小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

佐野町 おまけ グレンダイザー神社

2018年02月13日 00時26分21秒 | パワースポット
 3回にわたってアップいたしました大阪府泉佐野市の佐野町。いちおう前回で完結した次第ですが、今回おまけをご紹介
したいと思います。一応、パワースポットとして・・・。

 泉佐野と言えば日本の西の玄関口、関西国際空港、通称関空がある町、というイメージがある。そう、イメージ。
 関空は泉佐野市の海上にある、と思われがちだけども実際には泉佐野市、泉南市、田尻町の二市一町にまたがっております。

 関空の開港は1994年。なんか知らんうちに四半世紀経っていたんですね。

 それでお迎えのために僕自身も関空には久しぶりに来たのですが、変わってましたね。

 もちろん、開港以来いろいろと変化もありましたし、海外の人たちからの評価もそれなりに受けておりました。
 たとえば、世界中の空港の中でトイレの綺麗さナンバー1の称号をもらったり、イスラム教徒の人たちのための礼拝室が設置
されてそれを評価してもらったり、などなど。

 しかし、久しぶりに来て何が変わったかと言うと、やっぱりオタク化が進んでいたことですね。

 日本といえば、リオデジャネイロ・オリンピックの閉会式でやった東京オリンピックのインフォメーション、これに対する
海外の人たちの評価がやっぱりオタクということでした。アニメキャラやゲームキャラ、そしてハロ・キティ。これらのキャラ
クターたちは海外に発信する日本のコンテンツなわけなんですね。

 そういったわけで関空の中に作られたグレンダーザー神社。







 ただし、これは2017年11月の間の期間限定のものですけども。
 『UFOロボグレンダイザー』(1975年10月5日から1977年2月27日まで放送)はヨーロッパでも放送されて
人気のアニメなのだそうです。
 ちょうど2018年はグレンダイザーの生みの親である永井豪の『デビルマン』と『マジンガーZ』の新作アニメが登場される
こともあってそれも展示されていました。





 その隣にはガンダムシリーズのフィギアコーナー。ガンダムも世界的に有名ですからね。


 

 エレベーターにはマリオからのキャラ。





 で、やっぱりニッポンのコンテンツとしては外せないってところなんでしょうか。ポケモンです。ピカチュウです。



 たしかに、わが家でホームステイを受け入れた海外のゲストには日本のアニメやマンガのファンも多くいたけど・・・。

 日本を訪問する海外の人みんながみんなこれらが好きなわけじゃないとおものだけど・・・。そういう人たちの目には日本が
どんな風に映ってるんでしょうかね。

佐野町 その3

2018年01月29日 01時01分31秒 | パワースポット
 近頃は週1回の更新で失礼いたしております。
 佐野町編、第3回目です。そしてこれが佐野町編最終回となります。
 それでは始めます。

 明厳寺のお向かいには古い家屋があります。



 実はこれ御旅所なのです。
 御旅所(おたびしょ)と聞いても知らない人も多いかと思います。御旅所とは、神さまの行幸の際に泊まられる
所です。具体的に言えば神社の祭礼の時に、お神輿を安置しておく所なのです。祭礼のお神輿は神さまを乗せて
いるのですから、お神輿を鎮座するというのは神さまが鎮座する所であるということなのです。

 そして、御旅所の向こう側には西法寺があります。
 でもって、この西法寺、門が2か所あるんですが、まず南に面した門。南面しているのは孝子越街道に面して
いる、ということでもあります。



 ↓ 南面の門から孝子越街道を臨む。突き当りの道が孝子越街道。



 だから、こちらの門が「正門」ということになります。門の前には「おかごよせあと」の石碑が。
 おかごよせ、とは、門跡の乗る駕籠を停めるところのことです。




 もうひとつの門は西に面しています。

 その理由はというと、西法寺は佐野町の豪商食野(めしの)家と関係が深く、そしてその食野家の屋敷が西法寺の
西にあったので(現在の私立第一小学校が食野家住宅の跡地)、食野家のために西側にも門を設けたのだとか。



 食野家はいろは廻船業の他に大名貸などを営み、大阪府下でも有数の豪商だったようです。
 大名貸とは、江戸時代、各藩は慢性的な財政難に苦しんでいたので、そんな藩に金を貸し付けるという、現在で
言えば金融業です。食野家は岸和田藩や紀州藩などに金を貸していたそうです。
 それにしても、個人のためにわざわざ門を造るとか。

