小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

647 蘇我氏の登場その13

2019年05月27日 01時13分10秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生647 ―蘇我氏の登場 その13―


 『出雲国風土記』にある仁多郡三沢郷の伝承には、大穴持命(オオナモチノミコト)の御子、
阿遅須枳高日子命(アジスキタカヒコノミコト)が大人になっても夜昼泣いてばかりで言葉を
話すことはなかったので大穴持が、その原因を知ろうと夢占いをしてみた結果アジスキタカヒコが
言葉を発するようになった、という内容です。
 これを谷川健一(『青銅の神の足跡』)らは、指水銀中毒による言語障害だったと考察して
います。

 さらに、『出雲国風土記』の仁多郡三沢郷の条には次のような一文があります。

 「今も孕める婦人はその村の稲を食わず。もし食う者があれば、生まれる子はもの言わざるなり」

 これと同じような伝承が三重県四日市市水沢町の足見田神社(あしみだ神社)に残されています。
それは、神域の東にオシミ田という地があり、ここで農耕する者は、口がきけない子を生む、と
いうものです。

 このふたつの伝承が似通っている、ということについて、偶然で片づけることができない理由が
あります。それは水沢がミサワと読むことができるからです。それに、水沢町は三重村の比定地でも
あるのです。
 三重村というのは『古事記』に登場する地名で、大和に帰るヤマトタケルが伊勢国三重村まで
来た時に、
 「わが足は三重の勾(みえのまがり=三重に曲げた形をした餅)のようになってしまい、大変
疲れた」
と、言ったので、この村は三重村と名付けられた、という話が記されています。

 この説話は三重村の地名の由来を語るものでもあるのですが、まったく同じと言っていいほどに
似通った話が『播磨国風土記』に登場するのです。

 「三重の里。昔、ひとりの女がいた。たけのこを抜き、布に包んで持って帰って食したところ、
足が三重に曲がり起き上がることもかなわず。それが三重の名の由来である」

 どちらも足が三重に曲がってしまったためにそれが地名となった、という内容です。
 これも水銀中毒による歩行困難である、と前出の谷川健一は考察しています。

 さらに注目すべきは三重の里が播磨国賀毛郡(かも郡)に属するということです。
 と、言うのも、三沢郷の伝承に登場するアジスキタカヒコは、葛城は鴨の高鴨神社の祭神であり、
『古事記』の中ででも迦毛大神(かも大神)と記されているからです。
 もっとも、『播磨国風土記』には、賀毛郡の地名の由来について、応神天皇の時代、鴨村に
つがいの鴨が巣を作って卵を生んだことから、と書かれています。葛城の鴨とは何の関係もない、
ということになります。
 しかしながら、『播磨国風土記』は鴨村の地名の由来について、応神天皇がこの地を訪れた時に、
従者であった当麻の品遅部君前玉(ほむちべのきみさきたま)に2羽の鴨を射させたことから来て
いる、と記しているのです。さらには前玉が賀毛郡に土地を賜り、それが品遅部村である、と記して
います。
 なお、鴨村は『播磨国風土記』が編纂された時代には上鴨の里と下鴨の里のふたつにわかれて
いるのですが、下鴨の里には大汝命(オオナムチノミコト)が臼を作って米をついたとする伝承が
記されているのです。

 ここで、これまでのことを少し整理しますと、ミサワ(出雲の三沢と伊勢の水沢)には水銀中毒
による言語障害と思われる伝承があり、伊勢の三重村(水沢に比定)と播磨の三重里には水銀中毒
による歩行障害と思われる伝承がある、そしてそこには大国主と鴨のアジスキタカヒコ父子が関係
している、ということです。

 しかし問題はそれだけに留まりません。
 次に注目したいのは『播磨国風土記』の賀毛郡の地名の由来に登場する品遅部君前玉です。
 品遅部(ほむちべ)というのは、垂仁天皇の皇子ホムチワケノミコトから来ている、と伝えられ
ています。ホムチワケもアジスキタカヒコと同じく成人しても言葉を発しないもの言わぬ御子だった
のです。ですが、父の垂仁天皇が夢の中でお告げを受け、出雲大神の宮を訪問することで言葉が
話せるようになったのです。
 この出雲大神が大国主のことである、とは『古事記』には明確に記されていないのですが、
おそらく出雲大神は大国主、出雲大神の宮は出雲大社でよいと思われます。
 つまり、ここでも大国主がもの言わぬ御子が言葉を発せられるようになる存在として登場するの
です。

 それから、ホムチワケが出雲大神の宮を訪ねた時に、曙立王(アケタツ王)と菟上王(ウナカミ王)の
兄弟が付き従いますが、菟上王を祭神とする菟上耳利神社が水沢町と同じ四日市市に鎮座します。
また、曙立王を祭神とする佐那神社が三重県多気郡多気町仁田に鎮座します。
 注目すべきは仁田(にた)という地名です。『出雲国風土記』が伝えるアジスキタカヒコの伝承は、
出雲国仁多郡(にた郡)のものだからです。少なくとも多気町の仁田は「丹田」からきたものでは
ないか、と言われています。と、言うのも、三重県多気郡多気町には丹生という地名が存在し、
ここには丹生鉱山があって、1973年(昭和48年)まで採掘がおこなわれていたからです。

 さらにはもうひとつ、品遅部君前玉に関して、共通するふたつのことがあるのです。
 『播磨国風土記』は、この人物を「当麻の品遅部君前玉」と記します。倭直の祖、市磯長尾市に
よってよって大和に呼ばれた野見宿禰が当麻に所領を賜ったのが垂仁天皇の時代のできごと、ホムチ
ワケも垂仁天皇の御子。

 そういったところで話をまとめますと、大国主には水銀中毒を治す神として信仰されていた時期が
あったのではないか、それこそが吉野郡において大名持神社が最高位を授かっていた理由なのでは
ないか、ということになるのではないでしょうか。


 瀬戸内の海上ルートは単に海運や移動手段としてのみ存在していたのではなく、水銀をはじめ製鉄の
ネットワークも兼ねていたと考えられるのです。
 葛城氏の凋落後、物部氏は渡来系氏族の掌握とともにこの製鉄のネットワークも管理下におこうと
したと想像できます。
 が、しかし、歴史は物部氏の望むようには進まなかったのです。

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1 コメント

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Unknown (haru)
2022-09-10 18:00:19
こんにちは。
蘇我氏に興味があって、楽しく拝読しました。
こちらのブログの続きを読みたいのですが、他のブログなどでUPされていますか?

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