小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

受け入れがしたい

2016年08月24日 01時22分41秒 | 日記
2013年4月17日(水)(5歳0か月)
 
 
 今年の夏休みの期間中にヒッポファミリークラブでアメリカの
高校生のホームステイ受け入れをするプログラムがある。
 
 実は今年の夏休みには、りえがアメリカに1か月間のホーム
ステイに行く。
 
 そんなこともあって、みんたも少しこの受け入れプログラムに
興味を示していた。
 
 ところがこのプログラム、受け入れ期間がほぼ1か月間なので
ある。
 
 今までにして来た海外の青少年のホームステイ受け入れでは、
ゆうきやりえ、それに春奈がいろいろかまってくれたので、みんたも
その分楽ができた。
 
 しかし、今回はりえが家にいない。
 
 そして受け入れ期間が長い。
 
 ムリなんちゃう?
 
と、僕は思っていた。
 
 そして、今日、仕事から帰宅すると、春奈が僕に言った。
 
 「アメリカの女の子受け入れしたいんやけどな」
 
 少し驚いた。
 
 だって、春奈が「受け入れをしたい」と言ってきたのはこれが初めて
だからだ。
 
 それと春奈がそれを言ってきたことにも驚いた。
 
 いつも受け入れをすると、みんたは春奈の通う保育所にその
ゲストを連れて行く。
 
 保育所の生徒や他の園児たちの反応から、春奈は、
 
 「他の家ではわが家みたいにしょっちゅう海外の人がやって来るわけ
ではない」
 
と、いう事実を知ってしまったようだ。
 
 それにお友達から、
 
 「なんで春奈ちゃんちは外国の人がいっぱい来るの?」
 
と、訊かれて、ホームステイプログラムの説明に困るらしい。
 
 そんなことから、近頃の春奈はホームステイの受け入れに消極気味の
ように思っていたけど、だからこそ、まさか受け入れしたいと言い出す
とは思わなかった。
 
 
 よく海外の人がホームステイにやって来る。
 
 春奈は、それが他の家ではそうじゃない、うちが「特別」なのだ、という
ことを知った。
 
 でも、同時に自分にとってはそれが「日常」なのだということも知って
いるのかもしれない。

521 出雲臣の西進 その6

2016年08月22日 01時04分59秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生521 ―出雲臣の西進 その6―
 
 
 これらの様々な疑問は取り敢えず横に置いて主題である出雲臣による西進を中心に
戻したいと思います。
 
 それで出雲臣が意宇郡から遷ったのはいつの頃か、根本的とも言えるこの問題です
が、『出雲国造世系譜』には、二十六世出雲臣果安(はたやす)の時と記されています。
 なお、出雲臣果安は『出雲国風土記』編纂時の出雲国造であった出雲臣広嶋の父
でもあります。
 それと同時に、『出雲国造世系譜』は、この出雲臣果安が、元正天皇の霊亀二年二月
(霊亀二年は西暦で716年)に神賀詞を奏上したことが記されており、その後に続いて、
果安が始祖、天穂日命以来からの大庭の地を離れて出雲大社のある杵築の地に遷った
ことが記されているので、出雲臣が意宇郡の大庭から出雲郡の杵築に遷ったのは神賀詞
奏上の前後、霊亀年間の頃と考えられています。
 そうすると、出雲臣の西遷は奈良時代に入ってから、ということになり、継体朝時代は
もちろん大化の改新の頃も出雲臣は依然として意宇郡に居を構えていた、ということに
なります。
 
 出雲振根討伐がそのまま史実ではないにしろ、出雲西部の勢力が外部からの勢力に
よって屈服させられて出雲臣の影響下に治められることになった、というのが多くの研究者の
見方なのですが、それでは出雲西部の支配とはどのような形が取られていたのでしょうか。
 
 門脇禎二(『出雲の古代史』)は以前にも紹介したように、出雲西部を屈服させた外部
勢力を吉備王国としています。はたして当時の吉備が王国と呼べるような国家システムを
構築していたのか疑問のあるところではあるのですが、それも横に置くとして、門脇禎二は、
吉備国家の根拠地は三刀屋(みとや=現在の雲南市三刀屋町)に留まるとし、
 「出雲西北部の支配は、新たな在地勢力に任せ、それを監視するかたちをとっていたよう
に思われる」
と、します。
 
