小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

497 難波王自害の背景⑧

2016年04月30日 01時53分30秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生497 ―難波王自害の背景⑧―
 
 
 それは、備前国赤坂郡(現在の岡山県赤磐市)に鎮座する備前国一宮の石上布都魂神社
(いそのかみふつみたま神社)です。
 祭神はスサノオですが、本来の祭神はスサノオがヤマタノオロチを斬った剣であり、その剣の
名が布都御魂だと伝えられています。
 
 大和の石上神宮も布都御魂を祭神としますが、こちらの布都御魂はタケミカヅチの分身とも
言える剣のことです。
 しかし、伝承では吉備の石上布都魂神社の布都御魂は大和の石上神宮に遷されたとあり
ますし、『日本書紀』の一書には、
 
 「オロチを斬った剣は、名付けて蛇の麁正(オロチノアラマサ)という。今は石上にある」
 
と、記し、別の一書では、
 
 「オロチを斬った剣は、今は吉備の神部の許にあり」
 
と、記されており、スサノオがヤマタノオロチを斬った剣が、石上神社にあるという伝承と吉備に
あるという、それぞれの伝承を載せているのです。
 言うまでもないことですが、『日本書紀』の一書にある吉備の神部は、旧赤坂郡の石上布都魂
神社(いそのかみふつみたま神社)に比定されています。
 
 それで、ここに和邇氏が関係するというのは、赤坂の地名が和爾坐赤坂比古神社の赤坂比古
命に通じるからです。しかも、石上神宮の祭祀族である物部首が春日氏の一族で、和邇氏と
春日氏の結びつきを考えた時に赤坂の一致は偶然で片づけるわけにはいかなくなるわけです。
 
 ともかく、スサノオがヤマタノオロチを斬った剣が吉備の石上布都魂神社に納められ、そして、
スサノオがヤマタノオロチの尾から取り出した草薙剣は尾張氏が祭祀する熱田神宮の御神体と
なります。
 大和の石上神宮の布都御魂は前述のようにタケミカヅチの分身とも言える剣ですが、これは
タケミカヅチが自分の代わりとして布都御魂の剣を高倉下(タカクラジ)に降下し、タカクラジから
神武天皇に献上されたものです。
 『先代旧辞本紀』は高倉下を尾張氏の祖天香語山命のこととしているから、布都御魂は尾張
とも関わりを持つことになります。
 
 そして、春日氏や小野氏、柿本氏、市井氏らもまた尾張と関係を有します。
 それと言うのも、これらの氏族の始祖である天押帯日子命は、孝昭天皇の御子と『古事記』は
伝えますが、天押帯日子命の生母について『古事記』は、尾張連の始祖奥津余曽(オキツヨソ)の
妹、余曽多本毘売(ヨソタホビメ)と記すのです。
 一方、『日本書紀』では世襲足媛(ヨソタラシヒメ)となっており、「尾張連の遠祖瀛津世襲(オキ
ツヨソ)の妹なり」と記します。
 『先代旧辞本紀』も、瀛津世襲命の妹世襲足姫命、またの名を日置日女命と記しています。
 
 尾張氏が、スサノオがヤマタノオロチの尾から取り出した草薙剣を熱田神宮に納めるのは、この
剣がスサノオから天照大御神に献上された後、斎宮のヤマトヒメからヤマトタケルに授けられ、
それをヤマトタケルが尾張氏のミヤズヒメに預けたからなのですが、ヤマトタケルの系譜を見ると、
奇しくもここに登場する氏族たちが絡んでいるのです。

病院ですとも

2016年04月29日 02時10分29秒 | 日記
2013年2月24日(4歳10か月)
 
 
 春奈を風呂に入れてやる時に、春奈が膝小僧をすりむいて
いることに気づいた。
 
 「またケガしたんか」
 
と、僕が言うと、今日の昼間に友達たちと公園で遊んでいる時に
遊具にぶつけたらしい。
 
 「はるなが『イタイイタイ』って言うてたら、お友達のお兄ちゃんが、
『すぐ前に病院あるで』で言うからな、『ウソ言わんといて』って言う
てん」
 
 ん?
 
 「それって、〇〇公園か?」
 
 僕が訊くと、春奈が頷いて、
 
 「マンションを病院って言うねん」
 
 道路を挟んで向かいにある建物のことな?
 
 「うん、あれ、病院やで」
 
 たしかにそれは病院である。
 
 どうやら春奈はそれをマンションだと思い込んでいたらしい。
 
 何しろ公園からは病院の裏側になるからマンションだと間違えても
仕方ないのかもしれないけど。
 
 ただ、この春奈の勘違いは、病院やマンションがどのような建物
なのかをイメージできているからこそのものだ。
 
 人間は目で見たものを名前で区別する。
 
 たとえば誰しもが犬を見れば「犬」と認識し、ネコを見れば「ネコ」と
認識する。
 
 当然のことだ。
 
 ところが、言葉を口にし始めた幼児は四足の動物は犬であれネコ
であれ牛や馬さえもすべて「わんわん」と言う傾向にあるのだ。
 
 同じく建物はすべて「おうち」になる。
 
 春奈が病院ではなくマンションだと間違えたのも、春奈が建物の種類
と名称を区別できるようになってきた証拠、つまりは言葉が育っている
ということだ。
 
 ちなみに春奈、僕が病院だと言ったことを受けて、
 
 「(友達のお兄ちゃんに)ウソちゃうかったって言わなあかんな」
 
と、言っていた。

496 難波王自害の背景⑦

2016年04月28日 01時47分12秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生496 ―難波王自害の背景⑦―
 
