小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

639 蘇我氏の登場 その5

2018年12月20日 01時45分03秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生639 ―蘇我氏の登場 その5―


 これは、著者の大山誠一自身が記すように、北條勝貴によって指摘されたものなのですが、
魏崔浩条にあるのは次のような内容になります。

 北魏の泰平真君七年(四四六)、太武帝に重用された宰相の崔浩は、道教の国教化を図って
寇謙之(こうけんし)を天師とし、僧尼を迫害し、伽藍を破壊し、経典を廃棄するという
大規模な廃仏を行った。
 この後、崔浩は後宮の庭から一体の金像を掘り出すが、これを汚したところ陰部に痛みを
覚える。太史から「大神を犯したためです」と卜断を受け、広く名山・、祀廟に祈願するが
効験を得られず、宮人の助言で仏に祈請してようやく快癒に至る。そこで崔浩は仏に帰依
するが、罹患して慚愧の心を起こした太武帝により寇謙之は酷刑に処せられ、崔浩自身も
誅殺されてしまう。太武帝はそのまま崩御し、孫の文成帝が即位するに至って仏教が再興
される。
 (大山誠一『天孫降臨の夢』より抜粋)

 たしかに、この内容は『日本書紀』の「敏達紀」によく似ています。ただし、魏崔浩条に
おける崔浩の行動が、「敏達紀」では蘇我馬子と物部守屋のふたりに分かれているところが
異なりますが。
 「敏達紀」では、病にかかり、それを卜者にから「仏神の祟り」と言われたことで一層仏を
礼拝し、結果快癒することになったのは崇仏派の蘇我馬子となっています。
 一方、仏像と仏殿を焼き、焼け残った仏像は捨て、僧尼を迫害したのは物部守屋となって
います。
 こうした違いはあるにしても、馬子の話と守屋の行動は魏崔浩条の内容と酷似しています。
 さらには、敏達天皇も病にかかり、天皇は僧尼を馬子に還すものの崩御してしまうところも
魏崔浩条の太武帝とよく似ています。
 そして、明日香時代に入ると仏教が栄えるところも、魏崔浩条に、太武帝の孫の文成帝の
時代に仏教が再興された、とあることと大いに似通っているのです。

 ここまで共通点が多いとなると、「敏達紀」は「魏崔浩条」を模倣としていると考える
方が自然でしょう。
 すると、物部氏と蘇我氏の抗争も、仏教を巡ってのものではなかったことになってしまう
のです。物部尾興、稲目父子が排仏派ではなかったとは言いませんが、その行為も、『日本書紀』に
記されている内容ほどの過激な行動ではなかったと思えるのです。
 ならば仏教を信仰するか否かという対立は武力抗争に発展するほどのものではなかったはず
です。

 それでは、物部氏と蘇我氏の抗争の原因は一体何だったのでしょうか?

 この疑問を解くために、あらためて物部氏と蘇我氏の本拠を追ってみたいと思います。
 まず、物部氏ですが、本拠は大阪府東大阪市とする説が有力です。
 物部氏の始祖はニギハヤヒノミコト(『古事記』では邇芸速日命、『日本書紀』では饒速日尊)
です。この神は天つ神で、神武天皇よりも先に大和に降り立った、と『古事記』や『日本書紀』に
記されています。
しかし、物部氏らニギハヤヒの子孫を主に記された『先代旧辞本紀』には、ニギハヤヒの降り
立った地は河内国河上の哮峯(いかるがみね)で、そこから大和の鳥見に遷った、と記されて
いるのです。
 では、この哮峯がどこなのか、ということについてなのですが、その比定地については諸説
あり、大阪府と奈良県を隔てる生駒山のどこか、あるいは大阪府交野市、大阪府南河内郡河南町
などが候補に挙げられます。
 生駒山説は生駒山のどこか、と曖昧であるのに対して、交野市説と河南町説は具体的な場所が
否定されています。交野市説は交野市私市の磐船神社で河南町説は河南町平石の磐船神社です。
どちらも同じ磐船神社(いわふね神社)という社名ですが、磐船とは、ニギハヤヒが高天の原
から降り立った時に乗ってきた「天の磐船」を指します。

 ただし、河南町の磐船神社よりも交野市の磐船神社の方が有力視されている傾向にあります。
逆になぜ河南町説が不利なのか言いますと、河南町の磐船神社が鎮座する河南町平石はかつて
石川郡に属しており、石川郡は蘇我氏の拠点だったとされているため、ここが物部氏の始祖で
あるニギハヤヒの降り立った地であるとは考えにくい、というわけです。

 しかし、石川郡が本当に蘇我氏の拠点だったとするならば、どうしてここに天の磐船伝承に
ちなむ磐船神社が鎮座するのか、という疑問が生じるわけで、これを解決せずに河南町説を否定
することはできません。
 そのため、まずは石川郡が蘇我氏の拠点、という「通説」についても再考する必要がある
ように思えます。

 そもそも蘇我氏発祥の地はどこか、ということから始めなくてはいけないのでしょうが、他の
氏族がそうであるように、蘇我氏もまた発祥の地がどこかと言うことについては諸説あるのです。
 それどころか、蘇我氏が渡来人であるという説もあり、実際のところ現代に刊行されている
書籍の中にも「蘇我氏は渡来系氏族」と書かれているものが少なくはないのです。

638 蘇我氏の登場 その4

2018年12月12日 00時49分50秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生638 ―蘇我氏の登場 その4―


