパリータ」あるいは「チャパリート」は、「おちびちゃん」
みたいなニュアンスを含んでいるようなイメージを抱いていた。


 はたして、そのメンバーが答えるには、だいたい僕の解釈どおりだった。
 「大きい」の反対となる「小さい」が「ペケーニャ」あるいは「ペケーニョ」。
 「チャパリータ」、「チャパリート」は「小っちゃい」とか「おチビちゃん」という
意味でどちらかと言えば会話の中で使われる言葉のようだ。スペイン語には「チキータ」、
「チキート」という言葉があるけど、これも同じ意味だそうだ。



 こんな話をした後で思い出したのだけど、幼い頃の春奈は、「少しちょうだい」と言う
時に「小さくちょうだい」と言っていた。

 これは、僕たち大人が「チャパリータ」と「ペケーニャ」の違いがよくわかっていない
と同じで「小さい」と「少し」の違いがわかっていないせいにちがいない。

 が、それと同時に、区別する必要もまたないのだ。

 どういうことなのかと言うと、大人が「小さい」と「小っちゃい」の区別がつかないの
と同じで幼い春奈にとって「小さい」と「少ない」を区別する必要などなかったのである。

 なぜなら、それで相手に通じるのだから。


 このことは、言葉が育つ過程を見る上で重要な意味を持つ。

 つまり、「小さい」と「少ない」の区別がつかないから、まだ言葉は未完成なのだ、と
とらえるのではなく、幼い春奈にとって意味の通じることなのならば、すでに言葉は完成
しているということになるのだ。

 もっと突っ込んで言うなら、赤ちゃんの言葉は初めから完成されたものなのだ。

 だから、言葉が育つ過程を見る、ということは、未完成品が完成品となる過程を見るの
ではなく、初めから完成されたものが変化していくのを見る過程を見ると言うことなので
ある。

 そして、日本語以外の言葉に関しては大人もまた赤ん坊や幼児と同じことをしていると
いうことでもある。

広東語の歌

2018年08月28日 01時42分36秒 | 多言語
2013年10月20日(日)


 こどもたちがテレビのバラエティ番組を観ていると、ジャッキー・チェンの
エピソードを紹介するコーナーが登場し、ジャッキー・チェン主演の映画の
ひとつだろうか、広東語の歌がBGMに使われていた。

 広東語の歌は聴くだけでそれが広東語だとわかる。

 だいたいどこの言語も歌にするとそれが何語なのかすぐにわからないことが
多い。

 そもそも何語か判別するのはその言語が持つ独特のリズムである。

 ところが歌になるとそのリズムが変わってしまうので判別が難しいのだ。

 中南米あたりのスペイン語の歌を聴いた時に、「これ英語じゃないな」と
気づくことは比較的に難しいことではないのだけど、ではそれがスペイン語か
ポルトガル語かフランス語か、あるいはイタリア語か、などの判別はなかなかに
難しい。

 そもそも今挙げた言葉は兄弟同士みたいな関係の言語なのだから。


 中国語と広東語も兄弟同士と言える。

 中国には数多くの言語が存在していて、主要なものだけでも8つある。

 これを8大方言と言って、北京語、広東語、上海語、福建語などがある。

 なお、中国語とは、中国では普通話と呼ばれ、北京語を基に造られた権語を指す

 日本語の標準語が東京の山の手で話されていた言葉を基に造られたのと似ている。

 だから、標準語と東京弁が別物であるように、中国語と北京語は別物なのだけど、
標準語が東京弁と同一視されるのと同じように中国と北京語も同一視される傾向に
あるようだ。特に日本では。


 ただ、中国語と広東語は歌にしてもまったく同じには聴こえない。

 ウソのような本当の話だけど、中国語のポップスを聴いた時にこれを英語の歌
だと聞き間違える日本人は少なくないのだ。

 それだけ歌にすると言語の持つリズムは変わってしまい、中国語と英語が似て
しまうというような現象が起きる。

 ところが、広東語だけは歌にしても広東語のリズムを失うことがない。

 いや、むしろ会話の時のリズムよりもより独特のリズムを生みだすくらいだ。
 
 具体的に言うと言葉の抑揚が大きい。


 今、中国では中国語(普通話)が普及して若い世代では地元の言語(上海語や
福建語など)よりも中国語で会話をする人が増えていっているらしい。

 そして、香港でもだいぶ中国語が浸透していると聞く。

 けども僕個人にとって広東語の歌は絶対になくなってほしくない言葉のひとつ
である。

数字の読み方

2016年05月23日 01時29分42秒 | 多言語
2013年3月10日(日)(4歳11か月)
 
