大国主の誕生468 ―臣から連への時代⑥肥前国風土記の伝承―
美具久留御魂神社は別名を和邇神社(わに神社)といいます。
ワニと言えば、『日本書紀』には事代主が八尋熊鰐(やひろわに)に化けて玉櫛媛(ミゾクイ媛とも)の
もとに通ってヒメタタライスズヒメをもうけた伝承が載せられていますが、美具久留御魂神社のワニは
大蛇のことだそうです。
そこであらためて大伴氏との関連を考えてみたくなります。と言うのも、『肥前国風土記』の松浦郡の
条に、大伴氏と大蛇が登場する弟日姫子(おとひめこ)の伝承が載るからです。
それは次のような伝承です。
鏡の渡
昔、宣化天皇の時代に、大伴狭手彦連(おおとものさでひこのむらじ)を派遣して任那を鎮め、また
百済を救援した。(註:大伴狭手彦は大伴金村の子)
狭手彦はこの勅命を受け朝鮮に渡るためこの村に来た際、篠原村の弟日姫子(おとひめこ)のもとを
訪れて妻にした。弟日姫子は日下部君らの祖である。
別れる日、狭手彦は弟日姫子に鏡を贈った。
弟日姫子が悲しみ、泣きながら栗川を渡った時に、もらった鏡の紐が切れて川に沈んでしまった。
そのために鏡の渡と名付けられた。
褶振の峯
大伴狭手彦連が任那に向けて船で発った時、弟日姫子がここに登って褶(婦人の装身用の布帛)を
振った。それで褶振の峯と名付けられた。
その弟日姫子であるが、狭手彦連と別れて五日が経った時、ひとりの男性が弟日姫子のもとを訪れ
るようになった。その者は毎晩訪ねてきて弟日姫子と寝て、夜明けとともに帰っていった。その姿や
顔立ちは狭手彦にそっくりであった。
弟日姫子はその男性の正体を知りたいと思い、続麻(うみお)を用意すると、密かに男性の裾に麻糸を
かけた。
男性が帰った後、麻糸を追っていくと褶振の峯にある沼にたどり着き、糸の先には蛇が眠っていた。
その蛇とは、体は人間で沼の底に沈み、頭は蛇で沼の岸辺にあった。
弟日姫子に気づいたのか蛇は人の姿に変わると、
「篠原の 弟姫の子ぞ さ一夜も 率寝(いね)てむ時(しだ)や 家にくださむ」
(篠原の村の弟姫よ、一夜でも共に寝た上で家に帰らせようぞ)
と、言った。
弟日姫子の侍女は急いで弟日姫子の家族にこのことを報せた。家族は大勢の人をつれて峯まで登って
みたが、蛇と弟日姫子の姿はもうなかった。
沼の底を覗いていると、人の遺骸があった。
みんなは、あれは弟日姫子にちがいない、と言い、峯の南に墓を造った。
このふたつの伝承にはいろいろ注目すべき点があります。
まず、弟日姫子を通して大伴氏と大蛇が登場することは、大伴氏が美具久留御魂神社との関連を
うかがわせること。
それに、弟日姫子が日下部氏の祖とあることです。
これは、大阪府堺市西区の日部神社が大伴氏の始祖である道臣命を祀ることとの関連をにおわせ
ます。
古代氏族に靭大伴部氏(ゆきのおおとべ氏)がいます。
靭大伴部氏は大伴氏から派生したとも、大伴氏が管轄する靭負部から興ったとも言われています。
『日本書紀』には天孫降臨に際して、大伴連の遠祖、天忍日命が天磐靭を背負った姿で登場するのも
大伴氏と靭負部との関係を示すものと考えられています。
他にも、ヤマトタケルが大伴武日連に靭部を賜る話が『日本書紀』に登場します。
靭負部は他にも白髪部靭負や刑部靭負、丹比靭負などがありますが、『豊後国風土記』の日田郡
靭編郷(ゆきあみの郷)の条には、日下部君らの祖、邑阿自(おおあし)が靭部として仕えたので、
邑阿自が住んだ村を靭負村というようになり、今は靭編郷というようになった、とあります。
このことから、日下部氏(日下部君)も直接管轄する靭負部を持っていたと考えられるのですが、
直木孝次郎(『日本古代の氏族と天皇』)は、日下部靭部を管轄する日下部君、刑部靭負を管轄する
火葦北国造ら靭部や靭負部を管轄する氏族たちを指揮下に置いたのが大伴連だと考察しています。
この考察は、大伴氏と日下部氏の関係についてのひとつの考察でもあると言えるでしょう。