 門脇禎二はこのように、出雲西部を管轄したのは「新たな在地勢力」として、具体的な
氏族名については触れていません。
 これに対するひとつの参考になるだろう説として、三谷栄一が『出雲神話の基盤』の中で、
林臣が大和政権より意宇郡に派遣されて勢力を持っていた、とする考察を述べています。
 
 もう少し詳しく説明しますと、三谷栄一は『出雲国風土記』に、意宇郡の郡司について、
 
 大領  出雲臣広嶋(兼出雲国造)
 少領  出雲臣
 主政  林臣
 擬主政 出雲臣
 主帳  海臣
     出雲臣
 
とあることに注目し、大領、少領、擬主政(凝は仮の意味)、主帳に出雲臣が占めている中、
主政には林臣が就いており、そして林臣が武内宿禰を始祖とする氏族であることから、
大和政権から派遣されたもの、としているのです。
 
 ところで『出雲国風土記』の意宇郡の条に、拜志郷(はやし郷)が載り、
 
「本字林(元の字は林なり)」
 
と、あるので、この拜志郷は林臣の領地であった可能性が高いのですが、『出雲国風土記』に
よれば、この拜志郷には屯倉が置かれていた、とあります。
 さらに、『出雲国大税振給名帳』によれば、出雲郡建部郷と河内郷に林臣がいたことが記され
ています。
 そうすると、三谷栄一の、林臣は大和政権が派遣したという考察にも頷けます。
 
 一方でその出雲郡の郡司については、『出雲国風土記』が記すところでは、
 
 大領 日置臣
 少領 太臣
 主政 部臣(おそらくは〇部臣と、部の前が欠字になっているものと考えられています。)
 主帳 若倭部臣
 
となっており、出雲臣が郡司に任じられていないのです。
 当時の郡司の役職は任期が何年と決まっているものではなく、その土地の豪族がそのまま
世襲制で就き、死亡または引退するまで務めていたものなので、いかに出雲国造とはいえ
出雲臣がこれに就くことは容易なことではなかったのでしょうが、このことは出雲郡における
出雲臣の影響力を顕すひとつの参考になるものと思います。
 
 しかし、それならばなぜ出雲臣果安は意宇郡から出雲郡に遷ったのでしょうか。
 
 おそらくそれは、『出雲国造世系譜』にある神賀詞奏上に関係すると思われるのです。
 出雲臣側の記録である『出雲国造世系譜』では、出雲国造の神賀詞奏上はこの果安による
霊亀二年の神賀詞奏上が初見です。
 これがそのまま、霊亀二年の神賀詞奏上が初めての神賀詞奏上なのだとすれば、出雲大社の
祭祀者という立場を決定的なものにするために出雲臣は杵築大社(出雲大社)のある出雲郡
杵築の地に遷ることに決定したと考えられるのです。

サイン談義

2016年08月19日 00時57分53秒 | 日記
2013年4月12日(金)(5歳0か月)
 
 
 そう言えば最近サインをしたことがないなあ。
 
 ここで言うサインとは、芸能人やスポーツ選手が色紙などに書く、
名前を知っていても何て書いてあるのか読めない、あのサインの
ことだ。
 
 なんてことを言うと、「芸能人でもスポーツ選手でもない一般人が
サインなんて持ってるわけないやろ」と言われてしまうかもしれない
けど、いやいや、そんなことないよ?
 