 
 きのうの数字の話で少し雑談してみたい。
 
 数字という言葉が示すように1・2・3あるいは
一二三は文字である。
 
 ちなみに1・2・3の数字のことをアラビア数字
と呼ぶけれどもこれはインドで生まれた。
 
 この文字がアラビアに伝わり、そこからヨーロッパに
伝わったためにヨーロッパではアラビア数字と呼び、
今度はヨーロッパから日本に伝わったから日本でも
アラビア数字と呼んでいる。
 
 ただ、数字の読み方というのはその国によって、
と言うかその言語によって違うのだ。
 
 たとえば日本語でなら、1982は「センキュウヒャク
ハチジュウニ」になり、これは、「1000+900+80+2」
という読み方になる。
 
 英語だと「ナインティーン・エイティツー」で、「19+82」
という読み方になる。
 
 中国だと「イーヂョーパーアル」で、「1+9+8+2」と
いう読み方になる。
 
 この数字の読み方というのはどこから来ているのだろう?
 
 ちょっと気になる。

450 雄略天皇VS吉備④

2015年11月08日 00時39分05秒 | 多言語
大国主の誕生450 ―雄略天皇VS吉備④
 
 
 さて、当主の田狭が新羅に走り、子の弟君をも失った吉備上道臣のその後について
です。
 弟君には兄君という兄がいました。どうやらこの兄君が吉備上道臣の当主になった
ようです。
 田狭が新羅に走ったのは、彼が任那に赴任している間に雄略天皇が妻の稚姫(わか
ひめ)を奪ったからでしたが、一連の原因を作ったその雄略天皇が崩御した後です。
 
 ちなみに、雄略天皇が崩御した直後のこととして、『日本書紀』は吉備臣尾代の活躍を
載せています。
 吉備臣尾代は征新羅将軍として、500人の蝦夷を率いて吉備を行軍中でしたが、そこに
雄略天皇の崩御の報せが入ります。すると、これを知った蝦夷たちは軍を抜け出し周辺の
郡を略奪して回ったのです。
 尾代は、娑婆水門(広島県福山市の海岸に比定)にて蝦夷と戦い、逃げる蝦夷を追って、
ついには丹波の浦掛水門(京都府の久美浜湾に比定)にてすべての蝦夷を殺した、と
いう話です。
 
 吉備臣尾代は忠臣として描かれていますが、吉備臣とは、先に紹介した、『日本書紀』に
ある、応神天皇が御友別の息子や兄弟たちに吉備を分割して与えたとする記事の中で、
「吉備臣の祖御友別」とあるので、御友別の直系が吉備臣であるようです。
 その吉備臣尾代の活躍の後、吉備上道臣の方は星川皇子の謀反に加担することに
なるのです。
 雄略天皇と稚姫との間には磐城皇子と星川稚宮皇子が生まれましたが、星川皇子とは
この星川稚宮王子のことです。
 
 雄略天皇の死後、雄略天皇と葛城韓媛(かつらぎのからひめ)との間に生まれた白髪
皇子が即位し、22代清寧天皇となりました。
 
 しかし、雄略天皇崩御に際して稚媛は、星川皇子に、
 「皇位をのぞむなら大蔵を手中に収めなさい」
と、言ったのです。
 大蔵とは朝廷の財を収める蔵で文字どおり国庫のことです。奈良時代には財政機関に
大蔵省の名称が用いられるようになります。
 この時、兄の磐城皇子は、
 「次の天皇は白髪皇子と決定しているのだからこれは明らかに謀反であり、道に外れる
行為だ」
と、星川皇子を諭しますが、異父兄にあたる吉備上道臣兄君は星川皇子に加担します。
 そして、ついに星川皇子が大蔵を襲ったので、磐城皇子も星川皇子に加担することに
なりました。
 大蔵を占拠した星川皇子は朝廷の財源を私物化してしまったので、大伴室屋(おおともの
むろや)は東漢掬(やまとのあやのつか)を鎮圧に向かわせます。
一方、吉備上道臣らは星川皇子や兄君の味方をするべく軍船40艘で瀬戸内海を東へと
向かったのです。
 ところが、吉備の軍が到着する前に、星川皇子の乱はあっさり制圧されてしまったので
した。
 征討軍は大蔵を完全包囲すると火を放って中にいる人々を焼き殺したのです。この時に、
星川皇子も稚媛も、磐城皇子も兄君もみな焼死してしまいました。
 乱が鎮圧されたという報せを受けた吉備上道臣の軍は吉備に引き返しますが、清寧
天皇に罪を問われ、吉備上道臣が治めていた山部を取り上げられてしまったのでした。
 
