小春奈日和

赤ちゃんは、人間は、どのように言葉を獲得するの?
わが家の3女春奈と言葉の成長日記です。

泣くのなら止めてみせようホトトギス

2012年11月30日 02時04分13秒 | 日記
2010年1月27日(水)(1歳9か月)


 さあ、もうお風呂だ、という時分に春奈がおもちゃ箱から
おもちゃを出そうとするので、

 「はる、もう風呂の時間やで。おもちゃはなし」

と、制すると、泣きそうなそぶりを見せた。

 まずい。泣き出すと鎮めるのが厄介だ。

 「もう風呂やからな、片付けせんなな。また明日遊ぼうな」

 などと諭すと、春奈も頷いて、泣くのをこらえた。

 ちょっと感心した。

 だいぶこちらの言っていることを理解し、理性と行動に反射
するようになってきている。

 赤ん坊は欲求だけで生きている、とよく言うけど、さすがに
1歳も9か月になり、感情をコントロールできるようになった
ようだ。

 でも、それができるということは、こちらの言ったことから、
「どうしておもちゃで遊んじゃダメなのか」というところを
汲み取ってたからにちがいない。

 それだけ言葉の理解力がついてきた証拠なんだろうな。

やっぱり行動もマネッコ

2012年11月29日 07時27分56秒 | 日記
2010年1月26日(火)(1歳9か月)


 風呂が沸いたから、ゆうきとりえが風呂に入る。

 寒いものだから、ゆうきはリビングで服を脱いで
から風呂場に行くけど、その時、ゆうきが脱ぎ捨て
て行った服を指さして、春奈が、

 「もってってー」

と、言う。

 洗濯かごに入れろ、と言っている。

 さらに、キッチンで水を使っているみんたに向
かって、自分が使った茶碗を渡して、

 「これ(水)かけてー」

と、言う。

 春奈けっこうキッチリ屋さん。

 先日誰も教えていないのに、使用した洗面器を
下向きにして腰掛の上に乗せていたけど、やっぱり
周囲の人の行動をよく見てマネっこしているようだ。

お誘いのことば

2012年11月28日 07時16分37秒 | 日記
2010年1月25日(月)(1歳9か月)


 春奈が僕の本を手にとって、

 「パパの?」

と、訊いてきた。

 「誰誰の?」という質問のしかたをゲットした
ようだ。


 みんたから、

 「はるー、お風呂入りよー」

と、言われた春奈が僕の手を取って、

 「行こか」

と、言ってきた。

 何か立場が逆のような気がする・・・。

 それはまあいいか、と思っていたけど、その後、

 「はるー、寝よか」

と、みんたに言われた時、すたこらと寝室の方に
歩いて行って、

 「ママー、ねんね行こうよー」

 誘い方にバリエーションが生まれている。

ちょっときつい調子で

2012年11月27日 00時42分47秒 | 日記
2010年1月24日(日)(1歳9か月)

 
 リビングで、座って新聞を読んでいると、春奈が僕の肩を
ポンポンと叩いた。

 肩車を要求していているようだ。

 仕方がないから肩車をしてやる。


 今度はみんたの足に抱きついて、

 「おもい、して」

と、春奈が言った。抱っこして、と要求している。

 みんたが春奈を抱っこする時に、いつも「重たい」と
言っているから「おもい」なのか?


 その後、車に乗ってみんなで外出し、家に帰って戻って来た時、
チャイルドシートの春奈が、

 「ついたよ、ママ、ついたよ」

と、言った。

 けど、隣の席でみんたは携帯のメールに夢中で返事をしない。

 すると、

 「ついたよ、ママ、家ついたよ!」

と、今度はちょっときつい口調で春奈が言った。

 無視されてカチンときたか?