 ただ、そうは言っても日本人の場合サインを書く機会なんて皆無
なのもまた事実だと思う。
 
 だから、芸能人やスポーツ選手以外なら大半の人がサインを
持っていない。
 
 じゃあ、僕らがどんな時にサインを書くのかというと、契約の時で
ある。
 
 たとえば、海外に旅行に行こう、と思ったとする。
 
 旅行会社のパックを利用するのではなく個人旅行である。
 
 まず宿泊するホテルを予約する。(個人旅行の場合、宿泊する
ホテルを決めていないと入国を拒否される場合があるから。もっとも
日本人は信用があるのか、実在のホテルの名前を口に出せば予約
していなくても確認も取らずに通してもらえたりもするけどね)
 
 最近はネットで予約できるけど、ほんの少し前まではファックスが
幅を利かせていたので、何月何日に宿泊したい、とホテルにファッ
クスを送る。
 
 すると、ホテルから「その日なら空き部屋があるよ」とファックスが
返っている。
 
 で、あらためて「予約します」とファックスを送り直す。(これは鉄則。
最初のファックスはあくまで「問い合わせ」と取られるため、あらためて
申し込む必要がある)
 
 それで、このファックスのやり取りで、ホテルの人も、申し込むお客も
それぞれ自分の名前を書いて、その横にサインを書くのである。
 
 僕の場合もサインを書くのはこのようにホテルの予約をする時とか
だった。
 
 
 僕がさっき「日本人の場合サインを書く機会なんて皆無」と言ったのは、
実際のところ日本人が個人で外国の会社などと取引をすることがない
からだ。
 
 今例に出したホテルの予約だって旅行会社が販売するツアーに申し
込む人がほとんどなので自分でやる必要はない。
 
 
 おもしろいのはサインもまた文字であるということだ。
 
 文字とは相手に伝えるものであり、また相手の言葉を読むために存在
する。
 
 そのためには誰もが書けて誰もが読めることが絶対条件になる。
 
 ところがサインは本人しか書けないし読むのも難解だ。
 
 文字が本来持っている機能と真逆なのである。
 
 もちろん契約書の偽造を防ぐために存在するからなのだけども。
 
 だけども、契約書という重要書類に世界でひとりだけが持つ文字が
使われる、というところが何とも言えない面白味を感じてしまう。

520 出雲臣の西進 その5

2016年08月16日 01時35分24秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生520 ―出雲臣の西進 その5―
 
 
 なお、『出雲国造世系譜』は、阿多命と伊幣根命の弟に甘美韓日狭の名を記していますが、
これは『日本書紀』に甘美韓日狭(ウマシカラヒサ)とあるのと一致します。
 次に、『出雲国造世系譜』は伊幣根命の子として、氏祖命(オオシノミコト)の名を記し、
 
 「ウ(盧に鳥という字)濡渟命の別称」
 
と、注記をしています。
 『日本書紀』も、飯入根の子にウ濡渟(ウカヅカヌ)の名を記しているので血縁関係は一致
するわけですが、それでも名前にかぎれば一致するのはウマシカラヒサだけなのです。
 
 さらに『出雲国造世系譜』を見てみますと、この氏祖命の孫である十四世孫の来日田維命
(キヒタスミノミコト)が、『古事記』のホムチワケ伝承に登場する岐比佐都美(キヒサツミ)の
ことだとしています。
 さらに、十七世孫の国造宮向臣が反正天皇十四年に国造に任じられ、出雲臣の姓を
賜わった、とあります。
 
 さて、これを皇統と比較してみると、十一世孫の阿多命・伊幣根命・甘美韓日狭が10代
崇神天皇の時代の人となるわけですが十四世孫の来日田維命は11代垂仁天皇か、あるいは
その御子であるホムチワケと同世代でなくてはならないのでずれが生じます。
十七世孫の国造宮向臣が反正天皇の時代に国造に任じられて出雲臣の姓を賜わったと
『出雲国造世系譜』にありますが、反正天皇は18代天皇とはいえ16代仁徳天皇の御子
なので世代としては17代にあたり、皇統とは1代のずれが生じるのです。
 さらに言えば、阿多命・伊幣根命・甘美韓日狭が十一世孫というのがすでにずれが生じて
います。
 二世の武夷鳥が国譲りの使者となったということは、国譲りの時に生まれたばかりのホノ
ニニギは三世孫と同世代ということになります。
 すると、初代神武天皇(ホノニニギの曾孫)と同世代になるのは七世孫ということになり、
10代崇神天皇と同世代が十一世孫というのは大きなずれが生じてしまうのです。
 もちろん、それぞれの存命した年数が異なるので単純に皇統と出雲臣の世代を重ねるわけ
にはいかないのですが、皇室と出雲臣の系譜は一致しないというのは間違いのないことで、
それはすなわち出雲臣の系譜がいろいろと手が加えられている、ということになります。それに、
『出雲国造世系譜』そのものが平安時代に作られたものであるから、出雲臣の系譜に作為が
あることは間違いないと言えます。
 つまりは、出雲振根や飯入根それに甘美韓日狭、ウカヅカヌが『出雲国造世系譜』に記され
ているから、と言ってそのまま彼らが出雲臣の一族であったと見做すことはできないということ
です。
 おそらくは、出雲国造が杵築大社(出雲大社)の祭祀権を掌握し、かつその正当性を得る
ために振根たちを出雲臣の系譜に組み込んだ、すなわち出雲国造は飯入根の子孫という系譜を
作り上げたのでしょう。
 
