大国主の誕生423 ―「新羅本紀」の倭人とは?―
新羅が倭人の襲撃を受けてきたとされる紀元前50年から未斯欣が人質に出された
西暦402年までの間。この間にも何度か和平や親交もあったようです。
再び「新羅本紀」に目を向けますと、
〇脱解尼師今三年(59年) 倭国と親交を結び、使者を交換した。
〇祇摩尼師今十二年(123年) 倭国と講和した。
〇阿達羅尼師今二十年(173年) 倭国の女王卑弥呼が使者を送って礼訪してきた。
〇基臨尼師今三年(300年) 倭国との外交を通じた。
〇訖解尼師今三年(312年) 倭の国王が使者を送って、子の婚姻を請うたので阿飡
急利の娘を送った。
〇訖解尼師今三十五年(344年) 倭国が使者を送って、子の婚姻を請うたので阿飡
急利の娘を送った。
〇訖解尼師今三年(312年) 倭の国王が使者を送って婚姻を請うてきたが、娘はすでに
出嫁したといって拒絶した。
〇奈勿尼師今九年(364年) 倭王は書を送って国交を絶った。
〇実聖尼師今元年(402年) 倭国と友好関係を設定し、奈勿王の子、未斯欣を人質
とした。
これらの記事もまた史実かと言えばかなりあやしい。何しろ新羅の建国は4世紀中頃と
考えられているし、その当時の大和政権の支配地域は畿内に留まっていたと見られている
のです。(4世紀中頃の大和政権の支配地域については諸説あり決着を見ないのが実情
ですが)
「新羅本紀」の和訳として参考にさせたいただいた金錫亨の『古代朝日関係史』(朝鮮史
研究会訳)も、『日本書紀』の新羅に関する記事に歪曲が見られるとする一方で「新羅本紀」
にも歪曲が見られると指摘しています。
どういうことかと言うと、「新羅本紀」では、倭国の方から使者を送って来ることはあっても
新羅の側から先に使者を送ったことはなく、ただ使者の交換をしたことがあるだけなのです。
これは、『日本書紀』が新羅使者の継続的な来訪記事を載せていることと合致しないのです。
それでは、その相違はどこから来ているのでしょう。
この疑問を解決しようとするなら、「新羅本紀」の記事をあらためて読む必要があります。
「新羅本紀」の文では、しばしば新羅を襲撃したのは「倭人」であり、時に「倭兵」と記され
ています。
これに対して、使者を送ってきたのは「倭国」であり「倭王」と記されています。
問題は、ここで言う「倭人」や「倭国」とはどのような人々を指すのか、ということです。
金錫亨も指摘するのは、当時の大和政権が西日本を支配下においていたとは考えにくい
とし、敵国とも言える吉備や九州を経由して新羅を襲ったり使者を送ったりすることが可能
であったとは思えない、ということです。
また、日本国内の研究者たちの中にも、同じ理由で当時の大和政権が新羅に渡っていた
とは考えにくく、新羅をたびたび襲撃したのは大和政権とは別の集団、もしくは朝鮮半島
内部に移住していた日本の海人たちから成る集団ではなかった、と考える人たちもいます。
金錫亨もまた、2~3世紀のまだ小国家だった新羅が倭人と接触を持っていて侵犯を受ける
ことがあったのは事実であり、ならばその倭人とは新羅とは近い距離にあり、そうすると
北九州か出雲地方でしかない、と考察しています。
日本人の研究者だけでなく韓国人の研究者の中にも「倭人」を朝鮮半島南部にいた人々の
ことだと考える人物がいます。
金達寿(『見直される古代の日本と朝鮮』)は、倭人が日本列島に住む人々であったならば、
この時代の航海技術でしばしば新羅まで攻めてくることが可能だったのか、という疑問を
投げかけています。
また、金達寿は、「新羅本紀」の伐休尼師今十三年の、
「六月、倭人は大飢饉のため食物を求めてきた者が千余人であった」
とする記事に注目し、飢餓に直面した人々が難民として千人余りも海を越えてやって来る
ことがあり得たとは思えない、と指摘します。
これらの説を統括すれば、新羅を襲った「倭人」とは、朝鮮半島南部(具体的には弁韓や
伽耶)にいた人々ということであり、「倭国」も朝鮮半島南部の小国、もしくは日本の北九州か
出雲地方の、大和政権とは別の勢力であった、と考えられる、ということになるのです。