 さらにその後、吉備に朝廷の直轄地である縣(あがた)が設置されることになったのです
が、そのうち上道縣、三野縣、川島縣が置かれた場所について、原島礼二(『古代の王者と
国造』)は、上道縣は両宮古墳(全長192メートル)のあたりに、三野縣は金蔵山古墳(全長
165メートル)、湊茶臼山古墳(全長160メートル)のあたりに、川島県は造山古墳(全長
350メートル)、や作山古墳(全長286メートル)、のあたりにそれぞれ置かれたと推測して
います。
 巨大古墳のそばに縣が置かれたことは、吉備の首長たちが重要視する地に朝廷の楔が
打ち込まれたことと解釈されるのです。
 
 『日本書紀』の欽明天皇十六年の記事には、
 
 「蘇我大臣稲目宿禰、穂積磐弓臣らを遣わして、吉備の五つの郡に白猪屯倉を置かしむ」
 
と、あり、その翌年の欽明天皇十七年の記事には、
 
 「蘇我大臣稲目宿禰らを遣わして、備前の兒嶋郡に遣わして屯倉を置かしむ」
 
と、あるように、吉備に白猪屯倉、兒嶋(児島)屯倉と、天皇の直轄地である屯倉が置かれる
ことになったのです。
 また、門脇禎二(『出雲の古代史』)は、『日本書紀』などの記録には記されてはいないけれ
ども東広島市豊堺町安宿にも屯倉が置かれたとする説を唱えています。
 門脇禎二が東東広島市豊堺町安宿に屯倉が置かれたと考えた理由についてはまた後で
お話しさせていただくことにしたいのですが、もし本当に屯倉が設置されたのであれば、吉備の
最西部にも屯倉が置かれたことになります。
 
 さらにその後、全国に国造が任命されることになりますが、国造にはその地の有力豪族が
任命されたと考えられています。
 吉備の場合には、備前、備中、備後に複数の豪族が任命されました。
 吉備に任命された国造は、大伯国造、上道国造、三野国造、笠臣国造、加夜国造、下道
国造、吉備中県国造、吉備品遅国造、吉備穴国造と、実に9名に上ります。これは事実上
吉備を9つに分割したと言えるでしょう。
 
 このように大和政権は吉備の力を削ぎ、影響力を強めていったのです。
 吉備を完全に支配下に置いた大和政権は、その次に吉備のその向こうにある地域へと目を
向けていくことになったことでしょう。
 その地域とは出雲です。
 
 しかし、出雲進出の前に、まだ大和では動乱の時代が続いたのです。

444 允恭系と大阪府

2015年10月25日 02時39分44秒 | 多言語
大国主の誕生444 ―允恭系と大阪府―
 
 
 しかしながら、允恭系の皇統が大日下王の皇統と姻戚関係を結ぼうとした理由は
何なのでしょうか。
 これについては3つの理由が考えられます。
 
 1つ目は、允恭系の皇統が皇位を継いでいくために、大日下王と敵対するのでは
なく取り込もうと考えたとみることです。
 ただし、安康天皇は大日下王を討ち滅ぼしてしまいました。
 この事件を、『古事記』も『日本書紀』もともに根使主が虚偽の讒言をしたために
起こったと記しますが、疑うなら、初めから安康天皇によって仕組まれたことだと疑う
こともできるものです。
 
 では、2つ目の理由。これは3つ目の理由と関連するのですが、大日下王やその
妹の若日下王は太陽祭祀にたずさわっていたと思われることです。
 つまり、允恭系の皇統にとっては太陽祭祀を独占したかった、だから巫女的存在
であった若日下王を雄略天皇の后に迎えたかった、というわけです。
 この時代に、皇祖神を太陽神にもとめる「高光る日の御子」の思想ができたことが
影響しているものと思われます。
 