 仏教伝来は『日本書紀』に、欽明天皇十三年の出来事と記されており、これが「正史」とされて
います。実はこの記事に関しては多くの研究者が疑問視しているのですが、そのことは主題では
ないので横に置いておくとして、『日本書紀』は次のような内容のことを記します。
 欽明天皇は群臣を前に、「仏を信じるべきかどうか?」と尋ねられると、蘇我稲目は「諸外国は
仏教を信仰しております。日本も受け入れるべきです」と答え、物部尾興と中臣鎌子は、「日本には
日本の神々がすでにおわすというのに外国の神を祭祀する必要などありません」と反対した。

 このように、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏が仏教を巡って対立し続けた後、ついには武力抗争に
発展して結果物部氏は滅ぶこととなった、とされています。
 ところが、今しがたのとおり、『日本書紀』の記事を疑問視する意見も多く、また渋川寺の問題も
あります。
 渋川寺とは、大阪府八尾市渋川町にかつて存在した仏教寺院のことです。現在では存在しないため、
ふつう渋川廃寺と呼ばれています。なお、現在この地には渋川天神社が鎮座します。それでこの渋川廃寺
なのですが、この周辺は物部氏の別業(本拠地以外の領地)であったと伝えられている地なのです。
そのため、物部氏は実は仏教を容認し自らも取り入れていた、などと言われることとなったのです。
 もっとも、渋川廃寺跡から発見された瓦などから、渋川寺は白鳳時代に建立されたと考えられており、
つまり物部氏滅亡後に建てられているので、物部氏が仏教を容認していたと考えるにはいささか難が
あります。

 しかし、物部氏が『日本書紀』に描かれているような強硬なまでの排仏派であったのかどうか、という
点については疑問とする考察は以前より存在するのです。
 これについて紹介する前に、まずは『日本書紀』にて描かれている物部尾興と物部守屋父子の排仏派
ぶりを押さえてみたいと思います。それは次のような内容のものです。

 欽明朝時代、蘇我稲目は小墾田の家に仏像を安置し、向原の家を寺にしますが、その後国中に疫病が
流行します。すると物部尾興と中臣鎌子はその原因が仏教を信仰したことで神が怒ったのだ、と奏上し、
仏像を難波の堀江に捨て、伽藍を焼き払ってしまったのです。
 すると、風雲もないのに天皇が住まわれる大殿が消失するという出来事が起こります。

 敏達天皇十三年の年、蘇我馬子は百済より伝わった弥勒の石像を家の東に仏殿を作って安置します。
この時、善信尼、恵善尼、禅蔵尼の三人の尼を招きますが、まさにその席で仏舎利が出現したので、
馬子は石川の宅にも仏殿を造ります。
 さらに翌年、馬子はその仏舎利を納める塔を大野の丘の北に建てますが、その直後馬子は病にかかり
ます。卜者に問うたところ稲目が祀った仏神の祟りである、と言うので、さらに石像を礼拝したところ、
国中に疫病が流行し、多くの民が死んでしまう状況が起きたのです。
 そこで天皇は物部守屋と中臣勝美の奏上を受け入れて仏法の停止を認めます。
 守屋は仏像と仏殿を焼き、焼き残った仏像は難波の堀江に捨ててしまいます。 
 さらに、善信尼ら三人の尼を全裸にして鞭で打ちます。
 ところが、その直後に天皇と守屋は瘡病にかかり、また多くの民も病で死んでしまったのです。人々は
仏像を焼いた報いだと語り、そのため天皇は三人の尼を馬子を還しますが、まもなく天皇は崩御して
しまいます。

 以上のようなことが『日本書紀』に記されているわけですが、この内容が、中国の仏教の経典などを
参考、あるいは模倣によって作られたものだという指摘があるのです。
 大山誠一の『天孫降臨の夢』は、この点についてのことを詳細かつわかりやすく解説しています。
この書の中にある、仏教伝来ついての章は、吉田一彦、北條勝貴、井上薫、津田左右吉といった研究者
たちの説を織り交ぜ引用する形で展開されているためここで紹介するのは事実上の孫引きになってしまう
のですが、今も述べたようにわかりやすくまとめられているから採り上げてみたいと思います。

 まず、この書で指摘されていることなのですが、『日本書紀』の記事は欽明天皇や敏達天皇が物部尾興や
物部守屋の意見を採用して仏像が捨てられたり伽藍が焼かれるなど廃仏が行わると、大殿が火災になったり、
天皇自身も病となり崩御してしまう、という形をとっています。
 しかし、これは中国の仏教文献を参照、模倣している、というのです。
 中国では、北魏の太武帝や北周の武帝による大規模な廃仏があり、その経緯は唐代の道宣の『広弘明集』、
『集古今仏道論衡』、『続高僧伝』、『集神州三法感通録』や道世の『法苑珠林』に詳しく書かれており、
『日本書紀』の文章はこれらを利用して書かれている、とするのです。

 また、中国の仏教思想には、廃仏の動きが起こり、次に排仏派との戦いがあり、これに勝利した後仏教の
興隆(三法興隆)というものがあるといいます。
 『日本書紀』に書かれていることも、やはり廃仏が行われた後、崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の戦いが
あり、勝利した物部氏と聖徳太子らによって立派な寺院が建立され、憲法十七条に「篤く憲法を敬え」と
謳われることになっているのです。

 さらには既出の道世の『法苑珠林』十悪篇邪見部感応縁の魏崔浩条に記された内容は驚くほど『日本書紀』の
記事と一致している、というのです。