小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

99 安曇氏と摂津の三島

2013年02月14日 01時29分24秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生99 ―安曇氏と摂津の三島―


 近江に丸邇(わに)氏と息長氏がいたことは、大津市に和邇(わに)
の地名があること、米原市能登瀬に息長小学校や息長郵便局などの名前
のあることが、その名残です。
 息長小学校や息長郵便局は、この地がかつては息長村だったところか
ら残っている名前ですが、古代においては息長氏がいたところです。
 米原市居田には、息長真手王の娘で、第30代敏達天皇の后となった
息長広姫の墓と伝えられる古墳(息長陵)もあります。

 さて、大津市和邇にはJR湖西線の駅に和邇駅がありますが、湖西線
で北上すると安曇川駅があります(高島市)。
 この駅のあるところには安曇川(あど川)なる川が流れているのです
が、安曇は「あずみ」で、安曇氏がこの辺りにいた名残と考えられます。

 『播磨国風土記』には、神功皇后、すなわちオキナガタラシヒメの伝
承が数多く残されていますが、神功皇后が三韓に出兵する時に、対馬の
琴崎(きんざき)の海辺で軍船の碇が沈んで上がらなくなったのを、安
曇磯武良が潜って引き上げたという伝承があります。
 この安曇磯武良は、安曇磯良(あずみのいそら)という名前で知られ
ていますが、『太平記』では神として描かれており、実際に綿津見神社
(わたつみ神社)でも祭神として祀られています。
 綿津見神社に祭られているというのは、『新撰姓氏録』に、安曇氏が
綿積神(わたつみ神)の御子神である穂高見命(ホダカミノミコト)の
子孫とあるからで、長野県に穂高神社があり、安曇野という地名も残さ
れています。

 安曇磯良を祀る神社には、他にも大阪府茨木市の磯良神社があり
ます。ここでは、磯良は磯良大神として祀られていますが、この神
社は別名を疣水神社(いぼみず神社)といって、やはり神功皇后に
まつわる伝承が残されています。
 すなわち、神功皇后が三韓に出兵する時にこの神社から湧く「玉
の井」で顔を洗うと、疣や吹き出物ができて、醜く男のような顔に
なったが、無事に出兵を終えて再びここの玉の井で顔を洗うと元の
美しい顔に戻った、というものです。

 この伝承とは別に、谷川健一(『青銅の神の足跡』)は、疣は播
磨国の揖保郡(いぼ郡)に通じる、とします。
 『播磨国風土記』の揖保郡の項には、安曇連百足(あずみのむらじ
ももたり)という人物がここ揖保郡にいたことを記していますが、
浦上の里の項に、百足が、元は難波にいて、そこからこの地にやって
来た、と記します。

 また同じく揖保郡の大田の里の項には、

大田というのは、昔、呉の勝(すぐり)が韓国より渡来して来て、
最初は紀伊の名草郡大田の村にいたが、その後枝分かれして摂津の
三島の賀美郡大田の村に移ってきた。
それが、今度は揖保郡の大田の村に移って来た。大田というのは元
は紀伊の大田の地名が由来である。

と、あり、摂津の三島の大田とは、茨木市太田とされています。

 そうなると注目されるのが、「伊予国風土記逸文」にある、

 伊予の国の風土記に曰く、乎知(おち)の郡の御嶋(みしま)。
坐す神の御名は大山積の神、またの名を和多志(わたし)の大神な
り。この神は、仁徳天皇の御世にあらわれ、百済の国より渡り来ま
して、津の国の御嶋に坐しき。この地を御嶋というのは津の国の御
嶋からきたものである。

と、いう記事です。ここでいうミシマとは、愛媛県今治市大三島町
にある、三島神社の総本社の大山祇神社のことですが、オオヤマツ
ミが百済から来た神とあるのも、安曇氏が茨木市(旧の三島郡)に
関係し、渡来人の勝とともに揖保郡に移ってきたことから生まれた
伝承なのかもしれません。
 なお、オオヤマツミもワタツミもともに海の神です。

 それからもうひとつ。注意しないといけないのが、『播磨国風土
記』の揖保郡の項には渡来系の伝承を残していることです。

 粒丘の伝承として、アシハラシコオとアメノヒボコが国占め争い
をしたことがそうですが、またこの地にはホアカリを祀る粒坐天照
神社があり、また茨木市には新屋坐天照御魂神社があり、かつて磯
良神社は新屋坐天照御魂神社の境内社で、新屋坐天照御魂神社の移
転により、独立した形になったと言います。

 それから、神功皇后の祖母が、アメノヒボコの子孫であるスガカ
マユラドミであることも忘れてはいけません。

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