小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

おまわりさんのお仕事

2018年10月22日 00時08分47秒 | 日記
2013年10月24日(木)(5歳6か月)


 単語の意味を理解するにはイメージが大切である。

 たとえば、僕自身の場合、幼い頃サラリーマンとセールスマンの
区別がなくごっちゃになっていた。

 これは、サラリーマンが何をする人なのか、セールスマンが何を
する人なのか、というイメージができなかったせいである。



 毎週木曜日の和泉中央ファミリーの帰り道、自転車に乗った
警察官がいた。

 それを見た春奈が、

 「フシンサがいないか回ってはるんやな」

 フシンサというのは不審者のことだ。まだ「フシンシャ」と
言えない春奈である。


 普通、子供が抱く警察のイメージと言えば、悪い人を捕まえる人、
とかじゃないのか?

 春奈にとって、おまわりさんとは不審者をいないか見回りをして
いる人らしい。

 それも間違ってはいないけども。


 実は春奈がそんなイメージを持っているのも理由がある。

 夏に保育所でお泊り保育があった時、夜におまわりさんが、

 「不審者はいませんか?」

と訪問してくれたからだ。


 つまりは、イメージというものは自身の実体験からくるものだ、と
いうことだ。

 言葉というものが、テキストなど目から覚えるより、人との会話の
場など耳から覚えた方が忘れないのも、「テキストを読む」という
体験よりも「人と話をする」という体験の方がよりインパクトの強い
体験だからである。

 だから、結局はいつも言っているように、人がいる環境によって
言葉が育つということなのである。

636 蘇我氏の登場 その2

2018年10月14日 01時28分09秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生636 -蘇我氏の登場 その2-


 そして、その死にまつわる『日本書紀』の不思議な記述です。
 継体天皇の没年は、『古事記』が、

 「天皇の御歳は四十三歳で、丁未の年の四月九日に崩御された」

と記しています。「丁未の年」とは西暦では527年です。

 一方、『日本書紀』は、

 「(継体天皇)二十五年の春二月に天皇は重い病にかかられた。丁未に天皇、磐余玉穂宮にて
崩御された。御年八十二歳」

とし、また継体天皇二十五年は辛亥の年と記しています。西暦にすると531年で、『古事記』と
4年の差が生じます。
唯一一致するのが「丁未」なのですが、これも『古事記』が「丁未の年」、『日本書紀』が
「丁未の日」としているのでその意味は大きく異なります。

 ところで、『日本書紀』が記す「継体天皇崩御は、継体天皇二十五年で辛亥の年」について
なのですが、これについて『日本書紀』は次のように記しているのです。

 「ある本には、天皇が二十八年に崩御されたとある。しかしながら本書が二十五年に崩御と記す
のは、本書を編纂するにあたって『百済本紀』の記事を参考にしたからである。それに書かれて
いることによれば辛亥の年に日本の天皇および皇太子と皇子がともに薨去したという。辛亥の年とは
二十五年にあたる」

 この文を読むと『日本書紀』が編纂された当時、継体天皇が在位28年の年に崩御したとする
記録が、(おそらく日本に)存在した、ということになります。
にもかかわらず、朝鮮半島の「百済本紀」に、「辛亥の年に日本の天皇と皇太子と皇子がともに
薨去した」という記事があるのでこちらを採択した、と記しているのです。

 これに関連して、奇妙なことがもうひとつ、聖徳太子の伝記としては最古のものとされる『上宮
聖徳法王帝説』の中にあります。

 ただ、これを紹介する前に継体朝以降の話をします。
 第26代天皇である継体天皇の後には、継体天皇の3人の御子が続いて即位しています。
 それは次のとおりです。

 27代安閑天皇
 28代宣化天皇
 29代欽明天皇

 なお、安閑・宣化天皇の生母は尾張連草香の娘、目子媛(メノコヒメ)で、欽明天皇の生母は
仁賢天皇の皇女、手白髪命です。つまり、安閑・宣化天皇と欽明天皇は異母兄弟というわけです。

 それでは『上宮聖徳法王帝説』ですが。
 この書の中には、第29代欽明天皇が在位四十一年の辛卯の年に崩御した、と書かれているのです。
 この辛卯の年とは西暦では571年にあたります。この年が在位41年目ということは、そこから
逆算すれば欽明天皇即位の年は、西暦531年。つまり継体天皇が崩御した辛亥の年なのです。
 すると、安閑天皇と宣化天皇の在位期間がなくなってしまうわけのです。