 
 難波王が自害した理由は、顕宗天皇の皇后であった難波王が天皇の兄のオケ王に対して
不遜な態度を取ったことから、それを罪に問われることを恐れたため、と『日本書紀』は記します。
 顕宗天皇崩御の後、オケ王が仁賢天皇として即位しますがそれにともない后が皇后の位に
就きます。
 仁賢天皇の皇后は、『古事記』、『日本書紀』がともに春日大郎女(かすがのおおいらつめ)
とし、ともに雄略天皇の皇女とします。
 難波王の父のイワキ王は雄略天皇の御子の磐城皇子だと考えられているので、難波王は
雄略天皇の孫ということになります。
 春日大郎女は、『古事記』は雄略天皇の皇女としながらも、「雄略記」の后妃と御子を記す
箇所にはその生母とともにその名が見えません。
 これに対して『日本書紀』の方は、「雄略紀」に、
 
 「春日和珥臣深目が娘有り。童女君と曰う。春日大郎女皇女、またの名は高橋皇女を生めり」
 
とあります。
 
 春日大郎女の母童女君(おぎなのきみ)の父を、春日和珥臣深目(かすがのわにのおみふかめ)
と記すことから、春日氏が和邇氏から分かれた氏族とする説があり、かつては広く支持された
こともありました。
 もっとも、『古事記』の「孝昭記」には、小野臣、柿本臣、壱比韋臣(市井臣)とともに、春日臣も
天押帯日子命の系譜に記されていることなどもあり、現在は和邇氏と春日氏は別の氏族とする
説の方が有力です。
 
 ところで、童女君と春日大郎女の母娘についてのエピソードが『日本書紀』に載せられています。
それは次のようなものです。
 
 雄略元年三月 童女君という元采女が天皇と一夜をともにしただけで懐妊して女の子を生んだ
が、天皇はこれを疑って養おうとしなかった。
 その後のこと、宮中を歩く幼いその女の子を不思議に思って顔をのぞいた物部目大連が、その
容姿が天皇に似ていることに気付き、事情を知ると、天皇に、
 「その夜何度お招きになられたのですか?」
と、訊くと、
 「7回いたした」
 そこで物部目大連(もののべのめのおむらじ)が、
 「私が聞いたことのあるかぎりでは、妊娠しやすい体質の女性もいるそうです。一夜のこととは
言え7回もされたなら子もできましょう」
と、意見したので天皇は女の子を認知した。
 
 この説話では、春日大郎女を身籠った上で童女君が入内したと思い込んでいた雄略天皇を物部
目大連がこれを認知させたという、物部氏が関係するものになっていますが、実際に物部氏と
春日氏が結びついたのが石上神宮です。
 
 石上神宮は、諸氏族に献上させた神宝などを管理する場所でもありましたが、その倉を管理して
いたのが物部連(むらじ)、石上神宮の祭祀を担当していたのが物部首(おびと)でした。
 物部連がニギハヤヒを祖にするのに対し、物部首は春日臣の出身だったのです。
 このことは『日本書紀』の「垂仁紀」に次のように記されています。
 
 「垂仁天皇三十九年に五十瓊敷命が剣一千口を石上神宮に納めたところ、神が『春日臣の族
市河に治めさせよ』と託宣があり、この春日臣市河が物部首の始祖である」
 
 物部首は後の布留宿禰(ふるのすくね)に名を変えますが、そもそも最初に春日臣から分かれた
者たちが物部の名を称したことについては、松前健(『大和国家と神話伝承』)が、物部連の統属下に
置かれるようになり、そのために物部を名乗るようになったのではないか、と考察しています。
 
 そして、これも春日氏と和邇氏が同族ではないかとする説の拠り所のひとつでもあるのですが、
この石上神宮と和邇氏の関連を考えさせられる神社が吉備に存在するのです。

言い直したいのだ

2016年04月26日 01時20分49秒 | 日記
2013年2月20日(水)(4歳10か月)
 
 
 風呂に入った時、春奈が 湯船のふちに膝小僧を
ぶつけて、
 
 「いたっ!」
 
と、叫んだ後、
 
 「オーマイガッツ!」
 
と、叫び直した。
 
 いや、何で英語で叫び直すねん?その必要ある
のか?
 
