小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

423 「新羅本紀」の倭人とは?

2015年08月31日 00時32分36秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生423 ―「新羅本紀」の倭人とは?―
 
 
 新羅が倭人の襲撃を受けてきたとされる紀元前50年から未斯欣が人質に出された
西暦402年までの間。この間にも何度か和平や親交もあったようです。
 再び「新羅本紀」に目を向けますと、
 
 〇脱解尼師今三年(59年) 倭国と親交を結び、使者を交換した。
 〇祇摩尼師今十二年(123年) 倭国と講和した。
 〇阿達羅尼師今二十年(173年) 倭国の女王卑弥呼が使者を送って礼訪してきた。
 〇基臨尼師今三年(300年) 倭国との外交を通じた。
 〇訖解尼師今三年(312年) 倭の国王が使者を送って、子の婚姻を請うたので阿飡
  急利の娘を送った。
 〇訖解尼師今三十五年(344年) 倭国が使者を送って、子の婚姻を請うたので阿飡
  急利の娘を送った。
 〇訖解尼師今三年(312年) 倭の国王が使者を送って婚姻を請うてきたが、娘はすでに
  出嫁したといって拒絶した。
 〇奈勿尼師今九年(364年) 倭王は書を送って国交を絶った。
 〇実聖尼師今元年(402年) 倭国と友好関係を設定し、奈勿王の子、未斯欣を人質
  とした。
 
 これらの記事もまた史実かと言えばかなりあやしい。何しろ新羅の建国は4世紀中頃と
考えられているし、その当時の大和政権の支配地域は畿内に留まっていたと見られている
のです。(4世紀中頃の大和政権の支配地域については諸説あり決着を見ないのが実情
ですが)
 「新羅本紀」の和訳として参考にさせたいただいた金錫亨の『古代朝日関係史』(朝鮮史
研究会訳)も、『日本書紀』の新羅に関する記事に歪曲が見られるとする一方で「新羅本紀」
にも歪曲が見られると指摘しています。
 どういうことかと言うと、「新羅本紀」では、倭国の方から使者を送って来ることはあっても
新羅の側から先に使者を送ったことはなく、ただ使者の交換をしたことがあるだけなのです。
これは、『日本書紀』が新羅使者の継続的な来訪記事を載せていることと合致しないのです。
 
 それでは、その相違はどこから来ているのでしょう。
 この疑問を解決しようとするなら、「新羅本紀」の記事をあらためて読む必要があります。
 「新羅本紀」の文では、しばしば新羅を襲撃したのは「倭人」であり、時に「倭兵」と記され
ています。
 これに対して、使者を送ってきたのは「倭国」であり「倭王」と記されています。
 問題は、ここで言う「倭人」や「倭国」とはどのような人々を指すのか、ということです。
 金錫亨も指摘するのは、当時の大和政権が西日本を支配下においていたとは考えにくい
とし、敵国とも言える吉備や九州を経由して新羅を襲ったり使者を送ったりすることが可能
であったとは思えない、ということです。
 また、日本国内の研究者たちの中にも、同じ理由で当時の大和政権が新羅に渡っていた
とは考えにくく、新羅をたびたび襲撃したのは大和政権とは別の集団、もしくは朝鮮半島
内部に移住していた日本の海人たちから成る集団ではなかった、と考える人たちもいます。
 金錫亨もまた、2~3世紀のまだ小国家だった新羅が倭人と接触を持っていて侵犯を受ける
ことがあったのは事実であり、ならばその倭人とは新羅とは近い距離にあり、そうすると
北九州か出雲地方でしかない、と考察しています。
 
 日本人の研究者だけでなく韓国人の研究者の中にも「倭人」を朝鮮半島南部にいた人々の
ことだと考える人物がいます。
 金達寿(『見直される古代の日本と朝鮮』)は、倭人が日本列島に住む人々であったならば、
この時代の航海技術でしばしば新羅まで攻めてくることが可能だったのか、という疑問を
投げかけています。
 また、金達寿は、「新羅本紀」の伐休尼師今十三年の、
 