 ちなみに『日本書紀』では、欽明天皇崩御の年は欽明天皇三十二年のことになっています。仮にこの
欽明天皇三十二年が辛卯の年(西暦571年)ならば、即位の年は西暦539年ということになります
(即位の翌年が欽明天皇元年になります)。
 『日本書紀』では、安閑天皇の在位は3年、宣化天皇の在位は5年となっています。
 これを西暦に置き換えると、

 531年。継体天皇崩御。安閑天皇即位。
 533年。安閑天皇崩御。宣化天皇即位。
 537年。宣化天皇崩御。欽明天皇即位。
 569年。欽明天皇崩御。

ということになり、欽明天皇崩御の年が辛卯の年(西暦571年)より2年ずれてしまうことになり
ます。
 一方、『古事記』は、継体天皇崩御が丁未の年(西暦527年)で安閑天皇崩御が乙卯の年(西暦535年)と
しているのです。
 これだと安閑天皇の在位は9年ということになってしまうわけですが、しかし、これを西暦に置き換え
、さらに欽明天皇の治世を『日本書紀』が記すとおり32年としたならば次のようになります。

 527年。継体天皇崩御。安閑天皇即位。
 535年。安閑天皇崩御。宣化天皇即位。
 539年。宣化天皇崩御。欽明天皇即位。
 571年。欽明天皇崩御。(欽明天皇三十二年)

 このように欽明天皇崩御を辛卯の年(西暦571年)とする『上宮聖徳法王帝説』と合致します。
 『日本書紀』の編纂スタッフもこのことに当然気づいていたと思うのですが、なぜか「百済本紀」の
継体天皇崩御の年は辛亥の年(西暦531年)とする記事を採用するのです。
 「なぜか」と疑問形にしたのは「百済本紀」の記事があまりにも不穏だからです。「日本の天皇と
皇太子と皇子がともに薨去した」という記事はクーデターによる暗殺を疑わせるものです。
 それは『日本書紀』の編纂スタッフが「あえて疑わせるようにした」からなのかもしれません。

635 蘇我氏の登場 その1

2018年10月08日 00時44分34秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生635 -蘇我氏の登場 その1-


 前章の最後にふれたように、神武天皇からはじまる皇統は25代武烈天皇で途切れてしまった
のです。それまでにも子をなすことができなかった天皇はいましたがその場合には近親者が皇位を
継いでいました。ところが、武烈天皇が崩御した時には男性の近親者が誰もいないという状況に
なっていたのです。
 そこで朝廷は応神天皇五世の孫だという男大迹王(オヲド王)を新天皇に選んだのでした。
26代継体天皇です。

 継体天皇の即位とその崩御については以前に採り上げたのですが、時間がたってしまいましたし
少しおさらいをしてみたいと思います。

 王統が途絶えてしまったために遠縁のオヲド王が新天皇に選ばれた、と今しがた言いましたが、
実のところ『日本書紀』には、最初からオヲド王が新天皇として選ばれたわけではなく、はじめは
丹波国桑田郡にいる、第14代仲哀天皇五世の孫、倭彦王(ヤマトヒコ王)を新天皇に迎えることに
なった、と書かれています。
 倭彦王を推したのは、大連であった大伴金村でした。朝廷も金村の意見に従って使者に軍勢を
つけて倭彦王のもとに派遣しました。
 ところが、この軍勢を遠目に見た倭彦王は自分を攻めに来たものと思い込んで逃亡してしまった
のです。
 結果、このような臆病者では天皇としての資質に欠ける、ということで新たに候補として浮上した
のがオヲド王だったのです。オヲド王を推したのもまた大伴金村でした。

 オヲド王については『古事記』、『日本書紀』がともに、応神天皇五世の孫である、と記して
います。

 ただし、その本拠については記紀で異なる記述をしています。
 まず『古事記』の方は、

 「品太天皇五世の孫、袁本杼命、近淡海国より上り坐さしめて・・・」

と、近江にいた、としているのですが、これに対して、『日本書紀』の方は、

 「天皇の父、彦主人王(ヒコウシ王)は振媛がたいそう美人であると聞いて、近江国高嶋郡の三尾の
別業より使者を遣わして、三国の坂中井に媛を迎えて妃とした。そうして継体天皇が生まれた」

