小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

お姫さまのことです

2014年10月29日 01時29分11秒 | 日記
2011年12月25日(日)(3歳8か月)


 春奈のクリスマスプレゼントは、去年と一緒でおかしの
靴だ。

 今年はおまけで、おもちゃのティアラが付いていた。

 春奈が僕にそれを見せて言った。

 「オシセサマの付いてた」

 お姫様が付けてるヤツってか?お伊勢様みたいに言うなよ。

 「お姫様か?」

と、訊くと、春奈自身もうまく言えていないことに気づいて
いたみたいで、

 「そう、おひげさま」

と、言い直した。

 いや、まだ言えてない。

 それで、みんたが、

 「おひげさま?」

と、笑うと、春奈が一言、

 「うるさい!」

と、言い放った。

 久々に聞いたな、春奈の「うるさい!」を。

 前はよく、ゆうきとりえに、「うるたい!」と、えらそうに
言っていたっけなあ。

 それは、かまわれることに対して、「うっとうしい!」という
意味の「うるさい」だったけど、今のはどうなんだろう?

 「会話にチャチャ入れるな」って意味にも取れるし、「バカに
するな」って意味にも取れるし。

 ただ、何にせよ、えらそうなことには違いないけど。

269 伊勢との関係

2014年10月29日 01時26分11秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生269 ―伊勢との関係―


 アヂスキタカヒコネは葛城の高鴨神社の祭神ですが、大国主の御子神とされ、『出雲国
風土記』にも登場します。
 しかも、ここに登場する三澤の水で、出雲国造は神賀詞奏上のために大和の朝廷に赴く
時に沐浴を行っていたのです。
 そして、三澤には屯倉が置かれていました。大和政権の影響下にあったのです。

 しかし、アヂスキタカヒコネやホムチワケの伝承に関わる地名や人物を祭祀する神社が
伊勢国に存在するのはどうしてなのでしょうか。

 実は、ここに、オケノミコとヲケノミコの二皇子が身を隠した丹後や丹波、播磨が関係
してくるのです。
 それは、これまでに見てきたとおりなのですが、あらためてあげてみると・・・
 まず、丹波の道主王をはじめとする日子坐王の一族です。
 伊勢国で祀られている曙立王と莵上王も日子坐王の一族なのです。

 次に、道主日女命。
 『先代旧辞本紀』や、丹後の籠神社の社家である海部氏に伝わる『海部氏勘注系図』では、
道主日女は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタ
マニギハヤヒノミコト=アメノホアカリとニギハヤヒが合体した神名)の妻としています。
 一方、「播磨国風土記』は道主日女を天目一箇神の妻とします。
伊勢国の多度大社では、本宮の多度神社が天津彦根命を、別宮の一目連神社が天目一箇神を
祭神としており、近江国の御上神社の祭神、天之御影命も天目一箇神と同神とします。
 そして、丹波道主王は、日子坐王と天之御影神の娘との間に生まれているのです。
 さらに言えば、天目一箇神は製鉄の神とされています。前回にお話ししましたように、
ホムチワケやアヂスキタカヒコネの伝承、それにヤマトタケルや『播磨国風土記』の三重村
の伝承は良質の鉄が採取できる土地に関係しているようなのです。

 次に伊勢津彦命が挙げられます。
 伊勢津彦は「伊勢国風土記逸文」によれば伊勢に坐した神なのですが、『播磨国風土記』
にも登場し、こちらでは、揖保郡伊勢野の山の峯に坐す神となっています。

 最後に日置氏を挙げておきたいと思います。

大和の日置氏の本拠は葛城の朝妻(現在の御所市朝妻)ですが、日置氏は丹波(多紀郡が本拠
だったと思われます)にもいましたし、丹後の与謝郡にも日置の里という地名が見られます。
それと、伊勢の日置氏の本拠は伊勢国多気郡と壱志郡だとされています。

 日置氏で注目しなければいけないのは、この氏族が三輪山の祭祀にも何らかの関わりを持っ
ていた、と見られることです。

 大和の日置氏の本拠である葛城の朝妻と堺市の日置里と三輪山を線で結べば、40°×40°×
100°の二等辺三角形が出来上がるのです。

伊勢国多気郡の日置氏の本拠は、多気町にあったとされます。ここには、四疋田、三疋田など
の地名が存在し、疋田(ひきた)は日置田に通じるからです。
 この地は櫛田川の中流域に属しますが、そこからやや下流のところで祓川(はらい川)に
分流し、その祓川の下流にあるのが、斎宮跡です。
 どうやら日置氏にとっても斎宮跡は重要な地であったようで、斎宮跡と、斎宮跡の真北にある
伊勢国奄芸郡の久留真神社と、斎宮跡の真西にある伊勢久留麻神社を線で結ぶと直角三角形が
出来上がることになるのです。