 ところが、ここでひとつの疑問が生じるのです。
 フルネ滅亡が出雲西部における勢力の低下を招き、その結果出雲臣の出雲西部への進出を
可能にした、ということは安易に推測できるわけですが、だとすると、『日本書紀』が記す、フルネの
事件をきっかけに出雲臣らが出雲大神の祭祀を自粛するようになった、とあるのはどういう理由
なのでしょうか。
 この出雲臣が後の出雲国造のことではなく神門臣のことだとすれば納得のいくことではあるの
ですが、祭祀の復活を求める神託があったということから想像するに、出雲国造の出雲臣も出雲
大神の祭祀を行っていなかったようなのです。
 
 さらに、その神託が出雲ではなく丹波国氷上郡の氷香刀辺(ヒカトベ)の子にあった、というのは
どうしてなのでしょうか。
 
 また、この神託に対し、氷香刀辺はそれを崇神天皇にではなく皇太子だった垂仁天皇に奏上して
いることも見逃せません。
 それと言うのも、この氷香刀辺の子への神託は、『日本書紀』にのみ記され『古事記』ではまったく
触れていません。
 それに対して『古事記』はホムチワケ伝承で、出雲大神が垂仁天皇に祭祀を要求し、ホムチワケが
出雲大神の宮を訪問するという話を載せていますが、『日本書紀』にはこの話は登場しないのです。
 ですが、話の内容は違えども、どちらも出雲大神の祭祀に垂仁天皇が関係している点では一致
します。
 では、どうして垂仁天皇が関係しているのか、という問題も生じるわけです。

小銭

2016年08月11日 01時05分33秒 | 日記
2013年4月11日(木)(5歳0か月)
 
 
 コインのことを春奈は「コジェニ」と言う。
 
 説明するまでもないと思うけど、一応説明しておくと、
本人は「小銭」と言っているつもりのようだ。
 
 その証拠に、いつもは「コジェニ」と言っている春奈が、
今日は、
 
 「コデニがなくて・・・」
 
と、言った。
 
 なお、幼児は「デ」と「ゼ」の区別が苦手である。
 
 同じように、「リ」と「ディ」の区別も苦手だ。
 
 もっとも、幼児にかぎらず、大人でも「ジ」と「ヂ」の区別が
苦手な人は多い。
 
 
 まあ、それはさておき・・・
 
 僕は小さい頃、おじいちゃんやおばあちゃんが、
 
 「一銭もない」
 
と、言っているのを聞いて、それを「一千」と思い込み、
 
 「なんで『1円もない』じゃなくて『千円もない』って言うん
やろう?」
 
と、不思議に思っていた。
 
 大きくなってから、お金の昔の言い方が「銭(ぜに)」で
単位が「一銭(せん)、二銭」だと知った。
 だけど、江戸時代は三貨幣制度で、金(両)・銀(匁)・銭の
3種類があった、と知ったのはもっと大きくなってからだった。
 
 このことをひとつの例として採り上げても、やっぱり言葉の
意味を知るということは、知っているつもりでもすべての
意味まではわかっていない、でも生活していく分には全然
だいじょうぶだ、ということを示していると思う。