 「六月、倭人は大飢饉のため食物を求めてきた者が千余人であった」
 
とする記事に注目し、飢餓に直面した人々が難民として千人余りも海を越えてやって来る
ことがあり得たとは思えない、と指摘します。
 
 これらの説を統括すれば、新羅を襲った「倭人」とは、朝鮮半島南部(具体的には弁韓や
伽耶)にいた人々ということであり、「倭国」も朝鮮半島南部の小国、もしくは日本の北九州か
出雲地方の、大和政権とは別の勢力であった、と考えられる、ということになるのです。
 

どんぐりころころ

2015年08月30日 00時47分17秒 | 日記
2012年10月25日(木)(4歳6か月)
 
 
 春奈が同様の『ドングリコロコロ』を歌っている。
 
 ただ、歌詞はツッコミどころ満載の間違いっぷり
である。
 
 「どんぐりころころどんぐりこ
 おおおけにはまってさあ大変
 小僧が出てきてこんにちは
 ぼっちゃんいっしょに遊びましょ
 
 「どんぐりこ」じゃなくて「ドンブリコ」だよ。
 
 でも、「どんぐりこ」と間違えるのは理解できるな。
 
 音がドングリの方に引っ張られちゃうんだね。
 
 それと「おおおけ」じゃなくて「お池」な。「おおおけ」って
何?「大桶」のこと?
 
 これは「池」という言葉を春奈も知っているけど、
「お池」は知らない、というパターンだろう。
 
 ゆうきとりえのふたりは、小学1年生の頃、「ダイシキュウ
(大至急)」という言葉は知っていたけど「シキュウ(至急)」と
いう言葉は知らなかった。
 
 これと同じだろう。
 
 それにしても。
 「どじょう」が「小僧」になっているのは驚いた。
 
 今日の4歳児がどじょうを知らないのはわからないでも
ないけど、「小僧」は知っているのかよ。
 
 幼児の歌う歌の歌詞が間違っているのは、歌詞に登場
する言葉を知らないことが原因で、知っている似た言葉に
変換されてしまうからだ。(単純に耳に聞こえた音のとおりに
歌っている場合もまた多いけども)
 
 反対に言い間違えて歌っている言葉は知っている、という
ことで、それはそれで興味深い。

422 「新羅本紀」にみる倭の侵攻

2015年08月29日 06時19分32秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生422 ―「新羅本紀」にみる倭の侵攻―
 
 
 そこで、当時の新羅と日本に関わる記事を、『三国史記』の「新羅本紀」」から探して
みると、かなり倭人の侵攻に関するものが載せられています。
 以下がそれらの記事からの抜粋です。
 
 〇始祖赫居世居西干八年(前50年) 倭人が兵をすすめて辺境を侵犯しようとしたが、
始祖に神のような徳があると聞いて、そのまま兵を引き返した。
 〇南解次次雄十一年(14年) 倭人は兵船百余隻を送って海辺の民家を掠めた。
 〇脱解尼師今十七年(73年) 倭人は木出島を侵犯した。
 〇祇摩尼師今十年(121年) 倭人が東の辺境を侵犯した。
 〇奈解尼師今三年(208年) 倭人が辺境を侵犯した。
 〇助賁尼師今三年(232年) 倭人が突然やってきて金城を包囲した。
 〇助賁尼師今三年(233年) 倭兵が東の辺境を掠めた。
〇沾解尼師今三年(249年) 倭人が舒弗邯の于老を殺した。
 〇儒礼尼師今四年(287年) 倭人が一部礼を襲って火をつけ、千名を生け捕りに
して帰った。
 〇儒礼尼師今九年(292年) 倭兵が沙道城を攻めて陥落させた。
 〇儒礼尼師今十一年(294年) 倭兵が来て長峰城を攻めたが勝てなかった。
 〇訖解尼師今三十七年(346年) 倭兵が突然、風島にやって来て辺境の民家を
掠奪し、また金城を包囲して急速に攻撃した。
 〇奈勿尼師今九年(364年) 倭兵の大部隊がやって来た。
 〇奈勿尼師今三十八年(393年) 倭兵が来て金城を包囲し五日たっても囲みを
解かなかった。
 