 そして3つ目の理由。その若日下王が河内に坐したことです。
 このことは、『古事記』に、若日下王を訪ねるために雄略天皇が生駒山を越えていく
場面が登場することや、『日本書紀』に、根使主が討たれた後、雄略天皇はその一族を
2つに分け、一方を大草香部民(おおくさかべのたみ)として皇后に与え、もう一方を
負嚢者(ふくろかつぎびと)にして茅渟県主に与えた、とあることからうかがえます。
 根使主が天皇の軍勢に対抗するために籠城したのが日根であり、これが現在の
大阪府泉佐野市周辺に比定されているからです。
 
 一方で葛城氏も大阪府に進出していたとされていますので、允恭系にとって、大阪府を
押さえる必要があったのです。
 と、言うのも、允恭系の宮があった場所を見てみますと、
 
 19代允恭天皇 遠飛鳥宮
 20代安康天皇 石上穴穂宮
21代雄略天皇 泊瀬朝倉宮
 
と、いずれもが大和に宮を置いているのです。
 允恭系は大和に比重を置いた皇統だと言えるでしょう。そのために、隣国であり、瀬戸
内海の玄関口である大阪府を押さえたかったのでしょう。
 
 さて、そんな允恭系ですが、陵墓について言えば允恭天皇も雄略天皇も河内にその
陵墓があります。
 これまでにも何度かお話ししたことですが、天皇陵というものは、『古事記』や『日本
書紀』に記された歴代天皇の陵墓の場所に当てはまる古墳をその天皇の陵墓と指定
しているだけで、近年の技術でおこなった調査結果によりその古墳が造られた年代と
その天皇が治世していたとされる年代が一致しないケースが多くあります。
 反対に、河内大塚山古墳(大阪府松原市と羽曳野市にまたがる)、丸山古墳(奈良県
橿原市)、土師ニサンザイ古墳(大阪府堺市)などは、その大きさで全国5位、6位、7位
であるにも関わらず天皇陵には指定されていません。(ただし陵墓参考地にはいずれも
指定)これは、記紀に載っていないためです。
 
 それで允恭天皇陵ですが、これは大阪府藤井寺市国府1丁目の市野山古墳が指定
されています。調査によりこの古墳が造られたのは5世紀中頃であることが判明しました
ので允恭天皇の治世と一致します。
 注目したいのは市野山古墳が築かれた場所です。
 ちょうど長尾街道が通る場所にあるのです。長尾街道は葛城と旧堺港を結ぶ古代道で、
葛城氏が大いに関係していたと見られます。
 しかも、この辺りは太陽祭祀にも関わっていたと考えられる土師氏の拠点でもあるの
です。
 
 雄略天皇陵に指定されている島泉丸山古墳は大阪府羽曳野市にあります。
 島泉丸山古墳は円墳で、濠で囲まれ全長が76メートルありますが、巨大古墳が多く
存在する古市古墳群にあっては小ぶりです。そのため雄略天皇の陵墓にしては小さすぎ
るという理由で被葬者が雄略天皇なのか疑問視する声も少なくありません。
 では、それならば本当の雄略天皇陵はどこにあるのか、と言うと、候補に挙がっている
のが藤井寺市藤井寺4丁目にある岡ミサンザイ古墳や、先に登場した、大阪府松原市と
羽曳野市の境にある河内大塚山古墳などです。
 岡ミサンザイ古墳は14代仲哀天皇陵に指定されていますが、造られたのは5世紀後半
と見られ、雄略天皇の治世と一致するのです。
 これに対して河内大塚山古墳は造られた時期が6世紀後半と見られるのでその点で
雄略天皇陵とは見做しにくいという面があります。
 
 ただ、允恭・雄略天皇にかぎらず多くの天皇の陵墓が河内平野に造られた理由につい
てはよくわかっていません。
 以前には、大和政権は河内で誕生し大和に遷ったので(河内王朝説)、古代天皇家に
とって河内は古代天皇家誕生の聖地であった、と考えられていましたが、河内王朝説が
否定される傾向にある今日においては、河内平野に天皇陵が造られた理由は謎のまま
です。
 
 それでも、大和に宮を置いていた天皇たちもが河内平野に眠るのには河内平野を
重要視する何らかの理由があったのでしょう。
 だからこそ允恭系には大阪府を押さえようとしていたものと思われます。