 西方寺に沿って歩いていると何やら町工場らしきものが。





 後で知ったのですが、ここは大将軍湯という銭湯だったそうです。たしかにgooglemapを見るとその場所に
大将軍湯と書かれてあります。

 表側に廻ると、唐破風の立派な造りの玄関が。



 少し調べて見ると、銭湯ファンの間では割に有名なお風呂屋さんだったみたいですね。
 
 

 少し歩くと、木の看板を掲げているお宅を発見。
 マルキン醤油とヒガシマル醤油の社紋が。





 マルキン醤油のところにある「高等醤油」というのはもしかして「濃口醤油」のこと???
 だって隣のヒガシマルの方には「淡口醤油」とあるもんな。
 ただ、ヒガシマルのマークの下には浅井醤油合名会社と書いてある。
 この会社はヒガシマルの前身のひとつです。
 ひとつ、というのは、ヒガシマルとはこの浅井醤油合名会社と菊一醤油造合資会社と合併してできた龍野醤油株式会社
だからです。その後、社紋が丸に東だったために社名を龍野醤油からヒガシマルに変更したのです。
 しかし、浅井醤油の時代からこの社紋を使用していたのでしょうか?その辺りはちょっとわからないです。

 ちなみに泉佐野ふるさと町屋館(旧新川家住宅)のかつての所有者だった新川家も江戸時代には醤油の製造業を営んで
いたそうです。

 さて、今回の佐野町。長者の町として紹介させていただきましたが、それも今は昔のこととなってしまいました。
 食野家も、本業にしていた廻船業が幕末には業界全体が衰退し、おまけに大名貸の方も明治の廃藩置県によって藩が廃止
されたために貸した金が回収できず没落してしまいました。

 それでも、佐野町、独特の風情を有する、なかなかに魅力的な町だと思うのですが、いかがだったでしょうか?

佐野町 その2

2018年01月13日 23時56分02秒 | パワースポット
 いろは蔵の並ぶ通りを「いろは蔵通り」といいますが、実際には点在する、といった方が正しい気もしない
ではないです。
 で、いろは蔵とはそもそも何か?
 廻船業者として名をはせた食野家をはじめとする江戸時代の豪商や地主たちの所有する蔵が海岸一帯に建ち
並んでいて、その数が48だったことから「いろは蔵」と呼ばれているそうです。
 「いろは」は四十七文字なのですが、末尾に「京」もしくは「ん」を加えて四十八文字にすることがあるから
です。歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』は吉良邸に討ち入りした赤穂浪士の人数が47人だったことからきていますが、
こちらは、いろは四十七文字派ですね。
 もっとも現在では海岸線も西に移り、蔵も10ほどしか残っていないとか。
 現存する蔵も今は住宅として使用されているようです。












 そういったところで、くるまみちを戻ることにしました。

 くるまみちから南に入ったところにある泉佐野ふるさと町屋館。








 旧新川家住宅、とも呼ばれます。
 江戸時代に建てられた町屋で、中を見学することもできます。

 この家の最後の主人となった、当時の新川家の当主はお仕事で九州に引っ越すことになったため、この家を手放す
ことにしたのですが、文化遺産として市が買い取ることになったんだとか。でも実際の管理はボランティアの人たちで
行われているようです。

 泉佐野ふるさと町屋館の前をすぎ、辻を左に折れると白壁に囲まれた明厳寺が見えます。









 さらに進んでいくと、長者の名残を新たに発見。

 覚野兵蔵家の米蔵です。
 国登録有形文化財に認定されています。




 かつて、この場所には米穀肥料を扱う有力商人の覚野兵蔵家のお屋敷がありました。現在その屋敷は存在しませんが、
米蔵だけは残されました。

 泉佐野市のホームページには「迷宮都市 佐野町場」とありますが、まあ確かに碁盤の目のような区画ではありません。
でも、これはこれで赴きがあるとも言えるんでしょうけども。
 街道を歩いているとよく昔ながらの丸ポストが現役で残されているのですが、街道から外れたところにも丸ポストが
残されているのはちょっと珍しいかもですね。