 最後に登場する奈勿尼師今が未斯欣の父です。奈勿尼師今の次の実聖尼師今の
元年に未斯欣は倭国に人質として送られるのです。
 未斯欣が人質に出されるまでに、新羅は長い間にわたって倭人の襲撃を何度も
受けてきたことが「新羅本紀」には記されているわけです。
 しかし、未斯欣が人質として倭国に渡った後も倭人の襲撃は続いたようです。
 引き続き「新羅本紀」から。
 
 〇実聖尼師今四年(405年) 倭兵が来て明活城を攻めた。
 〇実聖尼師今六年(407年) 春三月、倭人が東の辺境を侵犯した。夏六月に、
さらに南の辺境を侵犯して百人を掠奪していった。
 〇実聖尼師今十四年(415年) 倭人と風島で戦い、これに勝った。
 〇納祇麻立干十五年(431年) 倭兵が来て東の辺境を侵犯し明活城を包囲した。
 〇納祇麻立干二十四年(440年) 倭兵が南の辺境を侵犯して生口を掠奪して
いった。夏六月、再び東の辺境を侵犯した。
 〇納祇麻立干二十八年(444年) 倭兵が金城を十日間包囲した。
 〇慈悲麻立干二年(459年) 倭人が兵船百余隻で東の辺境を侵犯、月城を包囲
した。
 〇慈悲麻立干五年(462年) 倭人が活開城を襲い千名を生け捕りにして去った。
 〇慈悲麻立干六年(463年) 倭人が欿良城を侵犯した。
 〇慈悲麻立干十九年(476年) 倭人が東の辺境を侵犯した。
 〇慈悲麻立干二十年(477年) 倭人が兵を起し、五街道から侵犯してきた。
 〇炤知麻立干四年(482年) 倭人が辺境を侵犯した。
 〇炤知麻立干八年(486年) 倭人が辺境を侵犯した。
 〇炤知麻立干十九年(497年) 倭人が辺境を侵犯した。
 〇炤知麻立干二十二年(500年) 倭人が長峰鎮を攻めて陥落させた。
 
 日本の歴史においてひとつの転換期となる継体天皇の即位が西暦では507年の
こととされていますので、それまでの間の何度となく倭人の襲撃を受けてきたわけです。
 ただし、「新羅本紀」の記事がそのまま史実と見做すわけにもいきません。
 そもそもの新羅の建国は4世紀中頃のことと考えられており、その時の王であった
奈勿王(奈勿尼師今)よりも以前の王についても伝説上の人物で実在性は疑わしいと
いわれているのです。(ただし韓国の国定教科書では、新羅の建国は紀元前57年の
こととなっています)
 それまでの新羅はせいぜい朝鮮半島の東に位置するいくつかの村落を支配していた
にすぎず、4世紀の日本もまた、大和政権の支配地域はよくて畿内を治めていた程度
と考えられるのです。
 いずれにせよ、7世紀頃の、日本や新羅といった国家と同じようにイメージしてはいけ
ないのです。

電話ごっこ

2015年08月26日 01時48分11秒 | 日記
2012年10月25日(木)(4歳6か月)
 