 とにかく、なんでも誰かが使った言葉はマネして
使いたいようだ。
 
 今のだってお姉ちゃんが使っていた言葉だ。
 
 幼児の言葉が育っていく過程って、まずマネっこ
して自分も言ってみることともうひとつ、「これは覚え
る必要のある言葉なのか?」などとは考えない、と
いうことだ。
 
 それがどんな意味の言葉であれ、とにかく取り込ん
でしまうのである。

495 難波王自害の背景⑥

2016年04月25日 00時37分52秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生495 ―難波王自害の背景⑥-
 
 
 この小野氏と同じく、孝昭天皇の子、天押帯日子命を祖とする同族に柿本氏と市井氏がいます。
そして、柿本氏、市井氏と関係する氏族が丸邇氏(わに氏)です。丸邇という表記は『古事記』の
もので、一般には和邇もしくは和珥と表記されることが多いので、ここでは和邇氏の表記ですすめて
いきたいと思います。
 和邇氏は古代の大和政権を代表する氏族ではありますが不明な点が多く、その本拠についても、
現在の奈良市北部とする説と、奈良市北部から天理市周辺にかけてとする説などがあるなど諸説
あります。ただ、いずれにせよ大和に拠点を置く氏族であったとする点では一致します。
 ただ、和邇氏に日子国夫玖命や難波根子建振熊命など「命(みこと)」の名を持つ人物が存在する
ことから、和邇氏が大和土着の氏族でかつ特別な氏族であったのかもしれません。
 
 上記のふたりについては、まず日子国夫玖命(ヒコクニブクノミコト)は、10代崇神天皇の時にタケハ
ニヤスヒコ王の謀反が起こり、これを鎮圧する活躍を見せ、難波根子建振熊命(ナニワネコタケフルク
マノミコト)は香坂王と忍熊王の謀反に際して神功皇后側の将軍としてこれを鎮圧しています。
 難波王の名の由来も、もしかすると難波吉士ではなく難波根子建振熊命に関係している可能性も考え
る必要があるのかもしれません。
 
 それで、和邇氏の本拠が奈良市北部とする説の根拠は、上記のタケハニヤスヒコ王の謀反で、日子
国夫玖命が奈良市北部から京都府南部を戦場にして戦ったことや、その際に大和国と山城国の境界
辺りの地名に丸邇坂(わに坂)が登場することなどからなどで、天理市周辺とする説は天理市に和爾町
という地名があるからです。
 
 その天理市和爾町には和邇坐赤坂比古神社が鎮座します。この神社は『延喜式』神名帳にも記され
ており、いわゆる式内社なのですが、『延喜式』には同時に和爾下神社の名も見ることができます。
 現在、和爾下神社の名を持つ神社が天理市櫟本町と大和郡山市横田町に存在します。式内社に
比定される神社が複数存在することは珍しくはないことなのですが、この二つの和爾下神社については
どちらも「式内社和爾下神社」に認定されています。
 ともに治道(はる道)沿いに鎮座することから、天理市櫟本町の和爾下神社は上治道宮、大和郡山市
横田町の和爾下神社は下治道宮と呼ばれています。ちなみに治道とは竜田道のことです。
 
 大和郡山市の下治道宮の祭祀は幕末まで市井氏でした。
 上記のように市井氏は小野氏と同じく天押帯日子命を始祖としており、このことは『古事記』にも、
 
 天押帯日子命は、春日臣、大宅臣、栗田臣、小野臣、柿本臣、壱比韋臣、大坂臣、阿部臣、多紀臣、
羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢の飯高臣、壱師君、近淡海国造の始祖。
 
と、あります。この壱比韋臣とあるのが市井氏のことで、他にも櫟井氏などと表記されます。
 上記の、『古事記』の一文には、壱比韋臣(市井氏)のひとつ前に柿本臣が記されていますが、天理市
櫟本町の上治道宮の境内には柿本寺跡があり、このことから上治道宮の祭祀を司ったのは柿本氏
だったと言われます。
 
 ちなみに『延喜式』には、和爾下神社は「二座」とあります。つまり二柱の神が祀られていたことになり
ますが、大和岩雄(『神社と古代王権祭祀』)は、和爾坐赤坂比古神社の祭神を赤坂比古神、和爾下
神社の祭神を赤坂比売とその御子神と推測しています。
 そうすると、大神神社が太陽神を祀り、多神社でその妻神と御子神を祀るという構図と同じ形になります。
 なお、現在の和爾坐赤坂比古神社の祭神は阿田賀田須命(アダカタスノミコト)と市杵島比売命で、この
阿田賀田須命が赤坂比古であるといわれています。
 
 それで、阿太賀田須命、または吾田片隅命ともいいますが、これは大国主6世の孫と伝えられており、
和邇氏の祖であるといいます。
 すると、天押帯日子命を和邇臣の祖とする『古事記』の記述と不一致が生じるわけですが、『新撰姓
氏録』では、阿太賀田須命を祖とするのは大和国の和仁古となっており、一方、天押帯日子命とする
のは和邇部となっています。そして、和邇部は、左京別、右京別、山城国、摂津国に分布しているのです。
 
 では、大和の和邇氏(和仁古)と和邇部は別の系統の氏族なのかというと、そうとも言い切れないのです。
 おそらく、大和の天理市和爾町にいた和邇氏が本流で、それから分派していったのが和邇部であろう
と考えられています。