と、オヲド王が近江の出身であるとする記述に続いて、オヲド王が幼少の頃の父王が亡くなったため
オヲド王の母は故郷である越前国坂井郡高向に帰り、その地でオヲド王を育てたと書かれているのです。
 つまりは、『古事記』は、オヲド王は近江にいた、とし、『日本書紀』の方は越前にいた、として
いるわけです。
 もっとも、このことに関してはオオド王の版図が越前から近江にまたがる広い版図を有していたものと
考える研究者も少なくないようです。


 こうした事情を経て朝廷の使者がオヲド王のもとに送られますが、使者を応対したオヲド王のこの時の
様子を『日本書紀』は次のように記しています。

 「男大迹王天皇、晏然に自若して、胡坐に踞坐す。陪臣をととのえ列ねて、すでに帝の坐すが如し。
しるしを持つ使等、これによりて敬憚りて心を傾け命を委せて忠誠を盡さむことを願う(オオド王は
泰然と座られ、すでに天皇の風格をまとわれておられた。使者たちは眼前にあって、敬いの気持ちと
命をかけての忠誠を誓う決心をした)」

 まさしく「帝王」たる資質を有した人物であった、と言うかのごとき記述なのですが、『古事記』の
方はオヲド王を新天皇に迎えるにあたって次のように記しているのです。

 「品太天皇五世の孫、袁本杼命、近淡海国より上り坐さしめて、手白髪命に合わせて、天の下を授け
奉りき。(応神天皇五世の孫、オオドノミコトを近江国から上京させ、仁賢天皇の皇女の手白髪命と結婚
させて天皇の位を授けた)」

 こちらの記述からは『日本書紀』のように三顧の礼で迎えたとするものと大きく異なった印象を受け
ます。
 『古事記』の記述は、大和政権が入り婿の形でオヲド王を迎えて天皇の位に就けた、というものなの
です。
 しかし、『日本書紀』からでも、やはり皆から望まれてオヲド王が新天皇として迎えられたわけでは
なさそうだ、と思われるのです。

 と、言うのもオヲド王が新天皇として即位したのは河内の樟葉宮(現在の大阪府枚方市楠葉に比定)で、
その後筒木宮(京都府京田辺市にあったと推定)、弟国宮(京都府長岡京市にあったと推定)と遷り、
最終的に大和の磐余の玉穂(奈良県桜井市)に都を遷してようやく大和入りを果たしたのは即位してから
実に20年後のことだったのです。

 なぜ要請を受けてからすぐに大和入りしなかったのか?あるいは大和入りができない理由があったのか?
 この辺りの解釈は研究者たちの間でも様々なのですが、「大和入りをしなかった(できたのだけども
あえて大和入りをしなかった)」と考える人たちは、慎重に事を動かそうとした継体天皇が。大和の手前に
留まって実情を調査しようとしたため、と考えます。
 また、あえて大和入りしないことで朝廷の諸豪族を焦らし、度重なる要請によりようやく大和入りをした、
という「三顧の礼」の形にもっていくための作戦とする説などがあります。
 しかし、大和入りに20年かけたというのはいくらなんでも長すぎます。
 「大和入りができなかった」とする研究者たちの考え方は、大和政権側に、オヲド王の即位に反対する
勢力が少なからず存在していたため、というものです。もし、当初オヲド王に樟葉にて大和の実情を探ろうと
していた、とする説を採用するにしても、結果、対抗勢力が侮れないものと判断したため大和入りを延期した、
と推測することもできます。つまりは結局のところ大和入りは難しいと判断されたということです。

 もうひとつ、大和入りが困難だった、と考えられる理由のひとつが継体天皇の年齢です。
 オヲド王が大和からの要請を受けて樟葉宮で継体天皇として即位したのが、継体天皇57歳のこと。つまり
大和入りを果たしたのは継体天皇が77歳のことだったのです。
 現代においても高齢と言うべき年齢になっていたわけで、まして当時で考えると年齢的には異常に遅い
大和入りだということがお分かりでしょう。

 さらには、継体天皇の死においても、やはり異常なものを感じざるを得ないのです。