 そして、この伊勢の斎宮跡から淡路の伊勢久留麻神社を結ぶライン上に、三輪山が位置し、
ヒモモソヒメの墓と伝えられる箸墓古墳もほぼこの延長上にあるのです。
 それから、伊勢国壱志郡には日置郷がありました。
 これは、現在の三重県久居市の戸木(へき)のこととされ、戸木(へき)は日置(ひき)の
ことである、といいます。
 今度はこの久居市と斎宮跡と久留真神社を線で結べば、35°×35°×110°の二等辺
三角形が出来上がるのです。

 葛城の日置氏が三輪山祭祀に関係していたらしいことについて、もう少し見てみる必要が
あります。




サンタさんへのリクエスト

2014年10月27日 01時01分29秒 | 日記
(12月24日のつづき)


 子供たちが寝る時分になって、りえが慌てだした。

 「サンタさんにプレゼントのリクエスト出すの忘れ
てた!今から書いても間に合うかな!?」

 「リクエストなら書いてたやん」

と、僕が言うと、

 「あれは、お父さんとお母さんに。サンタさんから
の分は書くの忘れてた」

  両方からもらうつもりやったんかいっ!

 「もうムリやで。サンタさん出発してんで」

 そう僕が答えると、

 「サンタさん、何に乗って来るん?ソリ?」

と、訊いてきたので、

 「車とちゃうか?」

と、答えておいた。

 たぶん今どきのサンタは車で移動していると思う。

 僕は、ゆうきとりえが小学校に上がった時分から、
サンタクロースは本当にいる、と教えている。

 ソリに乗ってやってくる白い髭のサンタはイメージで、
本当は世界中にたくさんのサンタがいる。

 普段はそれぞれ仕事を持っているけど、イブの夜だけ
サンタになって世界中の子供たちにプレゼントを届けて
いるんだ、と教えてきたから、りえは今でもサンタを
信じている。

 言い続けることは大切やし。

268 三重村の伝承が語るもの

2014年10月27日 00時53分44秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生268 ―三重村の伝承が伝えるもの―


 さて、話を当麻品遅部君前玉が賜ったという品遅部村に話を戻したいと思います。
 品遅部が、11代垂仁天皇の時代に、口のきけない王子ホムチワケが出雲大神の宮を
訪れたことで口がきけるようになったことにより設置された部民のことだと前回にお話し
しましたが、『播磨国風土記』は、遅部村の条に続いて三重村の記事を載せいているの
です。
 実は、このことは以前にもお話ししたことがあるのです。
 その時は2回にわたって採り上げたのですが、重要なことなので、それでも2度目
だから少し簡潔にお話しさせていただきます。

 そもそも、この三重村の伝承とは、

 「昔、ひとりの女がいた。たけのこを抜き、布に包んで持って帰って食したところ、
足が三重に曲がり起き上がることもかなわず。それが三重の名の由来である」

 と、いうものですが、『古事記』には三重県の三重村が登場します。
 伊吹山で神との戦いに敗れたヤマトタケルは大和への帰路に着きますが、途中、三重村
にたどり着いた時には、ヤマトタケルの足は三重に折れ曲がってしまっていて、それが
三重村の名前の由来、と『古事記』にはあります。
 どちらも、「三重に折れ曲がったため」という理由で三重村の名がきた、というのです。
 三重村が現在のどこに当たるのかについては諸説ありますが、その比定地のひとつに
三重県四日市市水沢町があります。

 この水沢(すいさわ)という地名が問題なのです。
 水沢は「みさわ」とも読めますが、『出雲国風土記』には仁多郡三澤(みさわ)の伝承が
載せられています。

 大神オオナモチノミコト(大穴持命)の御子アジスキタカヒコが大人になっても夜昼泣いて
ばかりで言葉を話すことはなかったのでオオナモチが、夢占いでその原因をさぐったところ、
翌朝、アジスキタカヒコが、
 「御津(みつ)」
と、言ったのでこの地を御津という、そして今は三澤という、という内容です。