 
 春奈は赤ん坊の頃から電話に興味津々
だった。
 
 僕が実家の母親に電話している時、電話の
相手がおばあちゃんだと気づいた春奈がいつも
電話を替われ、と催促してきた。
 
 でも、いざ替わってやっても赤ん坊だから何も
喋れなかったりした。
 
 今でも時々ひとりで電話ごっこをしている。
 
 今日、久しぶりに春奈のひとり電話ごっこを
見たけど、春奈、
 
 「あ、もっしー」
 
 などと言っている。
 
 それ、お姉ちゃんが友達と電話している時の
会話やん。ちゃんと「もしもし」と言えよ。
 
 しかも、「あ、もっしー」の時の語尾上げのところ
などお姉ちゃんそっくりだ。
 
さらに、
 
 「えー、ほんまに?あ、もっしー」
 
とか言っている。
 
 これにはさすがにお姉ちゃんからも、
 
 「使い方おかしいやろ」
 
と、つっこまれていた。

421 百済王子の帰還

2015年08月25日 01時17分54秒 | 大国主の誕生

大国主の誕生421 ―百済王子の帰還―

 

 『日本書紀』の応神天皇八年の記事には次のようにあります。
 
 「八年の春三月に百済人が来朝した。「百済記」にいわく、(百済の王)阿花王は即位して
以来、日本に対して朝貢することはなかった。そのために、枕彌多礼、峴南、支侵、谷那、
東韓の地を奪われてしまった。そこで王子の直支を天朝に遣わして修好を求めてきた」
 
 百済領を侵攻したのは、岩波古典文学大系『日本書紀』の頭註では日本が侵攻した、と
していますが、これは高句麗が、と見るべきだと思います。
 この阿花王は、「百済本紀」では、阿莘王(アシン王)で王子は腆支となっています。後の
腆支王です。
 
 この直支王が帰国したのは『日本書紀』では応神天皇十六年のこととなっています。
 すなわち、
 
 「この年、阿花王が薨去した。天皇、直支王を召して、『汝は国に帰って王位に就け』と
言った。また、東韓の地を賜り遣わした」
 
と、あるのがそれです。
 
 一方の「百済本紀」にも、阿莘王六年に、王は倭国と友好関係を結び、太子の腆支を
人質として送った、とあります。
 そして、十四年に阿莘王が薨去すると、阿莘王の二番目の弟の訓解が政事を代理で
務めたが、末弟の碟礼が訓解を殺害して自ら王位に就いた。腆支は倭国でこの訃報を
聞き、泣いて帰ることを請うと、倭王は兵一千名をもって護衛した、と「百済本紀」は伝え
ます。
 結果として碟礼は国の人々に殺され、入京した腆支は王位に就きます。
 
 『日本書紀』では、直支(腆支)が日本にいたのは応神天皇八年から十六年の間とあり、
「百済本紀」では阿莘王六年から十四年の間とあるので、どちらも8年ということで一致
しています。
 もっとも、この一致は『日本書紀』を編纂する際に「百済本紀」を参照したものだろう、とも
言われています。
 
 さて、阿莘王六年から十四年というと、西暦に直すと397年から405年になります。
 新羅の未斯欣が日本にいた期間は、「新羅本紀」の記事を西暦に替えると、402年から
418年の間ということになります。
 つまり、402年から405年の間は腆支と未斯欣がともに日本にいたことになるのです。
 
 ところで、このふたりの帰国の事情は大きく異なります。
 百済王子の腆支の場合は、護衛の兵1000人をつけてもらっての帰国で、しかもそれは
百済王として即位するための帰国でした。
 一方、新羅王子の未斯欣の場合は、策略を用いて脱出するというもので、「新羅本紀」は
倭の将帥たちがついていたことが記されていますし、『日本書紀』でも葛城襲津彦がついて
いた、と記されており、これは明らかに監視役として描かれているのです。
 この違いは何なのでしょうか。
 『日本書紀』は一貫して百済については好意的、新羅については悪しざまに書いているの
ですが、「新羅本紀」の中でも、卜堤上が日本に向かう時に妻に向かって、
 「敵国に行く」
と、言っているのです。