 あと2か月ちょっとで2歳。これから言葉にも喜怒哀楽が
ハッキリと出てくるんやろうな。

58 モモソヒメと印南の別嬢

2012年11月27日 00時34分31秒 | 大国主の誕生
大国主の誕生58 ―モモソヒメと印南の別嬢―


 それから、香久山の土の呪術についてですが、『日本書紀』の中に、紀州から
再び大和に入った神武天皇が、八十建(やそたける=日本書紀では八十梟帥と
表記)を討伐する時に、天皇の夢の中に天つ神が現れて、
 「天の香具山の社の土を取りて天の平瓫(あめのひらか)80枚を作り、同時
に厳瓫(いつくへ=神酒を入れる瓶)を神に供えよ。その上で厳呪詛(いつのか
しり=呪術のひとつ)を行えば敵はおのずから伏する」
と、お告げをくだし、同時に、帰順した大和のオトウカシも天皇の元にやって来て、
 「天の香具山の社の土で天の平瓫を作り神々にお供えすれば必ず敵を打ち破る
ことができることでしょう」
と、夢のお告げと同じことを進言したので、神武天皇はオトウカシとサオネツヒコ
のふたりを天の香具山に行かせる場面があります。
 このことから、その土地の土で瓫を作ることがそこの占有につながることがうか
がえます。
 そう言えば、オオクニヌシが背負っている袋の中身も土であったことが、『播磨
国風土記』の神前郡の項に出てきます。
 藤村由加(『古事記の暗号』)は、この土を陶器づくりと関連づけていますが、
オオクニヌシが土を所有していることの原型には土地の占有(国占め)の思想があ
るのかもしれません。

 さて、タケハニヤスビコ討伐のエピソードは、オオビコが少女の歌を耳にするこ
とから始まっていきますが、討伐に向かったのは丸邇(わに)氏の祖ヒコクニブク
で、オオビコやその子タケヌナカワワケは関係していません。
 ですが、少女の歌は、神のお告げのようなもので、それを聞いたのがオオビコ、
さらにその意味を解釈したのが『日本書紀』によればモモソヒメとあり、ここに
オオビコ・タケヌナカワワケを始祖とする安倍氏とオオモノヌシの関連が見て取
ることができます。
 と、言うのも、『日本書紀』には、孝元天皇とウツシシコメとの間に生まれた子
として、
オオビコ、オオビビの命(後の開化天皇)、ヤマトトトヒメノミコト(倭迹迹姫命)
の3名を記しているのですが(『古事記』にはヤマトトトヒメの名は出てきません)、
本居宣長が、この姫はヤマトトトヒモモソヒメと同一人物であり、その出生について
は、7代孝霊天皇の皇女説と8代孝元天皇の皇女説の2つがあったのだと唱えて以来、
岩波古典文学大系『日本書紀』もそれに倣っています。

 それはどういうことになるのか、と言うと、次のようになります。
 崇神天皇の時代に疫病が流行し、これが神の祟りだということで、天照大神を宮中
から笠縫邑に遷し、倭大国魂神をイチシノナガオチに、オオモノヌシをオオタタネコ
に祀らせたこと、そして丹波の氷上刀辺の子の神託と美具久留御魂神の祭祀、これら
の一連の出来事に吉備氏と阿倍氏も無関係ではなかったことになるのです。

 ヤマトタケルは、景行天皇と吉備臣ワカタケヒコの娘ハリマノイナビの大郎女との
間に生まれたと『古事記』に記されていますが、『播磨国風土記』の賀古郡の項には、
景行天皇が大郎女を妻問した時のエピソードが描かれています。
 ここでは大郎女を印南の別嬢(いなみのわきいらつめ)と記していますが、別嬢へ
の求婚に、天皇は播磨国賀毛郡の山直(やまのあたい)等の祖オキナガノミコト
(息長命)を仲介役にしますが、別嬢は畏れかしこみ、ナビツマ島に隠れてしまいま
す。そこで天皇も島に渡り、妻問することができるのですが、別嬢には、床掃え
(とこはらえ=寝所の清掃や設備などの奉祀する侍女)として、出雲臣比須良比売
(ヒスラヒメ)という女性が仕えており、天皇はこの出雲臣ヒスラヒメをオキナガの
命の妻にした、とあります。

 その『播磨国風土記』の印南郡の項には別の話を載せています。
 政務天皇(景行天皇の子)が国の境界を定めるために、丸邇臣などの祖ヒコナムチ
(比古汝茅)を遣わした時に、吉備比古(キビヒコ)と吉備比売(キビヒメ)が迎え
ますが、このキビヒメをヒコナムチが妻にして生まれたのが印南の別嬢というのです。
 ここでは別嬢の父親が丸邇氏のヒコナムチとなっており、丸邇氏と吉備氏の間に生
まれたことになっているのです。
 それと、別嬢の床掃えに、出雲臣の子女が仕えていたとありますから、タケハニヤ
スビコの反乱を鎮圧した丸邇氏と、吉備氏との間に生まれたことになっていますが、
景行天皇の子の時代の物語なら年代にズレが生じてしまうのですが。


・・・つづく