小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

640 蘇我氏の登場 その6

2019年01月07日 00時36分39秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生640 ―蘇我氏の登場 その6―


 もっとも、近年では蘇我氏渡来人説はやや劣勢と言えるでしょう。そもそも蘇我氏が渡来人と
考える根拠は何か、近年ではあまり支持されない傾向にあるのはなぜか、といったことはここ
では割愛させていただきます。

 反対に、もっとも有力視されているのが奈良県橿原市曽我町を発祥の地とする説です。
 理由は、蘇我氏と同じ臣(おみ)の姓(かばね)を持つ氏族の多くが地名を氏族名としている
ことと、曽我町に鎮座する宗我坐宗我都比古神社(そがにますそがつひこ神社)が別名を入鹿宮と
呼ばれているからです。

 それでは問題となる河内国石川発祥とする説についてなのですが。
 これは、次の2点が主な根拠と言ってもよいと思います。
 すなわち、1つ目として飛鳥の地名が存在すること。
 2つ目には、蘇我石河宿禰や蘇我倉山田石川麻呂など、名前に石川という言葉を含む人物が
蘇我氏にいること、そして蘇我氏が後に氏族名を石川氏に改称していることです。

 そもそもの話なのですが、河内の石川とは、大阪の南河内地域を流れる石川流域のことで、
具体的には富田林市、南河内郡河南町、南河内郡太子町あたりを指します。
 河内の飛鳥は河南町や羽曳野市周辺を指しますが(羽曳野市に飛鳥という地名が現存します)、
この河内の飛鳥は古くより「近つ飛鳥」と呼ばれているのです。一方、奈良県の飛鳥(明日香)は
「遠つ飛鳥」と呼ばれるのです。
 奈良県の飛鳥は言うまでもなく蘇我氏と関わりの深い土地です。だから、河内の飛鳥も、
蘇我氏に石川という地名を含んだ人物がいることも絡めてきっと蘇我氏と縁のある地であろう、と。
その上で、奈良の飛鳥が「遠つ飛鳥」で河内の飛鳥が「近つ飛鳥」と呼ばれているのだから
蘇我氏は河内が発祥で後に大和の飛鳥に遷っていったのだ、というのが、河内の石川発祥説の
第1に挙げた理由です。

 しかし、「近つ飛鳥」の呼称を根拠とするには、あくまでもこれが蘇我氏によって呼称された
ものでなくてはなりません。残念ながら河内の飛鳥が蘇我氏によって「近つ飛鳥」と呼称される
ようになった、とする記録はないのです。
 そこで蘇我氏は河内発祥と考えるには、2つ目の「石川の地名と人物名」に求めることとなり
ます。

 まずは石川の地名を含む名前を持つ蘇我氏の人物ですが、一人目は蘇我氏の始祖である蘇賀(蘇我)
石河宿禰です。
 蘇賀石河宿禰の系譜は8代孝元天皇から始まり、その子孫である武内宿禰の子が石河宿禰とされて
います。ただ『古事記』と『日本書紀』とでは少し異なる系譜を載せています。
 『古事記』では、孝元天皇の御子である比古布都押之信命(ヒコフツオシノマコトノミコト)が、
木(紀伊)国造祖先宇豆比古(ウヅヒコ)の妹山下影日売(ヤマシタカゲヒメ)を娶って生まれた
のが建内宿禰となっています。早い話しがヒコフツオシノマコトの子であるとしているわけです。

 これに対して『日本書紀』は、武内宿禰は彦太忍信命比古布都押之信命(ヒコフツオシノマコトノ
ミコト)の孫となっており、かつ屋主忍男武雄心命(ヤヌシオシオタケヲゴコロノミコト)と紀直の
遠祖菟道彦(ウヂヒコ)の娘影媛との子としています(つまり屋主忍男武雄心命は彦太忍信命比古布
都押之信命の子ということになるのでしょうか)。

 ところで、『日本書紀』にある屋主忍男武雄心命は、『古事記』にある少名日子建猪心命(スクナ
ヒコタケイココロノミコト)と同一人物だと考えられています。
 『古事記』にある少名日子建猪心命は孝元天皇の御子なので、孝元天皇の孫とされる『日本書紀』の
屋主忍男武雄心命との違いがまず見られますが、この差異よりもその生母の方に注目したいと思います。

 ヒコフツオシノマコトの生母は記紀ともに伊迦賀色許売命(イカガシコメノミコト)となっています。
イカガシコメはその後、孝元天皇の御子で第9代天皇となった開化天皇の皇后となり(つまり再婚)崇神
天皇を生んでいます。
 『古事記』では孝元天皇の御子となっている少名日子建猪心命の生母は内色許売命(ウツシシコメノ
ミコト)となっています。
 イカガシコメとウツシシコメ、実はこのふたりは叔母と姪の関係なのです。
 イカガシコメは内色許男命(ウツシシコオノミコト)の娘で、ウツシシコメはウツシシコオの妹なの
ですが、問題はこのウツシシコオが「穂積臣等の祖」と記されていることです。
 穂積氏はニギハヤヒの御子ウマシマヂの子孫なので物部氏と同族となります。
 このことはすなわち、蘇我氏の始祖を辿っていくと物部氏の始祖に行き着くということになるのです。
 このことは、つい見逃されがちになっていますが、蘇我氏と物部氏の関係を考える上で非常に興味深い
ものとなります。

 さて、石川の名を持つ蘇我氏の人物として一人目に紹介した石河宿禰ですが、実在性を問われると
大いに疑問を抱かざるを得ないのです。
 しかも、石河宿禰から稲目に至る系譜を見ると次のような名前が並ぶことになるのです。

 石河宿禰 ― 満智 ― 韓子 ― 高麗 ― 稲目

 特徴として朝鮮半島を連想させる名前が連なっています。韓子(からこ)や高麗(こま)は言うまでも
なく、満智(まち)という名も、朝鮮半島の人物を連想させるものです。『日本書紀』の応神天皇二十五年の
記事には、幼少の百済王、久爾辛王に代わって執政を行った、木満致(モクマンチ)という人物が登場します。

 実を言えば朝鮮半島を連想させる名前の人物が続くことが、蘇我氏渡来人説の根拠のひとつとなっている
わけなのですが、その一方で、韓とか高麗などストレートすぎる名前がむしろ実在を疑わせるという指摘も
あり、それで言えば石河宿禰という名も後から付けられた可能性も否定できないのです。

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