 昔さながらに着物姿の人が歩いていても何の違和感もない雰囲気ですね。








 さて、そのまま歩いて行き、西方寺へと向かいます。


佐野町 その1

2017年12月31日 00時46分14秒 | パワースポット
 パワースポットめぐり。今回は佐野町場です。

 大阪府泉佐野市にあります。関西国際空港がある泉佐野市です。

 これまで、パワースポット編では神社や遺跡などを採り上げてきましたが、今回初めて町をやります。

 佐野町場には孝子越街道(きょうしごえ街道)が走っています。
 大坂から和歌山を結ぶ紀州街道は大阪湾に沿うように走っていますが、泉佐野市の鶴原で山側に逸れて
いき熊野街道に合流します。
 現在、大阪市と和歌山市を結ぶ鉄道には南海電鉄南海本線とJR阪和線の2本がありますが、紀州街道は
南海本線の近くを、熊野街道は阪和線の近くを走っています。
 それで、紀州街道は今も言ったように鶴原で山側に逸れていきますが、道そのものは、そのまま南に
向かって伸びており、つまり紀州街道は鶴原で二股に分かれているわけです。   
つまり分岐していく方が本線ということになるわけで、一方、まっすぐに、そのまま南に伸びている方の
道を孝子越街道といいます。

 で、なぜ佐野町場がパワースポットなのかと言うと、ここが長者の町だからです。
 江戸時代、佐野町は豪商たちが集う町だったのです。

 孝子越街道を南に向かって歩いていると、つばさ通りという名の商店街があります。アーケードの少し
手前には、右手に春日神社、左手に妙浄寺があります。

 ↓春日神社



 ↓妙浄寺



 妙浄寺の梵鐘には解説文があり、それによるとこの梵鐘は天和二年(1682年)に泉佐野の豪商唐金氏の
寄進だそうで、さっそく豪商エピソードに出会いました。




 つばさ通り商店街の中に入っていくと、今度は長者の御利益石があります。



 ここに「大長者者への心得」という教えが貼られておりました。

 大福長者への心得

 大福長者一日一夜にて成らずものなり。
 人は常に正直、勤勉、質素倹約を旨とし、知恵と才覚を屈指し利発に調義をなし、驕奢、賭け事、淫酒などに
心し、且つ徳を積み家職に励むべし。
 井原西鶴著「日本永代蔵」要書抜粋



 ・・・まあ当たり前と言えば当たり前のことを言っているような気もしないではないけども・・・とりあえず
ありがたいお言葉と受けとめておきましょう。

 この御利益石の手前の十字路を右手(つまり西側)に曲がってすぐのところに「元銀行跡」という蔵があります。



 この蔵は泉陽銀行の金庫として使われていた蔵だそうです。
 この蔵の礎石の部分にお多福石と呼ばれる浮彫が残されています。これも縁起物としてつけられたそうです。




 ちなみに大きさは大人の掌の半分ほど。
 昔の泉州は海沿いに町が形成されていて、それより東は田畑が広がっていました。そのため、紀州街道や孝子越
街道には銀行が多くあったのです。

 ↓ この右側の建物も昔は銀行だったそうです。



 元銀行跡がある通りは「くるまみち」と呼ばれます。この名は、かつて船から降ろした荷を運ぶ荷車が往来して
いたことからきたものだそうです。



 「くるまみち」にある煙草屋さん。今は営業してなさそうですが・・・。



 「たばこ」じゃなくて「TOBACCO」というのがモダンですね。



 さらに少しばかり進むと「いろは蔵」があります。

(つづく)

岡山御坊跡(後編)

2017年11月04日 00時41分07秒 | パワースポット
 岡山御坊は、しかし、それ以前にも一度戦火で焼失しているのです。
 だから、寺田又衛門に焼かれたのは再建された岡山御坊だったわけですね。
 1度目の戦火は永禄5年(1562年)に起きた久米田の戦いです。
 
 ここでちょっと当時の時代背景を説明しておきますと、室町時代、摂津国の守護大名は細川氏でした。
 久米田の戦いが起きたのはちょうど戦国時代とも呼ばれる時代で、この時の細川家の当主は細川晴元と
いう人だったのですが、室町幕府の管領職にあり、主に京都にいました。その代理として摂津国の経営を
任されていたのが守護代、つまり守護に次ぐナンバー2である三好長慶で、大層力をつけていきました。
そして、力をつけた結果、諸語の細川晴元を幽閉してしまいました。下剋上というやつです。
 ところが、この一件に対して、細川晴元の妹を妻にしていた六角義賢が晴元を復権させるべく三好長慶と
対立、さらには河内国守護の畠山高政らを味方に引き寄せます。
 
 ちょうどその時、三好長慶の弟で、岸和田城主だった十河一存(そごうかずなが)が死去します。
 これを好機と見た畠山高政は同じ反三好派の勢力と連合して岸和田城を攻めたのです。
 対して三好長慶はもうひとりの弟、三好実休(みよしじっきゅう)を総大将とした援軍を送りますが、畠山軍の
囲みは厚く、三好実休は久米田池の近くにある貝吹山古墳に本陣(貝吹山城)を置いて畠山軍と対峙します。
 