 それで、どうして三重村やミサワが播磨の他にそれぞれ三重県や出雲に同じ地名があると
いうことが重要なのか、と言うと、これらがホムチワケ伝承に関わるからです。
 大人になっても言葉を発することがなかった、というのはホムチワケとアヂスキタカヒコネに
共通した伝承ですし、そのホムチワケは出雲大神の宮を訪問することで口がきけるようになり
ますが、その時のお供をした 曙立王と菟上王を祀る神社が、三重県多気郡多気町の佐那神社、
三重県いなべ市の莵上神社、三重県四日市市の菟上神社(現在は、耳利神社が合祀されて莵上
耳利神社)と、三重県にあるからです。

 この共通性ですが、これについて、「水銀中毒」とする説があるのです。
 播磨の三重村の女とヤマトタケルの足が三重に折れ曲がった、というのは水銀中毒による歩行
困難であり、アヂスキタカヒコネやホムチワケが言葉を発しなかった、というのも水銀中毒による
言語障害だったというのです。

 一口に水銀中毒と言っても、その症状は軽度と重度によって異なりますし、無機水銀とメチル
水銀(有機水銀)の違いによっても症状が異なります。
メチル水銀の場合では中枢神経系に影響を与えます。
中毒の初期症状は、四肢末端や口唇周辺のしびれ感で始まり、進行すると手指のふるえ、歩行障害、
求心性視野狭窄などが現れます。
 水俣病もその原因はメチル水銀によるものですが、その症状のひとつとして言語障害が挙げられる
といいます。

三重県三重郡の鎌ヶ岳には良質の水銀が採れるところがあるといい、事実、昔は採掘場があった
そうです。

 水銀のことを古くは「丹(に)」と言い、水銀の採れるところを丹生と呼びますが、曙立王を
祀る佐那神社の鎮座する三重県多気郡多気町には丹生という地名が存在し、ここには丹生鉱山が
あって、1973年(昭和48年)まで採掘がおこなわれていました。
 佐那神社の鎮座するのは多気町仁田ですが、『出雲国風土記』がアジスキタカヒコの神話を
伝えるのも仁多郡です。
仁田も仁多も、「丹田」のことなのかもしれません。

それから、佐那神社が鎮座する多気町仁田のあたりにはJR佐奈駅や佐奈小学校など佐奈の名が
残されていますが、この佐奈は、「鐸(さなき)」から来ているものと考えられます。と、言う
のも、古代の製鉄などに関わっている地には「さなき」につながる地名が残されていることが
少なくないからです。
水銀の採掘される地では鉄などの鉱物も採取されるのです。

『出雲国風土記』の仁多郡の条には、

 「以上の諸郷より出る鉄は堅くして、もっとも雑具(くさぐさのもの)を造るに堪ふ」

と、あり、この地から良質の鉄が採れたことを伝えています。

 さて、品遅部村や三重村の伝承を載せる『播磨国風土記』の賀毛郡の条には、雲潤の里(うる
みの里)の伝承も載せています。
 この雲潤の里の丹津日子神(ニツヒコの神)いう神が登場しますが、「津(つ)」は「~の」
という上代の言葉だと解釈すれば、この神の名は「丹の神」という意味になるのです。

クリスマスプレゼント

2014年10月25日 01時36分32秒 | 日記
2011年12月24日(土)(3歳8か月)


 クリスマス・イブである。

 年末は忙しいから今日は仕事に出た。

 帰りに、みんたに何をクリスマスプレゼントを贈ろう
かと考えて、でも思いつかないからフラワー・ショップ
でバラを買って帰った。

 何かで聞いたけど、奥さんに贈るプレゼントのNG
ベスト3(ワースト3か)の1つに花が入っていた。

 理由は水を注したりと手間が面倒だからだそうだ。

 でも、みんたはよく花を買ってきて挿しているし、他に
思いつかないのでバラを買った。

 家に帰ってみんたに渡すと、りえがわざとらしく、

 「ヒューヒュー」

と、言いながら、

 「ねえねえ、なんでお父さんバラを選んだん?お母さん
にはバラって思ったん?」

と、訊いてくるので、

 「え?いや。花はどんなんがいいのか全然わからんから、
とりあえずバラにしとこうかと思っただけやけど?」

と、答えると、りえは軽くため息をつき、

 「男の人ってみんなそんなもんやんね」

と、言った。

 え?何?その冷めた感想。

 って言うか、何でため息つかれなアカンの?