 ↓ 貝吹山古墳の頂上より泉大津、忠岡方面を望む。当時はかなり遠方まで望めたの
   でしょう。
 
 
 
 岸和田城と貝吹山城に挟まれる形となった畠山軍は貝吹山城を攻め、三好実休らの軍と戦いになりました。
これを久米田の戦いといいます。
 貝吹山城は久米田池の西側にあり、つまり岡山御坊とは反対側に位置していたのですが、久米田の戦いで
岡山御坊も焼失してしまったのです。
 この戦いで三好実休は戦死してしまいました。
 ちなみにですが、三好実休の息子の十川存保(そごうまさやす。ながやす、とも)は、豊臣秀吉に帰順し、
島津氏に攻められていた大友氏を救援するために仙石秀久、長宗我部元親・信親父子らとともに豊後に赴き
ますが、島津家久との戸次川の戦いで戦死しています。父子ともに戦死という運命をたどったことになります。
 
 ↓ 久米田にある「三好実休戦没地」の碑
 
 
 なお、この久米田の戦いで、久米田池と貝吹山古墳に挟まれた形で位置する久米田寺も焼失してしまいました。
久米田の戦いの後、久米田寺も岡山御坊も再建されました。岡山御坊が天正8年の焼き討ちの後消え去って
しまったのに対して久米田寺は今も存在します。
 
 ↓ 久米田寺の山門
 
 
 
  ↓ 多宝塔
 
 
 
 
  ↓ 行基堂(開山堂)
 
 
 
 ↓ 多門院
 
 
 
 
 それから、貝吹山古墳ですが、一帯は久米田古墳群と呼ばれる大小の古墳があり、その中で最大が貝吹山
古墳なのです。被葬者は橘諸兄ではないか、とも言われています。
 
 
 ↓ 久米田古墳群の中で2番目に大きな風吹山古墳
 
 
 
 ↓ 円筒埴輪(復元)に囲まれた無名塚古墳
 
 
 
 最後に本願寺のその後をお話ししたいと思います。
 11代門主であった顕如は石山本願寺を退去後、鷺森御坊、貝塚御坊、天満本願寺、京都の本願寺へと遷り、
文禄元年(1592年)死去しました。
 それに伴い、顕如の長男、教如が12代門主に就きますが、この時本願寺では派閥の対立が起こっていたの
です。
 それは、顕如の石山本願寺退去に端を発します。信長と講和し石山本願寺を退去することを決めた顕如に対し、
教如は徹底抗戦を主張しました。それで顕如の考えを支持する穏健派と、教如に賛同する強硬派が対立する
ことになったわけです。
 そんな中事件が起こります。
 顕如の三男准如の生母が、「准如を12代門主とする」とした顕如の遺言状がある、と豊臣秀吉に訴え出たの
です。
 この訴えに秀吉は、教如の12代門主就任を一旦認めた上で、ただし10年の後には准如に門主の座を譲る
ように命じ、教如もこれを受諾したのですが、強硬派がこれに反発、秀吉に撤回を求めたことで秀吉激怒、結果、
教如は直ちに退隠、准如を12代門主とする、という裁定に替えてしまったのでした。
 この処置に対しても、教如はおとなしく退隠したといわれますが、強硬派の不満は収まらず、なおも教如を門主と
する立場を取り続けたため、本願寺は事実上の内部分裂を起こしていたのでした。
 やがて関ヶ原の戦いが起こり、その3年後の慶長8年(1603年)、徳川家康により京都烏丸七条に寺領が寄進
されたことを機に、この地に教如を門主とする東本願寺が誕生したのです。
 一方の准如を門主とする元々の本願寺が現在の西本願寺です。
 
 
 石山合戦から本願寺の分裂まで、浄土真宗の歴史の中でも稀に見る激動期の中で消え去ってしまった岡山御坊。
 現在その跡地には、かつてこの場所に岡山御坊が存在していたことを記す説明文が掲げられています。
 
 
 
 さて、前編・後編にわたって紹介しました今回の岡山御坊。前編のはじめに書いたように、パワースポットと
は少し違うような気がしますが、それでも、かつてここが信仰の地であったことには違いないと思います。
 こういう所って広く知られていないだけで実はたくさんあるのでしょうね。